22.平野区をあるく(大阪) [ウォーキング大阪24区]
「平野区をあるく」に参加してきました。(20181225)
大念仏寺
大阪平野区の歴史的な街並みを歩いてきました。
当日は晴れ、最高気温12.3℃。気持ち良いウォーキングになりました。
集合場所長吉東部中央公園を出発して、志紀長吉神社、川辺八幡神社、小松神社、敬正寺、瓜破天神社を経由して瓜破霊園まで歩きます。
集合場所の長吉東部中央公園を出発して志紀長吉神社に向かいます。
志紀長吉神社(しきながよしじんじゃ)
延喜式内の神社で祭神は長江襲津彦命、事代主命の二座である。明治5年に旧郷社に列せられたころは、旧長吉、瓜破、恵我、大正、藤井寺の各村の総氏神であったが、現在は長吉一円の氏神である。大坂夏の陣のとき、豊臣方の武将真田幸村がこの神社に刀剣と軍旗を奉納して戦勝を祈願したと伝えられ、刀剣は第2次世界大戦後、占領軍の命令で没収されたが、軍旗は今も神社に保存されている。麻布で、「真田の六文銭」がくっきりと描かれているそうです。
気持ち良い佇まいの街並みを歩きます。
川辺八幡神社(かわなべはちまんじんじゃ)
創建の年月不詳であるが、石清水八幡宮の分霊を勧請したものと伝わる。往時は、社殿も壮大で社領も広く、いまの境外地字垣添の全部を包容し、社領も4町歩以上におよんだが、1704年の大和川付け替え工事よって立ち退きを余儀なくされ、社領地の大部分がその川床となった。明治5年村社に指定された。境内の楠の木には黒い龍が宿るという伝承があり、推定樹齢300年以上で大阪市の保存樹に指定されている。また、毎年9月の秋祭には大和川に御輿を担ぎ入れる「足洗い」神事に併せて仕掛け花火と打上げ花火が行なわれ、秋の川面を彩るそうです。
大和川の堤防を歩きます。
川辺大和川公園で少し休憩後、瓜破霊園に向かいます。
小松神社( こまつじんじゃ)
「瓜破の古書「船戸録」によると、この地に源氏の武士権守宗重の一子で湯浅七郎兵衛宗光という人が住んでいた。この宗光が安元の戦いの際、平重盛に危い命を助けられたことがあった。その後、平重盛は紀州の熊野浦に入水してこの世を去った。このことを知った宗光は報恩のため自己所有の土地を寄進し、社殿を建て、その霊を祀り小松大明神と名付けられた。その後、小松大明神は本郷の氏神さまとして郷民たちの信仰を集めるようになった。元来、この神社は当地の南西方向に位置していたが鉄道敷にかかったため天神社に合祀されていたものを、南之町の有志によりこの地に社を昭和22年に建立し、祀ることにされたそうです。
敬正寺(きょうしょうじ)
大化年間(645~649年)道昭法師により創建された永楽寺の遺跡といわれ、永楽寺の本尊五智如来(五輪仏)のうち2体の石像が安置されている。右側の大きい方が大日如来で、左側が阿弥陀如来である。豊かな頬をして落ち着いた像容から、制作年代は平安後期までさかのぼるものと推定されている。大日如来には生駒山の花崗岩、阿弥陀如来は二上山の安山岩が用いられており、府の有形文化財に指定されているそうです。
(写真はネットから引用させていただきました)
瓜破天神社(うりわりてんじんじゃ)
僧道昭がこの地で修行中天神の霊像が出現した。そこで瓜を割って供えたが、この伝承が瓜破という地名の起源のひとつといわれている。道昭は、当地の出身と伝えられ白雉4年(653年)遣唐使に従って入唐し、玄弉三蔵の教えを受け、帰国後諸国を遍歴して庶民に慕われたことが、続日本紀にみられるそうです。
瓜破霊園で昼食休憩になりました。
昼食休憩後、八坂神社、如願寺、楯原神社、平野公園、全興寺、長實寺、大念仏寺を経由して地下鉄平野駅まで歩きました。
八坂神社(やさかじんじゃ)
東喜連村の氏神で素盞鳴尊を祀り、八坂神社と称していたが、嘉永年間に忍坂大中姫命(允恭天皇の皇后)を祀る媛天神を合祀して東西神社となった。改称は、合祀により氏子が東西喜連村にまたがることになったので、東西の二字をとった。明治42年12月、天神・東西・春日の三社は現在の楯原神社に合祀されていたが、氏子の決議にもとづき再び八坂神社とした。昭和26年7月、東喜連氏子の要望により、東西社・春日社を元の東喜連に分離移転し、同時に地域の氏子も別れることとなったそうです。
如願寺(にょがんじ)
崇峻天皇元年(588年)聖徳太子の創建として、もと喜連寺といわれた。阿弥陀寺・弥勒寺など四方に荘厳な諸堂が建てられた大伽藍であったがその後、弘法大師により再建、如願寺と改められた。本尊聖観世音菩薩は平安時代の作で、大阪府有形文化財に指定されており、摂津国三十三所観音霊場の第三十二番札所でもあるそうです。
楯原神社は如願寺の横にありました。
楯原神社(たてはらじんじゃ)
神社の歴史はきわめて古く、崇神天皇の頃初めて祀られたといわれる延喜式内の古社であり、祭神は武甕槌大神と大国主大神である。また、神武天皇が国内平定に用いられた十握の劒を祀ったと社伝にある。もと、字楯原(現在の喜連西1)にあったが、兵火にあい現在の地に移ったそうです。
平野公園で少し休憩になりました。
この後、大念仏寺に向かいます。
全興寺(せんこうじ)
平野がまだ広々とした野であったころ、ここに薬師堂が建てられ、そこを中心に人が住みはじめ、平野の町がしだいに広がっていったといわれる。本尊は薬師如来で、聖徳太子の作と伝えられている。また、当寺には、真田幸村が樋之尻口の地蔵堂に仕掛けた地雷によって飛来したという伝説をもつ「首の地蔵尊」や湛慶作と伝えられる「太子の像」がある。境内には、「地獄堂」や「水琴窟」「駄菓子屋さん博物館」もあり、見どころが多いそうです。
長宝寺(ちょうほうじ)
桓武天皇の妃であった坂上春子姫が、平安時代初めの大同年間(806~810年)に出家して開いた高野山真言宗の寺院であり、坂上家の氏寺でもあります。境内の銅鐘は鎌倉時代の代表的な作で重要文化財に指定されています。また、室町時代に当寺の慶心と言う尼さんが地獄へ行って戻り、その様子を記した「よみかえりの草紙」や閻魔王が自ら刻んだという閻魔像と「宝印」が寺に伝わり、毎年5月18日のご開帳の時、おでこに閻魔様の「宝印」を押してもらえば極楽へ行けると伝えられているそうです。
大念仏寺(だいねんぶつじ)
融通念仏宗の総本山で、大治2年(1127年) 聖応大師(良忍上人)が建立したものである。当寺には国宝「毛詩鄭箋残巻」、重要文化財「融通念仏勘進帳」等があり、総本山特別行事として1・5・9月のそれぞれ16日に百万遍会(大数珠くり)、5月1日~5日の阿弥陀経万部会(万部おねり)はことに有名である。また、本堂は、木造の建物では大阪府下最大だそうです。
この後、地下鉄平野駅まで歩きました。
今回が今年最後のウォーキング記録になります。
一年間ありがとうございました。
どうぞ、良いお年をお迎えください。 来年もよろしくお願いいたします。
ご訪問していただきありがとうございました。
大念仏寺
大阪平野区の歴史的な街並みを歩いてきました。
当日は晴れ、最高気温12.3℃。気持ち良いウォーキングになりました。
集合場所長吉東部中央公園を出発して、志紀長吉神社、川辺八幡神社、小松神社、敬正寺、瓜破天神社を経由して瓜破霊園まで歩きます。
集合場所の長吉東部中央公園を出発して志紀長吉神社に向かいます。
志紀長吉神社(しきながよしじんじゃ)
延喜式内の神社で祭神は長江襲津彦命、事代主命の二座である。明治5年に旧郷社に列せられたころは、旧長吉、瓜破、恵我、大正、藤井寺の各村の総氏神であったが、現在は長吉一円の氏神である。大坂夏の陣のとき、豊臣方の武将真田幸村がこの神社に刀剣と軍旗を奉納して戦勝を祈願したと伝えられ、刀剣は第2次世界大戦後、占領軍の命令で没収されたが、軍旗は今も神社に保存されている。麻布で、「真田の六文銭」がくっきりと描かれているそうです。
気持ち良い佇まいの街並みを歩きます。
川辺八幡神社(かわなべはちまんじんじゃ)
創建の年月不詳であるが、石清水八幡宮の分霊を勧請したものと伝わる。往時は、社殿も壮大で社領も広く、いまの境外地字垣添の全部を包容し、社領も4町歩以上におよんだが、1704年の大和川付け替え工事よって立ち退きを余儀なくされ、社領地の大部分がその川床となった。明治5年村社に指定された。境内の楠の木には黒い龍が宿るという伝承があり、推定樹齢300年以上で大阪市の保存樹に指定されている。また、毎年9月の秋祭には大和川に御輿を担ぎ入れる「足洗い」神事に併せて仕掛け花火と打上げ花火が行なわれ、秋の川面を彩るそうです。
大和川の堤防を歩きます。
川辺大和川公園で少し休憩後、瓜破霊園に向かいます。
小松神社( こまつじんじゃ)
「瓜破の古書「船戸録」によると、この地に源氏の武士権守宗重の一子で湯浅七郎兵衛宗光という人が住んでいた。この宗光が安元の戦いの際、平重盛に危い命を助けられたことがあった。その後、平重盛は紀州の熊野浦に入水してこの世を去った。このことを知った宗光は報恩のため自己所有の土地を寄進し、社殿を建て、その霊を祀り小松大明神と名付けられた。その後、小松大明神は本郷の氏神さまとして郷民たちの信仰を集めるようになった。元来、この神社は当地の南西方向に位置していたが鉄道敷にかかったため天神社に合祀されていたものを、南之町の有志によりこの地に社を昭和22年に建立し、祀ることにされたそうです。
敬正寺(きょうしょうじ)
大化年間(645~649年)道昭法師により創建された永楽寺の遺跡といわれ、永楽寺の本尊五智如来(五輪仏)のうち2体の石像が安置されている。右側の大きい方が大日如来で、左側が阿弥陀如来である。豊かな頬をして落ち着いた像容から、制作年代は平安後期までさかのぼるものと推定されている。大日如来には生駒山の花崗岩、阿弥陀如来は二上山の安山岩が用いられており、府の有形文化財に指定されているそうです。
(写真はネットから引用させていただきました)
瓜破天神社(うりわりてんじんじゃ)
僧道昭がこの地で修行中天神の霊像が出現した。そこで瓜を割って供えたが、この伝承が瓜破という地名の起源のひとつといわれている。道昭は、当地の出身と伝えられ白雉4年(653年)遣唐使に従って入唐し、玄弉三蔵の教えを受け、帰国後諸国を遍歴して庶民に慕われたことが、続日本紀にみられるそうです。
瓜破霊園で昼食休憩になりました。
昼食休憩後、八坂神社、如願寺、楯原神社、平野公園、全興寺、長實寺、大念仏寺を経由して地下鉄平野駅まで歩きました。
八坂神社(やさかじんじゃ)
東喜連村の氏神で素盞鳴尊を祀り、八坂神社と称していたが、嘉永年間に忍坂大中姫命(允恭天皇の皇后)を祀る媛天神を合祀して東西神社となった。改称は、合祀により氏子が東西喜連村にまたがることになったので、東西の二字をとった。明治42年12月、天神・東西・春日の三社は現在の楯原神社に合祀されていたが、氏子の決議にもとづき再び八坂神社とした。昭和26年7月、東喜連氏子の要望により、東西社・春日社を元の東喜連に分離移転し、同時に地域の氏子も別れることとなったそうです。
如願寺(にょがんじ)
崇峻天皇元年(588年)聖徳太子の創建として、もと喜連寺といわれた。阿弥陀寺・弥勒寺など四方に荘厳な諸堂が建てられた大伽藍であったがその後、弘法大師により再建、如願寺と改められた。本尊聖観世音菩薩は平安時代の作で、大阪府有形文化財に指定されており、摂津国三十三所観音霊場の第三十二番札所でもあるそうです。
楯原神社は如願寺の横にありました。
楯原神社(たてはらじんじゃ)
神社の歴史はきわめて古く、崇神天皇の頃初めて祀られたといわれる延喜式内の古社であり、祭神は武甕槌大神と大国主大神である。また、神武天皇が国内平定に用いられた十握の劒を祀ったと社伝にある。もと、字楯原(現在の喜連西1)にあったが、兵火にあい現在の地に移ったそうです。
平野公園で少し休憩になりました。
この後、大念仏寺に向かいます。
全興寺(せんこうじ)
平野がまだ広々とした野であったころ、ここに薬師堂が建てられ、そこを中心に人が住みはじめ、平野の町がしだいに広がっていったといわれる。本尊は薬師如来で、聖徳太子の作と伝えられている。また、当寺には、真田幸村が樋之尻口の地蔵堂に仕掛けた地雷によって飛来したという伝説をもつ「首の地蔵尊」や湛慶作と伝えられる「太子の像」がある。境内には、「地獄堂」や「水琴窟」「駄菓子屋さん博物館」もあり、見どころが多いそうです。
長宝寺(ちょうほうじ)
桓武天皇の妃であった坂上春子姫が、平安時代初めの大同年間(806~810年)に出家して開いた高野山真言宗の寺院であり、坂上家の氏寺でもあります。境内の銅鐘は鎌倉時代の代表的な作で重要文化財に指定されています。また、室町時代に当寺の慶心と言う尼さんが地獄へ行って戻り、その様子を記した「よみかえりの草紙」や閻魔王が自ら刻んだという閻魔像と「宝印」が寺に伝わり、毎年5月18日のご開帳の時、おでこに閻魔様の「宝印」を押してもらえば極楽へ行けると伝えられているそうです。
大念仏寺(だいねんぶつじ)
融通念仏宗の総本山で、大治2年(1127年) 聖応大師(良忍上人)が建立したものである。当寺には国宝「毛詩鄭箋残巻」、重要文化財「融通念仏勘進帳」等があり、総本山特別行事として1・5・9月のそれぞれ16日に百万遍会(大数珠くり)、5月1日~5日の阿弥陀経万部会(万部おねり)はことに有名である。また、本堂は、木造の建物では大阪府下最大だそうです。
この後、地下鉄平野駅まで歩きました。
今回が今年最後のウォーキング記録になります。
一年間ありがとうございました。
どうぞ、良いお年をお迎えください。 来年もよろしくお願いいたします。
ご訪問していただきありがとうございました。
水都なにわ と いにしえの熊野街道(大阪市) [ウォーキング大阪市]
「水都なにわ と いにしえの熊野街道」に参加してきました。(20181223)
道頓堀
大阪の歴史的な街並み、熊野街道などを歩いてきました。
当日は曇り、晴れ、最高気温16.2℃。気持ち良いウォーキングになりました。
集合場所扇町公園を出発して、大阪天満宮、八軒家浜、熊野街道、榎木大明神、空堀商店街、とんぼりリバーウォークを経由して日吉公園まで歩きます。
集合場所の扇町公園
扇町公園を出発して、天神橋筋商店街を歩きます。
大阪天満宮(おおさかてんまんぐう)
菅原道真公が祭られている大阪天満宮は大阪市民からは「天満(てんま)の天神さん」と呼ばれ親しまれています。 年末年始や受験、梅見のシーズンには、多くの参拝者で賑わい、境内北側の星合池(通称亀の池)周辺の梅林などに合計約100本の梅の木があるそうです。
天神橋を渡ります。
八軒家浜(はちけんやはま)
八軒屋浜は、京都・伏見と大阪を結ぶ三十石船の発着場で舟運の拠点としてにぎわった場所だそうです。
熊野街道の出発地点です。
熊野街道を歩きます。
熊野街道(くまのかいどう)
熊野街道は大阪天満の八軒家浜を起点として和歌山の熊野三山に至る街道です。
榎木大明神(なつきだいみょうじん)
御祓い筋(熊野街道)と長堀通りの角を北に、石段を登ったところにあります。このあたりは第2次大戦の空襲でも焼け残った古い家屋がまだ残っています。榎木大明神ですから榎(えのき)の木があると思いますが、実は、槐(えんじゅ)です。槐(えんじゅ)は、マメ科の落葉高木で、中国が原産。古くから台湾、日本、韓国などで植栽されている樹木です。巳さん(白蛇)を祀っているそうです。
空堀商店街を通過します。
とんぼりリバーウォークを歩きます。
港町リバープレイスを通過して日吉公園に向かいます。
日吉公園で昼食休憩になりました。
昼食休憩後、川口基督教会、大阪中央卸売市場を経由して野田駅まで歩きました。
京セラドーム大阪を臨みます。
木津川沿いを歩きます。
川口基督教会(かわぐちきりすときょうかい)
明治初期に創設された教会で、川口に外国人居留地が設置され、多くの外国人が居住。長崎から大阪にやってきた米国聖公会宣教師が英学講義所の開講と英語での礼拝を始めたそうです。
大阪中央卸売市場の東側を通過します。
この後、野田駅まで歩きました。
Niceボタンをクローズさせていただきました。
ご訪問していただきありがとうございました。
道頓堀
大阪の歴史的な街並み、熊野街道などを歩いてきました。
当日は曇り、晴れ、最高気温16.2℃。気持ち良いウォーキングになりました。
集合場所扇町公園を出発して、大阪天満宮、八軒家浜、熊野街道、榎木大明神、空堀商店街、とんぼりリバーウォークを経由して日吉公園まで歩きます。
集合場所の扇町公園
扇町公園を出発して、天神橋筋商店街を歩きます。
大阪天満宮(おおさかてんまんぐう)
菅原道真公が祭られている大阪天満宮は大阪市民からは「天満(てんま)の天神さん」と呼ばれ親しまれています。 年末年始や受験、梅見のシーズンには、多くの参拝者で賑わい、境内北側の星合池(通称亀の池)周辺の梅林などに合計約100本の梅の木があるそうです。
天神橋を渡ります。
八軒家浜(はちけんやはま)
八軒屋浜は、京都・伏見と大阪を結ぶ三十石船の発着場で舟運の拠点としてにぎわった場所だそうです。
熊野街道の出発地点です。
熊野街道を歩きます。
熊野街道(くまのかいどう)
熊野街道は大阪天満の八軒家浜を起点として和歌山の熊野三山に至る街道です。
榎木大明神(なつきだいみょうじん)
御祓い筋(熊野街道)と長堀通りの角を北に、石段を登ったところにあります。このあたりは第2次大戦の空襲でも焼け残った古い家屋がまだ残っています。榎木大明神ですから榎(えのき)の木があると思いますが、実は、槐(えんじゅ)です。槐(えんじゅ)は、マメ科の落葉高木で、中国が原産。古くから台湾、日本、韓国などで植栽されている樹木です。巳さん(白蛇)を祀っているそうです。
空堀商店街を通過します。
とんぼりリバーウォークを歩きます。
港町リバープレイスを通過して日吉公園に向かいます。
日吉公園で昼食休憩になりました。
昼食休憩後、川口基督教会、大阪中央卸売市場を経由して野田駅まで歩きました。
京セラドーム大阪を臨みます。
木津川沿いを歩きます。
川口基督教会(かわぐちきりすときょうかい)
明治初期に創設された教会で、川口に外国人居留地が設置され、多くの外国人が居住。長崎から大阪にやってきた米国聖公会宣教師が英学講義所の開講と英語での礼拝を始めたそうです。
大阪中央卸売市場の東側を通過します。
この後、野田駅まで歩きました。
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ご訪問していただきありがとうございました。
灘の酒造巡り(兵庫県) [ウォーキング兵庫県]
「灘の酒造巡り」に参加してきました。(20181219)
年末恒例の灘の酒造巡り、各酒造の試飲も楽しんできました。
当日は曇り、晴れ。気温13.2℃と楽しいウォーキングになりました。
JR灘駅近くの公園を出発して西郷川河口公園を経由して灘浜緑地まで歩きます。
JR灘駅近くの公園
摩耶海岸通を歩きます。
西郷川河口公園
今年は十月桜の花を少しだけ見かけました。
西求女塚古墳(にしもとめづかこふん)
従来は前方後円墳と考えられてきたが、1985年(昭和60年)以降継続的におこなわれている発掘調査の結果、古墳時代前期では最大級の前方後方墳であったことがわかり、墳丘に葺石をともなっていることが判明したそうです。
灘浜緑地に向かいます。
灘浜緑地
灘浜緑地で早い目の昼食休憩になりました。
昼食休憩の後は酒造巡りのため、グループに別れて時間をずらして出発します。
休憩後、甲南武庫の里を経由して神戸酒心館、白鶴酒造資料館、菊正宗酒造記念館、浜福鶴吟醸工房を経由して住吉駅まで歩きました。
甲南武庫の郷
平成7年の阪神淡路大震災で倒壊した甲南漬本店跡地に作られたコミュニティスペースだそうです。
処女塚古墳(おとめづかこふん)
築造年代は4世紀前半。1922年(大正11年)3月8日に国の史跡に指定。主に山陰系土器が出土しており石屋川流域に存在する郡家遺跡集落の一部とされている。所在地から西約2000mの位置にある西求女塚古墳、東約1500mの位置にある東求女塚古墳とともに、万葉集や大和物語などに登場する悲恋伝説(菟原処女の伝説)の舞台として知られているそうです。
神戸酒心館
福寿の「純米吟醸」はスウェーデン・ストックホルムで開催されるノーベル賞公式行事受賞式に提供されるそうです。
白鶴酒造資料館
菊正宗資料館に向かいます。
菊正宗資料館
浜福鶴吟醸工房
今年も浜福鶴吟醸工房の敷地内に日本水仙の花が綺麗に咲いていました。
各酒蔵で試飲させて頂いた後、ゴールのJR住吉駅まで歩きました。
Niceボタンをクローズさせていただきました。
ご訪問していただきありがとうございました。
年末恒例の灘の酒造巡り、各酒造の試飲も楽しんできました。
当日は曇り、晴れ。気温13.2℃と楽しいウォーキングになりました。
JR灘駅近くの公園を出発して西郷川河口公園を経由して灘浜緑地まで歩きます。
JR灘駅近くの公園
摩耶海岸通を歩きます。
西郷川河口公園
今年は十月桜の花を少しだけ見かけました。
西求女塚古墳(にしもとめづかこふん)
従来は前方後円墳と考えられてきたが、1985年(昭和60年)以降継続的におこなわれている発掘調査の結果、古墳時代前期では最大級の前方後方墳であったことがわかり、墳丘に葺石をともなっていることが判明したそうです。
灘浜緑地に向かいます。
灘浜緑地
灘浜緑地で早い目の昼食休憩になりました。
昼食休憩の後は酒造巡りのため、グループに別れて時間をずらして出発します。
休憩後、甲南武庫の里を経由して神戸酒心館、白鶴酒造資料館、菊正宗酒造記念館、浜福鶴吟醸工房を経由して住吉駅まで歩きました。
甲南武庫の郷
平成7年の阪神淡路大震災で倒壊した甲南漬本店跡地に作られたコミュニティスペースだそうです。
処女塚古墳(おとめづかこふん)
築造年代は4世紀前半。1922年(大正11年)3月8日に国の史跡に指定。主に山陰系土器が出土しており石屋川流域に存在する郡家遺跡集落の一部とされている。所在地から西約2000mの位置にある西求女塚古墳、東約1500mの位置にある東求女塚古墳とともに、万葉集や大和物語などに登場する悲恋伝説(菟原処女の伝説)の舞台として知られているそうです。
神戸酒心館
福寿の「純米吟醸」はスウェーデン・ストックホルムで開催されるノーベル賞公式行事受賞式に提供されるそうです。
白鶴酒造資料館
菊正宗資料館に向かいます。
菊正宗資料館
浜福鶴吟醸工房
今年も浜福鶴吟醸工房の敷地内に日本水仙の花が綺麗に咲いていました。
各酒蔵で試飲させて頂いた後、ゴールのJR住吉駅まで歩きました。
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ご訪問していただきありがとうございました。
厄払い八社めぐり(神戸市) [ウォーキング神戸市]
「厄払い八社めぐり」に参加してきました。(20181215)
神戸八社
神戸八社
神戸市街地の生田神社の氏子地に「一」から「八」までの番号のついた神社があり、生田神社の裔社と呼ばれていました。八つの社にはそれぞれ、天照大神(あまてらすおおみかみ)と素戔鳴尊(すさのおのみこと)が検玉を交換して生まれた三柱の女神と五柱の男神が祭られており、それぞれ一宮は北野村、二宮は生田村ときに葺屋荘全体、三宮は神戸村、四宮は花隈村、五宮は奥平野村、六宮は坂本村、七宮は兵庫津北浜、八宮は坂本村で鎮守として信仰されていました。神功皇后(じんぐうこうごう)が巡拝された時の順に番号がつけられたともいわれています。古来、節分の日にこの八社を巡拝して、厄を払い願いを祈る風習があり、今でも多くの人が八社を巡礼しご朱印を集めているそうです。
神戸の厄払い八社に今年の色々な出来ごとを振り返りながらお参りしてきました。
当日は曇り、晴れ、最高気温10.3℃。途中から晴れ渡り気持ち良いウォーキングになりました。
集合場所生田神社を出発して、一宮神社、二宮神社、東遊園地公園、三宮神社、四宮神社を経由して諏訪山公園まで歩きます。
集合場所の生田神社
生田神社(いくたじんじゃ)
生田神社は1800年以上の歴史を有する古社。生田の神を守る家、神戸(かんべ)が由来となって神戸という地名が生まれた。生田は元々は活田であり、活き活きとした生命力溢れる場所という意味。近年はアスリートやアーティストの参拝も多く、神戸中心市街地に位置することから訪れる参拝客も多いそうです。
生田神社を出発します。
一宮神社(いちのみやじんじゃ)
一宮神社の御祭神は、天照大御神が素盞鳴尊と剣玉を交換して誓約の際にお生まれになった三女神の一柱で、福岡県宗像郡沖の島鎮座の宗像大社より歓請されたといわれ、大国主命の后として、御一緒に日本国土開発と経営に協力され、又神功皇后が三韓からの帰途、神験特に著しかったので巡拝された一社で、爾来、生成発展・航海交通安全・厄除の守護神としての御神徳の高い神様だそうです。
二宮神社(にのみやじんじゃ)
当社の御祭神は、天照大御神が素盞鳴尊と剣玉を交換した誓約の際にお生まれになった五男神の一柱で、天照大御神の御命令で、日本国の農作物がよく出来るように努力された神であり、神功皇后の三韓からの帰途、巡拝された一社で、葺合の荘の総氏神であります。現在、中央区の各所におまつりされている八幡神社は、当社の御分霊神だそうです。
東遊園地公園に向かいます。
東遊園地公園に着きました。
少し休憩後、三宮神社、四宮神社に向かいます。
三宮神社(さんのみやじんじゃ)
当社の御祭神は、天照大御神が素盞鳴尊と剣玉を交換して誓約の際にお生まれになった三女神の一柱で、福岡県宗像郡沖の島に鎮座の宗像大社より観請されたといわれ、神功皇后の三韓からの帰途、巡拝された一社であり、又、寛延年間には尼崎藩主の信仰が篤かった。明治維新早々には、神戸開港の際藩士と外人との突発事件が起こった地で、いわゆる「史蹟・神戸事件発生地」であります。また二宮神社の御兄神と年に一度の御対面をされると伝えられ、古くからそれが神事となっている。爾来、航海交通安全・厄除の守護神として、御神徳の高い神様だそうです。
四宮神社(よのみやじんじゃ)
当社の御祭神は、天照大御神が素盞鳴尊と剣玉を交換して誓約の際にお生まれになった三女神の一柱で、福岡県宗像郡沖の島に鎮座されているが、広島県安芸の宮島に鎮座されている厳島神社より歓請されたとあり、神功皇后三韓からの帰途巡拝され、四の御前といわれている。のち、永禄年間、織田信長の命令で花熊城を築くと、荒木村重より御神宝が捧げられた。又、摂津国芸能神として、芸能人の崇敬篤く、花隈芸者は一度は鑑礼を受けなければならなかったという。いわゆる、花隈芸者育ての守り神といわれている時代もあった。爾来、鬼門鎮護・水商売・厄除の守護神として御神徳の高い神様だそうです。
諏訪山公園に着きました。
諏訪山公園で昼食休憩になりました。
昼食休憩後、五宮神社、大倉山公園、八宮神社、湊川神社、七宮神社を経由して神戸駅まで歩きました。
五宮神社(ごのみやじんじゃ)
当社の御祭神は、天照大御神が素盞鳴尊と剣玉を交換して誓約された際にお生まれになった五男神の一柱です。出雲国能美郡天穂日神社より歓請され、天照大御神の勅を奉じて、出雲国に降り、日本国土開発のてめのお使いとして、国土発展と経営に努力された神様で、神功皇后三韓からの帰途、巡拝された一社であり、厄除・天下奉平・五穀豊豊饒の御神徳の高い神様として知られているそうです。
大倉山公園
八宮神社(六宮神社合祀)に着きました。
八宮神社(はちのみやじんじゃ)
当社の御祭神は、天照大御神が素盞鳴尊と剣玉を交換して誓約された際にお生まれになった五男神の一柱で、神功皇后が三韓からの帰途、巡拝された一社です。 当社は、橘通の、旧県警庁舎の所に鎮座されていたのですが、明治四十二年に旧神戸市役所を当社鎮座地に新築したため、現在の楠町三丁目、大倉山南東の地に移転されました。 素盞鳴尊を御奉祀せられましたのは紀朝臣(きいのあそん)でありました、紀朝臣は後、紀伊国造となり素盞鳴尊と御祀りせられたものと伝えられております。旧八部郡坂本村鎮守として奉斎。厄除守護神として、名高い神様だそうです。
六宮神社(ろくのみやじんじゃ)
当社の御祭神は、天照大御神が素盞鳴尊と剣玉を交換して誓約された際にお生まれになった五男神の一柱で、神功皇后三韓からの帰途、巡拝をされた一社です。当社は現在の楠寺の前に鎮座されていましたが、明治42年12月に、楠高等小学校の新設により、八宮神社の御社殿に合祀されました。 坂本村に皇別坂本臣紀朝臣(さかもとのおみきいのあそん)が御住みになっておられましたので、坂本臣紀朝臣は武内宿弥の末孫でありますので、御先祖の武内宿弥の御仕えさせられていました応神天皇を御祀りせられたものと伝えられています。出雲系の神様ですから、御一緒に祀られたものと考えられます。厄除の守護神として、古くから厄年の人の参詣が絶えないそうです。
湊川神社(みなとがわじんじゃ)
湊川神社は楠木正成を祭る神社。地元では親しみを込めて「楠公(なんこう)さん」と呼ばれているそうです。建武中興十五社の一社で、旧社格は別格官幣社だそうです。
七宮神社(しちのみやじんじゃ)
当社の御祭神は、七つの御名をもつ神であり、応保三年平清盛が福原遷都と共に、その守護神として尊崇され、又第百七代正親町天皇の天正十年に勅額や御神宝を奉納されており、また、大己貴尊が兵庫の地を開拓されたとして称えられている。生田神社誌によれば天児屋根命は、天照大御神と素盞鳴尊の剣玉を交換して誓約された際にお生まれになった五男神の一柱であるのでごいっしょに奉斎されています。神功皇后が三韓からの帰途、巡拝された一社です。航海安全・土地開発・縁むすび・厄除として得に高い神様だそうです。
この後、神戸駅まで歩きました。
ご訪問していただきありがとうございました。
神戸八社
神戸八社
神戸市街地の生田神社の氏子地に「一」から「八」までの番号のついた神社があり、生田神社の裔社と呼ばれていました。八つの社にはそれぞれ、天照大神(あまてらすおおみかみ)と素戔鳴尊(すさのおのみこと)が検玉を交換して生まれた三柱の女神と五柱の男神が祭られており、それぞれ一宮は北野村、二宮は生田村ときに葺屋荘全体、三宮は神戸村、四宮は花隈村、五宮は奥平野村、六宮は坂本村、七宮は兵庫津北浜、八宮は坂本村で鎮守として信仰されていました。神功皇后(じんぐうこうごう)が巡拝された時の順に番号がつけられたともいわれています。古来、節分の日にこの八社を巡拝して、厄を払い願いを祈る風習があり、今でも多くの人が八社を巡礼しご朱印を集めているそうです。
神戸の厄払い八社に今年の色々な出来ごとを振り返りながらお参りしてきました。
当日は曇り、晴れ、最高気温10.3℃。途中から晴れ渡り気持ち良いウォーキングになりました。
集合場所生田神社を出発して、一宮神社、二宮神社、東遊園地公園、三宮神社、四宮神社を経由して諏訪山公園まで歩きます。
集合場所の生田神社
生田神社(いくたじんじゃ)
生田神社は1800年以上の歴史を有する古社。生田の神を守る家、神戸(かんべ)が由来となって神戸という地名が生まれた。生田は元々は活田であり、活き活きとした生命力溢れる場所という意味。近年はアスリートやアーティストの参拝も多く、神戸中心市街地に位置することから訪れる参拝客も多いそうです。
生田神社を出発します。
一宮神社(いちのみやじんじゃ)
一宮神社の御祭神は、天照大御神が素盞鳴尊と剣玉を交換して誓約の際にお生まれになった三女神の一柱で、福岡県宗像郡沖の島鎮座の宗像大社より歓請されたといわれ、大国主命の后として、御一緒に日本国土開発と経営に協力され、又神功皇后が三韓からの帰途、神験特に著しかったので巡拝された一社で、爾来、生成発展・航海交通安全・厄除の守護神としての御神徳の高い神様だそうです。
二宮神社(にのみやじんじゃ)
当社の御祭神は、天照大御神が素盞鳴尊と剣玉を交換した誓約の際にお生まれになった五男神の一柱で、天照大御神の御命令で、日本国の農作物がよく出来るように努力された神であり、神功皇后の三韓からの帰途、巡拝された一社で、葺合の荘の総氏神であります。現在、中央区の各所におまつりされている八幡神社は、当社の御分霊神だそうです。
東遊園地公園に向かいます。
東遊園地公園に着きました。
少し休憩後、三宮神社、四宮神社に向かいます。
三宮神社(さんのみやじんじゃ)
当社の御祭神は、天照大御神が素盞鳴尊と剣玉を交換して誓約の際にお生まれになった三女神の一柱で、福岡県宗像郡沖の島に鎮座の宗像大社より観請されたといわれ、神功皇后の三韓からの帰途、巡拝された一社であり、又、寛延年間には尼崎藩主の信仰が篤かった。明治維新早々には、神戸開港の際藩士と外人との突発事件が起こった地で、いわゆる「史蹟・神戸事件発生地」であります。また二宮神社の御兄神と年に一度の御対面をされると伝えられ、古くからそれが神事となっている。爾来、航海交通安全・厄除の守護神として、御神徳の高い神様だそうです。
四宮神社(よのみやじんじゃ)
当社の御祭神は、天照大御神が素盞鳴尊と剣玉を交換して誓約の際にお生まれになった三女神の一柱で、福岡県宗像郡沖の島に鎮座されているが、広島県安芸の宮島に鎮座されている厳島神社より歓請されたとあり、神功皇后三韓からの帰途巡拝され、四の御前といわれている。のち、永禄年間、織田信長の命令で花熊城を築くと、荒木村重より御神宝が捧げられた。又、摂津国芸能神として、芸能人の崇敬篤く、花隈芸者は一度は鑑礼を受けなければならなかったという。いわゆる、花隈芸者育ての守り神といわれている時代もあった。爾来、鬼門鎮護・水商売・厄除の守護神として御神徳の高い神様だそうです。
諏訪山公園に着きました。
諏訪山公園で昼食休憩になりました。
昼食休憩後、五宮神社、大倉山公園、八宮神社、湊川神社、七宮神社を経由して神戸駅まで歩きました。
五宮神社(ごのみやじんじゃ)
当社の御祭神は、天照大御神が素盞鳴尊と剣玉を交換して誓約された際にお生まれになった五男神の一柱です。出雲国能美郡天穂日神社より歓請され、天照大御神の勅を奉じて、出雲国に降り、日本国土開発のてめのお使いとして、国土発展と経営に努力された神様で、神功皇后三韓からの帰途、巡拝された一社であり、厄除・天下奉平・五穀豊豊饒の御神徳の高い神様として知られているそうです。
大倉山公園
八宮神社(六宮神社合祀)に着きました。
八宮神社(はちのみやじんじゃ)
当社の御祭神は、天照大御神が素盞鳴尊と剣玉を交換して誓約された際にお生まれになった五男神の一柱で、神功皇后が三韓からの帰途、巡拝された一社です。 当社は、橘通の、旧県警庁舎の所に鎮座されていたのですが、明治四十二年に旧神戸市役所を当社鎮座地に新築したため、現在の楠町三丁目、大倉山南東の地に移転されました。 素盞鳴尊を御奉祀せられましたのは紀朝臣(きいのあそん)でありました、紀朝臣は後、紀伊国造となり素盞鳴尊と御祀りせられたものと伝えられております。旧八部郡坂本村鎮守として奉斎。厄除守護神として、名高い神様だそうです。
六宮神社(ろくのみやじんじゃ)
当社の御祭神は、天照大御神が素盞鳴尊と剣玉を交換して誓約された際にお生まれになった五男神の一柱で、神功皇后三韓からの帰途、巡拝をされた一社です。当社は現在の楠寺の前に鎮座されていましたが、明治42年12月に、楠高等小学校の新設により、八宮神社の御社殿に合祀されました。 坂本村に皇別坂本臣紀朝臣(さかもとのおみきいのあそん)が御住みになっておられましたので、坂本臣紀朝臣は武内宿弥の末孫でありますので、御先祖の武内宿弥の御仕えさせられていました応神天皇を御祀りせられたものと伝えられています。出雲系の神様ですから、御一緒に祀られたものと考えられます。厄除の守護神として、古くから厄年の人の参詣が絶えないそうです。
湊川神社(みなとがわじんじゃ)
湊川神社は楠木正成を祭る神社。地元では親しみを込めて「楠公(なんこう)さん」と呼ばれているそうです。建武中興十五社の一社で、旧社格は別格官幣社だそうです。
七宮神社(しちのみやじんじゃ)
当社の御祭神は、七つの御名をもつ神であり、応保三年平清盛が福原遷都と共に、その守護神として尊崇され、又第百七代正親町天皇の天正十年に勅額や御神宝を奉納されており、また、大己貴尊が兵庫の地を開拓されたとして称えられている。生田神社誌によれば天児屋根命は、天照大御神と素盞鳴尊の剣玉を交換して誓約された際にお生まれになった五男神の一柱であるのでごいっしょに奉斎されています。神功皇后が三韓からの帰途、巡拝された一社です。航海安全・土地開発・縁むすび・厄除として得に高い神様だそうです。
この後、神戸駅まで歩きました。
ご訪問していただきありがとうございました。
17.東住吉区をあるく(大阪) [ウォーキング大阪24区]
「東住吉区をあるく」に参加してきました。(20181211)
長居公園
大阪東住吉区の歴史的な街並みを歩いてきました。
当日は晴れ、曇り、最高気温11.4℃。気持ち良いウォーキングになりました。
集合場所長居公園を出発して、行基の墓、矢田教育の森公園、阿麻美許曾神社、常栄寺、中臣須牟地神社 を経由して喜連西中央公園まで歩きます。
長居公園を出発します。
行基の墓を通過します。
行基の墓(ぎょうきのはか)
公園南矢田の共同墓地内にある行基菩薩の墓。有名な生駒竹林寺墓所や往生院火葬場跡は歴史学的に確認できますので、この墓は単なる「供養墓」だと考えられているそうです。
矢田教育の森公園に着きました。
暫く休憩後、大和川に架かる行基大橋を渡ります。
この辺りは大和川の南側も大阪市になります。
阿麻美許曾神社(あまみこそじんじゃ)
祭神素盞嗚命(すさのおのみこと)ほか。大和川の南へくい込んだ市域南端にあり、大同年間(806~10)の創建というが不詳。境内地は広く、大樹が多く残る。かつて行基(ぎょうき)がこの地に住み、住民に便宜を与えたと伝えられている。付近の大和川にかかる「行基大橋」の橋名は、この伝えによっているそうです。
再び、大和川を渡ります。
大和川堤防を歩きます。
常栄寺(じょうえいじ)
この寺は天正9年(1581年)に浄土真宗の寺院として開基。徳川家康の政策により、本願寺が西本願寺と東本願寺に分裂した1602年に教如が率いる東本願寺に属したそうです。
中臣須牟地神社(なかとみすむちじんじゃ)
中臣須牢地神社は、延喜式内(えんぎしきない)の古社であるが創建不詳。祭神は須牢地神、住吉三神ほか。中臣氏(藤原鎌足(かまたり)・不比等(ふひと)らがいる)の祖先を祭り、難波において王権のもと、最も古くから行われてきた八十島(やそじま)祭に関係したそうです。
喜連西中央公園に向かいます。
喜連西中央公園
喜連西中央公園で昼食休憩になりました。
昼食休憩後、覚林寺、湯里住吉神社、中井神社、天神社旅所碑、京善寺、桑津天神社、榎神社を経由して文の里駅まで歩きました。
覚林寺(かくりんじ)
湯里住吉神社(ゆざとすみよしじんじゃ)
信長の焼討(1577~1580)や大坂冬の陣(1614)と夏の陣(1615)の兵火に遭い、社殿や社記を全て焼失して、神社由緒がわからなくなったそうです。当社は初めは須牟地神社と呼ばれ、その後、住吉二之宮、湯屋島(湯谷島)住吉との社名を経て、現在は湯里住吉神社と呼ばれているそうです。
中井神社(なかいじんじゃ)
中井神社は、三代実録(西暦901年)という書物に摂津の国「田辺東神(ひがしかみ)」と記されていて、古くは、ご祭神にちなんで「牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)とよばれていました。その昔、社前に、清水の湧く井戸があり、人々は、「汚れ(けがれ)のない霊水」としてたいせつにしていたので、中野村の井戸の有るところのお社として、明治時代の初めに中井神社と改められたそうです。(中井神社発行の神社暦による) 中井神社の東神に対し西神が山阪神社といわれているそうです。
今川緑道を歩いて今川公園に向かいます。
今川公園
暫く休憩後、榎神社まで歩きます。
天神社旅所碑を通過します。
京善寺(きょうぜんじ)
当山の縁起は、古くは「金剛院」と称せられ厄除祈願道場として栄えていたが、1615年(元和元年)大坂夏の陣に合戦の場となり、兵火で寺は焼失したため、詳細は不明とのこと。この時期、寺は荒廃したが、1653年(承応2年)桑津村の篤信者富井部氏などの霊夢に不動明王が出現され、寺の再興を告げられたため、紀州より観弘実誉阿闍梨を招き堂宇を再興、寺号を心王山殊勝院京善寺と改めた。紀州根来寺の不動明王と同木同作(興教大師の作と伝えられる)の不動明王を勧請し本尊とした。以来、「身代り厄除け不動」「くわづ不動」として多くの人々の信仰を集め、現在に至っているそうです。
桑津天神社(くわづてんじんじゃ)
「日本書記」によると応神天皇(4世紀)の頃、日向の国から美女の誉高い、髪長媛(かみながひめ) を召され桑津の地に住まわせたと記される。媛はのちに仁徳天皇の妃となられた。髪長媛は桑津天神社に奉祀される以前は、明治6年廃寺となった金蓮寺が髪長媛の宮跡であった関係で、境内の八幡宮に奉祀されています。また桑津天神社には少彦名命(すくなひこなのみこと)も祀られているが、これは髪長媛の病気祈願のため医薬の祖神である少彦名命が祀られたとの伝えによっているそうです。
榎神社(えのきじんじゃ)
現在地に樹齢800有余年を数える榎の大木があり、土地の人々がこの木をご神体として社殿をつくり、年々参詣者も増加したので、昭和27年4月に宗教法人となり、翌28年に拝殿と社務所を新設した極めて新しい由緒の神社だそうです。
この後、文の里駅まで歩きました。
ご訪問していただきありがとうございました。
長居公園
大阪東住吉区の歴史的な街並みを歩いてきました。
当日は晴れ、曇り、最高気温11.4℃。気持ち良いウォーキングになりました。
集合場所長居公園を出発して、行基の墓、矢田教育の森公園、阿麻美許曾神社、常栄寺、中臣須牟地神社 を経由して喜連西中央公園まで歩きます。
長居公園を出発します。
行基の墓を通過します。
行基の墓(ぎょうきのはか)
公園南矢田の共同墓地内にある行基菩薩の墓。有名な生駒竹林寺墓所や往生院火葬場跡は歴史学的に確認できますので、この墓は単なる「供養墓」だと考えられているそうです。
矢田教育の森公園に着きました。
暫く休憩後、大和川に架かる行基大橋を渡ります。
この辺りは大和川の南側も大阪市になります。
阿麻美許曾神社(あまみこそじんじゃ)
祭神素盞嗚命(すさのおのみこと)ほか。大和川の南へくい込んだ市域南端にあり、大同年間(806~10)の創建というが不詳。境内地は広く、大樹が多く残る。かつて行基(ぎょうき)がこの地に住み、住民に便宜を与えたと伝えられている。付近の大和川にかかる「行基大橋」の橋名は、この伝えによっているそうです。
再び、大和川を渡ります。
大和川堤防を歩きます。
常栄寺(じょうえいじ)
この寺は天正9年(1581年)に浄土真宗の寺院として開基。徳川家康の政策により、本願寺が西本願寺と東本願寺に分裂した1602年に教如が率いる東本願寺に属したそうです。
中臣須牟地神社(なかとみすむちじんじゃ)
中臣須牢地神社は、延喜式内(えんぎしきない)の古社であるが創建不詳。祭神は須牢地神、住吉三神ほか。中臣氏(藤原鎌足(かまたり)・不比等(ふひと)らがいる)の祖先を祭り、難波において王権のもと、最も古くから行われてきた八十島(やそじま)祭に関係したそうです。
喜連西中央公園に向かいます。
喜連西中央公園
喜連西中央公園で昼食休憩になりました。
昼食休憩後、覚林寺、湯里住吉神社、中井神社、天神社旅所碑、京善寺、桑津天神社、榎神社を経由して文の里駅まで歩きました。
覚林寺(かくりんじ)
湯里住吉神社(ゆざとすみよしじんじゃ)
信長の焼討(1577~1580)や大坂冬の陣(1614)と夏の陣(1615)の兵火に遭い、社殿や社記を全て焼失して、神社由緒がわからなくなったそうです。当社は初めは須牟地神社と呼ばれ、その後、住吉二之宮、湯屋島(湯谷島)住吉との社名を経て、現在は湯里住吉神社と呼ばれているそうです。
中井神社(なかいじんじゃ)
中井神社は、三代実録(西暦901年)という書物に摂津の国「田辺東神(ひがしかみ)」と記されていて、古くは、ご祭神にちなんで「牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)とよばれていました。その昔、社前に、清水の湧く井戸があり、人々は、「汚れ(けがれ)のない霊水」としてたいせつにしていたので、中野村の井戸の有るところのお社として、明治時代の初めに中井神社と改められたそうです。(中井神社発行の神社暦による) 中井神社の東神に対し西神が山阪神社といわれているそうです。
今川緑道を歩いて今川公園に向かいます。
今川公園
暫く休憩後、榎神社まで歩きます。
天神社旅所碑を通過します。
京善寺(きょうぜんじ)
当山の縁起は、古くは「金剛院」と称せられ厄除祈願道場として栄えていたが、1615年(元和元年)大坂夏の陣に合戦の場となり、兵火で寺は焼失したため、詳細は不明とのこと。この時期、寺は荒廃したが、1653年(承応2年)桑津村の篤信者富井部氏などの霊夢に不動明王が出現され、寺の再興を告げられたため、紀州より観弘実誉阿闍梨を招き堂宇を再興、寺号を心王山殊勝院京善寺と改めた。紀州根来寺の不動明王と同木同作(興教大師の作と伝えられる)の不動明王を勧請し本尊とした。以来、「身代り厄除け不動」「くわづ不動」として多くの人々の信仰を集め、現在に至っているそうです。
桑津天神社(くわづてんじんじゃ)
「日本書記」によると応神天皇(4世紀)の頃、日向の国から美女の誉高い、髪長媛(かみながひめ) を召され桑津の地に住まわせたと記される。媛はのちに仁徳天皇の妃となられた。髪長媛は桑津天神社に奉祀される以前は、明治6年廃寺となった金蓮寺が髪長媛の宮跡であった関係で、境内の八幡宮に奉祀されています。また桑津天神社には少彦名命(すくなひこなのみこと)も祀られているが、これは髪長媛の病気祈願のため医薬の祖神である少彦名命が祀られたとの伝えによっているそうです。
榎神社(えのきじんじゃ)
現在地に樹齢800有余年を数える榎の大木があり、土地の人々がこの木をご神体として社殿をつくり、年々参詣者も増加したので、昭和27年4月に宗教法人となり、翌28年に拝殿と社務所を新設した極めて新しい由緒の神社だそうです。
この後、文の里駅まで歩きました。
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なにわの旧街道から緑道ウォーク(大阪市) [ウォーキング大阪市]
「なにわの旧街道から緑道ウォーク」に参加してきました。(20181209)
熊野街道道標
大阪の歴史的な旧街道などを歩いてきました。
当日は曇り、最高気温8.5℃。少し寒かったですが、気持ち良いウォーキングになりました。
集合場所長居公園を出発して、住吉街道、住吉大社、熊野街道、万代池公園、阿部野神社、紀州街道を経由して聖天山公園まで歩きます。
集合場所の長居公園
長居公園を出発すると直ぐに住吉街道を歩きます。
住吉街道(すみよしかいどう)
八尾方面からきた街道が分岐する長居(現在の長居交差点付近)から住吉大社の裏門を結ぶ街道。
住吉大社に着きました。
住吉大社(すみよしたいしゃ)
全国に約2,300社ある住吉神社の総本社。下関の住吉神社、博多の住吉神社とともに日本三大住吉の一社。また、毎年初詣の参拝者の多さでも全国的に有名。四棟の本殿は国宝に指定されているそうです。
阪堺電車沿いを歩きます。
万代池公園に着きました。
ここで、少し休憩になりました。
休憩後、阿部野神社に向かいます。
白い阪堺電車を見かけました。
阿部野神社に着きました。
阿部野神社(あべのじんじゃ)
阿部野神社は南北朝時代、北畠顕家(あきいえ)と足利軍が戦った古戦場跡地に1882年(明治15年)創建され、北畠親房(ちかふさ)、顕家父子が祀られているそうです。
紀州街道を歩きます。
紀州街道(きしゅうかいどう)
紀州街道は大阪と和歌山を結ぶ街道。
聖天山公園に着きました。
聖天山公園で昼食休憩になりました。
昼食休憩後、美章園駅まで歩きました。
聖天山公園を出発します。
阪堺電車を通過します。
あべのハルカスが見えました。
松虫交差点を左に曲がります。
熊野街道を歩きます。
熊野街道(くまのかいどう)
熊野街道は大阪天満の八軒家浜を起点として和歌山の熊野三山に至る街道。
阿倍野交差点を右に曲がります。
あべのハルカスが近くに見えました。
美章園駅に向かいます。
美章園駅に着きました。
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ご訪問していただきありがとうございました。
熊野街道道標
大阪の歴史的な旧街道などを歩いてきました。
当日は曇り、最高気温8.5℃。少し寒かったですが、気持ち良いウォーキングになりました。
集合場所長居公園を出発して、住吉街道、住吉大社、熊野街道、万代池公園、阿部野神社、紀州街道を経由して聖天山公園まで歩きます。
集合場所の長居公園
長居公園を出発すると直ぐに住吉街道を歩きます。
住吉街道(すみよしかいどう)
八尾方面からきた街道が分岐する長居(現在の長居交差点付近)から住吉大社の裏門を結ぶ街道。
住吉大社に着きました。
住吉大社(すみよしたいしゃ)
全国に約2,300社ある住吉神社の総本社。下関の住吉神社、博多の住吉神社とともに日本三大住吉の一社。また、毎年初詣の参拝者の多さでも全国的に有名。四棟の本殿は国宝に指定されているそうです。
阪堺電車沿いを歩きます。
万代池公園に着きました。
ここで、少し休憩になりました。
休憩後、阿部野神社に向かいます。
白い阪堺電車を見かけました。
阿部野神社に着きました。
阿部野神社(あべのじんじゃ)
阿部野神社は南北朝時代、北畠顕家(あきいえ)と足利軍が戦った古戦場跡地に1882年(明治15年)創建され、北畠親房(ちかふさ)、顕家父子が祀られているそうです。
紀州街道を歩きます。
紀州街道(きしゅうかいどう)
紀州街道は大阪と和歌山を結ぶ街道。
聖天山公園に着きました。
聖天山公園で昼食休憩になりました。
昼食休憩後、美章園駅まで歩きました。
聖天山公園を出発します。
阪堺電車を通過します。
あべのハルカスが見えました。
松虫交差点を左に曲がります。
熊野街道を歩きます。
熊野街道(くまのかいどう)
熊野街道は大阪天満の八軒家浜を起点として和歌山の熊野三山に至る街道。
阿倍野交差点を右に曲がります。
あべのハルカスが近くに見えました。
美章園駅に向かいます。
美章園駅に着きました。
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琵琶湖一周ウォークその9 湖岸街道探訪コース[ウォーキング琵琶湖一周] [ウォーキング琵琶湖一周]
「琵琶湖一周ウォークその9 湖岸街道探訪コース」に参加してきました。(20181202)
白鬚神社
遠くに竹生島を臨む
近江白浜
琵琶湖一周9回割ウォーク
琵琶湖一周9回割ウォークは琵琶湖一周の約235kmを1月から11月にかけて合計9回で回るウォーキングです。冬の寒い日も夏の暑い日も雨の日もあると思いますが全参加を目指して頑張りたいと思います。
「琵琶湖一周9回割ウォーク」の最終回。今回は近江今津駅から北小松駅まで歩きました。
当日は晴れ、最高気温14.1℃。爽やかな秋晴れの中、楽しいウォーキングになりました。
集合場所近江今津駅を出発して、近江今津駅、大水別神社、二つ石大明神、 新旭水鳥観察センター、道の駅新あさひ風車村、新北川橋を経由して近江白浜まで歩きます。
集合場所の近江今津駅を出発します。
直ぐ近くの今津港を南に曲がります。
大水別神社を通過します。
大水別神社(おおみくまりじんじゃ)
大水別神社は、『延喜式神名帳』にある「大水別神社(近江国・高島郡)」に比定される式内社(小社)。御祭神は天水別神。大野堂立山に鎮座していたが、承平の頃(931年-938年)に大久保坂に遷座し、後、日枝神社とともに遷座を繰り返して現在地に至ったそうです。
二つ石大明神に向かいます。
二つ石大明神(ふたついしだいみょうじん)
二つ石は、琵琶湖の沖合い100mの湖底にあるそうなのですが、渇水時でないと現われないので、沖の二つ石に代わって同じような大きさの石を湖岸に置いて祀っています。渇水によって沖の石が姿を現さないように降雨を願うそうです。また、この二つ石は7~8世紀に施行された「条理制」の十八条三里の基点となった遺構でもあるそうです。
新旭水鳥観察センター、道の駅新あさひ風車村に向かいます。
新旭水鳥観察センター(しんあさひちょうみずどりかんさつせんたー)
センターの大きな窓からは穏やかな琵琶湖の入江が一望でき、望遠鏡で見ると、北方から渡ってきた水鳥たちの細やかな仕草がよく分かります。湖岸のコースを歩くとさらに、たくさんの鳥たちが身近に感じられるそうです。
綺麗な青空が広がっていました。
道の駅新あさひ風車村に着きました。
道の駅 新あさひ風車村(みちのえき しんあさひふうしゃむら)
高島市新旭エリアの湖周道路(県道333号線)沿いに位置。2018年7月25日に道の駅しんあさひ風車村の北側エリアに新しくグランピング施設「STAGEX高島」がオープン、滞在型の宿泊施設としても利用できるそうです。
暫く休憩後、近江白浜に向かいます。
新北川橋を渡ります。
近江白浜で昼食休憩にしました。
昼食休憩後、日吉神社、白鬚神社を経由して北小松駅まで歩きました。
近江高島駅を通過します。
日吉神社(ひよしじんじゃ)
嘉祥2年(1107年)創建の長宝寺の鎮守社として山王権現を祀ったことに始まる。後に長宝寺は廃絶、当神社は土豪高島氏の崇敬を受けて存続したが、高島氏が明智光秀らの軍により滅ぼされると荒廃した。江戸時代に入り、大溝藩主分部氏の保護を受け、社頭が整備されたそうです。
湖上の白鬚神社の鳥居が見えてきました。
白鬚神社(しらひげじんじゃ)
びわ湖のなかに浮かぶように建つ朱塗りの鳥居で知られ、「近江の厳島」とも呼ばれます。創建から約2000年の歴史を持つと伝えられており、近江最古の神社としても有名。延命長寿、縁結び、子授け、航海安全などのご利益があるそうです。
この後、北小松駅まで歩きました。
琵琶湖一周9回割ウォークを完歩することができました。
初回に一時雪が降ったこと以外は雨になることも無く、良い天気に恵まれ楽しいウォ-キング゙ができました。
一年間、開催運営していただいたスタッフの皆様に感謝いたします。
ご訪問していただきありがとうございました。
白鬚神社
遠くに竹生島を臨む
近江白浜
琵琶湖一周9回割ウォーク
琵琶湖一周9回割ウォークは琵琶湖一周の約235kmを1月から11月にかけて合計9回で回るウォーキングです。冬の寒い日も夏の暑い日も雨の日もあると思いますが全参加を目指して頑張りたいと思います。
「琵琶湖一周9回割ウォーク」の最終回。今回は近江今津駅から北小松駅まで歩きました。
当日は晴れ、最高気温14.1℃。爽やかな秋晴れの中、楽しいウォーキングになりました。
集合場所近江今津駅を出発して、近江今津駅、大水別神社、二つ石大明神、 新旭水鳥観察センター、道の駅新あさひ風車村、新北川橋を経由して近江白浜まで歩きます。
集合場所の近江今津駅を出発します。
直ぐ近くの今津港を南に曲がります。
大水別神社を通過します。
大水別神社(おおみくまりじんじゃ)
大水別神社は、『延喜式神名帳』にある「大水別神社(近江国・高島郡)」に比定される式内社(小社)。御祭神は天水別神。大野堂立山に鎮座していたが、承平の頃(931年-938年)に大久保坂に遷座し、後、日枝神社とともに遷座を繰り返して現在地に至ったそうです。
二つ石大明神に向かいます。
二つ石大明神(ふたついしだいみょうじん)
二つ石は、琵琶湖の沖合い100mの湖底にあるそうなのですが、渇水時でないと現われないので、沖の二つ石に代わって同じような大きさの石を湖岸に置いて祀っています。渇水によって沖の石が姿を現さないように降雨を願うそうです。また、この二つ石は7~8世紀に施行された「条理制」の十八条三里の基点となった遺構でもあるそうです。
新旭水鳥観察センター、道の駅新あさひ風車村に向かいます。
新旭水鳥観察センター(しんあさひちょうみずどりかんさつせんたー)
センターの大きな窓からは穏やかな琵琶湖の入江が一望でき、望遠鏡で見ると、北方から渡ってきた水鳥たちの細やかな仕草がよく分かります。湖岸のコースを歩くとさらに、たくさんの鳥たちが身近に感じられるそうです。
綺麗な青空が広がっていました。
道の駅新あさひ風車村に着きました。
道の駅 新あさひ風車村(みちのえき しんあさひふうしゃむら)
高島市新旭エリアの湖周道路(県道333号線)沿いに位置。2018年7月25日に道の駅しんあさひ風車村の北側エリアに新しくグランピング施設「STAGEX高島」がオープン、滞在型の宿泊施設としても利用できるそうです。
暫く休憩後、近江白浜に向かいます。
新北川橋を渡ります。
近江白浜で昼食休憩にしました。
昼食休憩後、日吉神社、白鬚神社を経由して北小松駅まで歩きました。
近江高島駅を通過します。
日吉神社(ひよしじんじゃ)
嘉祥2年(1107年)創建の長宝寺の鎮守社として山王権現を祀ったことに始まる。後に長宝寺は廃絶、当神社は土豪高島氏の崇敬を受けて存続したが、高島氏が明智光秀らの軍により滅ぼされると荒廃した。江戸時代に入り、大溝藩主分部氏の保護を受け、社頭が整備されたそうです。
湖上の白鬚神社の鳥居が見えてきました。
白鬚神社(しらひげじんじゃ)
びわ湖のなかに浮かぶように建つ朱塗りの鳥居で知られ、「近江の厳島」とも呼ばれます。創建から約2000年の歴史を持つと伝えられており、近江最古の神社としても有名。延命長寿、縁結び、子授け、航海安全などのご利益があるそうです。
この後、北小松駅まで歩きました。
琵琶湖一周9回割ウォークを完歩することができました。
初回に一時雪が降ったこと以外は雨になることも無く、良い天気に恵まれ楽しいウォ-キング゙ができました。
一年間、開催運営していただいたスタッフの皆様に感謝いたします。
ご訪問していただきありがとうございました。
16.住吉区をあるく(大阪) [ウォーキング大阪24区]
「住吉区をあるく」に参加してきました。(20181127)
大和川堤防
大阪住吉区の歴史的な街並みを歩いてきました。
当日は曇り、晴れ、最高気温20.2℃。気持ち良いウォーキングになりました。
集合場所住吉大社を出発して、一運寺、生根神社、東福寺、住吉行宮跡、極楽寺、安楽寺、五代友厚像を経由して浅香中央公園まで歩きます。
集合場所の住吉大社。有名な太鼓橋です。
住吉大社を出発します。
住吉大社(すみよしたいしゃ)
全国に約2,300社ある住吉神社の総本社。下関の住吉神社、博多の住吉神社とともに日本三大住吉の一社。また、毎年初詣の参拝者の多さでも全国的に有名。四棟の本殿は国宝に指定されているそうです。
直ぐに、一運寺に着きました。
一運寺(いちうんじ)
一運寺は聖徳太子の創建で、天正14年(1586)に本誉存寧が再興し、寛永8年(1631)に広誉龍哲が本堂を再建した。最澄や空海も説法を行ったと言われている由緒正しい寺です。境内には、赤穂浪士である大石義雄 (大石内蔵助=おおいしくらのすけ)・主税父子、寺坂吉右衛門の墓があることで有名です。これは、赤穂浪士を資金面で援助した大阪商人・天野屋利兵衛の子孫が建てたものです。
生根神社が近くにあります。
生根神社(いくねじんじゃ)
創建時期は不詳。一帯は住吉大社の神領であったことから、住吉大社摂社であった生根神社(奥の天神。現在は住吉大社から)から、少彦名神の分霊を勧請して玉出の産土神としたのに始まると伝えられているそうです。
阪堺電車の横を歩きます。
迫力ありました。
東福寺(とうふくじ)を通過します。
住吉行宮跡に着きました。
住吉行宮跡(すみよしあんぐうあと)
南朝の後村上天皇は、正平6年(1351)、北朝を奉じる足利義詮が降伏を申し出たので、翌年奈良県賀名生から住吉大社宮司津守国夏邸内の正印殿に移り、ここを行宮(行幸時の仮の宮居)とした。そのうち義詮は勢力をもり返して天皇の軍は敗れ、ふたたび賀名生に戻りました。後村上天皇はその後、たびたび行幸されましたが、ついに京都奪還はならず正平23年(1368)3月11日、41歳でこの地で亡くなられた。つぎの長慶天皇が即位されたのもこの地だそうです。
熊野街道に沿って極楽寺に向かいます。
極楽寺(ごくらくじ)
創建年は不祥。本尊毘沙門天はここから南に広がっていた榎津庄(奈良~平安期に見られる郷)にあった寺のものと伝えられている。境内には大きな一基の毘沙門天石灯籠がある。表面の磨滅は甚だしいが、建武3年(1336)丙子3月の銘があり、重要文化財に指定。一説によると当寺に祈願して誕生した楠木正成の寄進と伝えられているそうです。
安楽寺が向かいにあります。
安楽寺(あんらくじ)
遠里小野南公園で休憩した後、大阪市立大学にある五代友厚像に向かいます。
大和川河川敷を歩きます。
JR杉本町に向かいます。
大阪市立大学の中央を横切る道路
五代友厚像(ごだい ともあつぞう)
五代 友厚は、江戸時代末期から明治時代中期にかけての日本の武士(薩摩藩士)、実業家。薩摩国鹿児島城下長田町城ヶ谷(現鹿児島市長田町)生まれ。大阪経済界の重鎮の一人。当時、「まさに瓦解に及ばんとする萌し」(五代)のあった大阪経済を立て直すために、商工業の組織化、信用秩序の再構築を図ったそうです。
五代友厚像は、今回訪れた大阪市立大学(2016年3月完成)の他にも、北浜の大阪取引所前、光世証券前、本町の大阪商工会議所前、大阪市立大阪ビジネスフロンティア高校(非公開)、大阪企業家ミュージアムにもあるそうです。(計6個)
2016年3月の除幕式にはNHK連続テレビ小説「あさが来た」で五代を演じた俳優、ディーン・フジオカさんも出席されたそうです。
浅香中央公園に着きました。
浅香中央公園で昼食休憩になりました。
昼食休憩後、大依羅神社、あびこ観音寺を経由してあびこ駅まで歩きました。
公園を出発します。
大依羅神社(おおよさみ じんじゃ)
祭神は、依羅吾彦の祖先である建豊波豆羅和気王を主神として合祀。依羅吾彦は、14代仲哀天皇に従って「熊襲征伐」に出かけたこともあり、この地に住んで豪族となる。日本書紀によると、当神社は広大で、依羅氏が代々神主となっていたが、南北朝の戦乱により依羅氏が滅び、社殿も焼失。現在の本殿の西北側にある古井戸は「庭井の清水」と呼ばれ、庭井の地名もこの伝説によるといわれているそうです。
あびこ観音寺(あびこかんのんじ)
観音霊場として名高い古刹。推古天皇14年(606年)、聖徳太子がこの地を訪れ、伽藍建立せよと仰せられたことがはじまりと伝えられている。戦乱の時代、大坂夏の陣で徳川家康が真田軍勢に追われた際に、辛くもこの寺にかくまわれ、観音様のご加護で九死に一生を得たとも言われている。毎年、節分には護摩焚きが執行され、多くの人で賑わうそうです。
この後、あびこ駅まで歩きました。
Niceボタンをクローズさせていただきました。
ご訪問していただきありがとうございました。
大和川堤防
大阪住吉区の歴史的な街並みを歩いてきました。
当日は曇り、晴れ、最高気温20.2℃。気持ち良いウォーキングになりました。
集合場所住吉大社を出発して、一運寺、生根神社、東福寺、住吉行宮跡、極楽寺、安楽寺、五代友厚像を経由して浅香中央公園まで歩きます。
集合場所の住吉大社。有名な太鼓橋です。
住吉大社を出発します。
住吉大社(すみよしたいしゃ)
全国に約2,300社ある住吉神社の総本社。下関の住吉神社、博多の住吉神社とともに日本三大住吉の一社。また、毎年初詣の参拝者の多さでも全国的に有名。四棟の本殿は国宝に指定されているそうです。
直ぐに、一運寺に着きました。
一運寺(いちうんじ)
一運寺は聖徳太子の創建で、天正14年(1586)に本誉存寧が再興し、寛永8年(1631)に広誉龍哲が本堂を再建した。最澄や空海も説法を行ったと言われている由緒正しい寺です。境内には、赤穂浪士である大石義雄 (大石内蔵助=おおいしくらのすけ)・主税父子、寺坂吉右衛門の墓があることで有名です。これは、赤穂浪士を資金面で援助した大阪商人・天野屋利兵衛の子孫が建てたものです。
生根神社が近くにあります。
生根神社(いくねじんじゃ)
創建時期は不詳。一帯は住吉大社の神領であったことから、住吉大社摂社であった生根神社(奥の天神。現在は住吉大社から)から、少彦名神の分霊を勧請して玉出の産土神としたのに始まると伝えられているそうです。
阪堺電車の横を歩きます。
迫力ありました。
東福寺(とうふくじ)を通過します。
住吉行宮跡に着きました。
住吉行宮跡(すみよしあんぐうあと)
南朝の後村上天皇は、正平6年(1351)、北朝を奉じる足利義詮が降伏を申し出たので、翌年奈良県賀名生から住吉大社宮司津守国夏邸内の正印殿に移り、ここを行宮(行幸時の仮の宮居)とした。そのうち義詮は勢力をもり返して天皇の軍は敗れ、ふたたび賀名生に戻りました。後村上天皇はその後、たびたび行幸されましたが、ついに京都奪還はならず正平23年(1368)3月11日、41歳でこの地で亡くなられた。つぎの長慶天皇が即位されたのもこの地だそうです。
熊野街道に沿って極楽寺に向かいます。
極楽寺(ごくらくじ)
創建年は不祥。本尊毘沙門天はここから南に広がっていた榎津庄(奈良~平安期に見られる郷)にあった寺のものと伝えられている。境内には大きな一基の毘沙門天石灯籠がある。表面の磨滅は甚だしいが、建武3年(1336)丙子3月の銘があり、重要文化財に指定。一説によると当寺に祈願して誕生した楠木正成の寄進と伝えられているそうです。
安楽寺が向かいにあります。
安楽寺(あんらくじ)
遠里小野南公園で休憩した後、大阪市立大学にある五代友厚像に向かいます。
大和川河川敷を歩きます。
JR杉本町に向かいます。
大阪市立大学の中央を横切る道路
五代友厚像(ごだい ともあつぞう)
五代 友厚は、江戸時代末期から明治時代中期にかけての日本の武士(薩摩藩士)、実業家。薩摩国鹿児島城下長田町城ヶ谷(現鹿児島市長田町)生まれ。大阪経済界の重鎮の一人。当時、「まさに瓦解に及ばんとする萌し」(五代)のあった大阪経済を立て直すために、商工業の組織化、信用秩序の再構築を図ったそうです。
五代友厚像は、今回訪れた大阪市立大学(2016年3月完成)の他にも、北浜の大阪取引所前、光世証券前、本町の大阪商工会議所前、大阪市立大阪ビジネスフロンティア高校(非公開)、大阪企業家ミュージアムにもあるそうです。(計6個)
2016年3月の除幕式にはNHK連続テレビ小説「あさが来た」で五代を演じた俳優、ディーン・フジオカさんも出席されたそうです。
浅香中央公園に着きました。
浅香中央公園で昼食休憩になりました。
昼食休憩後、大依羅神社、あびこ観音寺を経由してあびこ駅まで歩きました。
公園を出発します。
大依羅神社(おおよさみ じんじゃ)
祭神は、依羅吾彦の祖先である建豊波豆羅和気王を主神として合祀。依羅吾彦は、14代仲哀天皇に従って「熊襲征伐」に出かけたこともあり、この地に住んで豪族となる。日本書紀によると、当神社は広大で、依羅氏が代々神主となっていたが、南北朝の戦乱により依羅氏が滅び、社殿も焼失。現在の本殿の西北側にある古井戸は「庭井の清水」と呼ばれ、庭井の地名もこの伝説によるといわれているそうです。
あびこ観音寺(あびこかんのんじ)
観音霊場として名高い古刹。推古天皇14年(606年)、聖徳太子がこの地を訪れ、伽藍建立せよと仰せられたことがはじまりと伝えられている。戦乱の時代、大坂夏の陣で徳川家康が真田軍勢に追われた際に、辛くもこの寺にかくまわれ、観音様のご加護で九死に一生を得たとも言われている。毎年、節分には護摩焚きが執行され、多くの人で賑わうそうです。
この後、あびこ駅まで歩きました。
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琵琶湖一周ウォークその8 湖西史跡と公園巡りコース[ウォーキング琵琶湖一周] [ウォーキング琵琶湖一周]
「琵琶湖一周ウォークその8」に参加してきました。(20181125)
大津港
旅客船ミシガン
唐崎神社近くの景色
琵琶湖一周9回割ウォーク
琵琶湖一周9回割ウォークは琵琶湖一周の約235kmを1月から11月にかけて合計9回で回るウォーキングです。冬の寒い日も夏の暑い日も雨の日もあると思いますが全参加を目指して頑張りたいと思います。
「琵琶湖一周9回割ウォーク」の第8回目。今回は堅田駅から石山駅まで 湖西史跡と公園などを巡ってきました。
当日は晴れ、最高気温15.7℃。爽やかな秋晴れの中、楽しいウォーキングになりました。
集合場所堅田駅を出発して、雄琴港口、坂本城址碑を経由して湖岸緑地唐崎苑まで歩きます。
集合場所の堅田駅
堅田駅を出発します。
雄琴港口に向かいます。
雄琴港口(おごとこうぐち)
おごと温泉最寄りの港。夏にはおごと温泉花火大会の会場となるそうです。
少し休憩後、坂本城址碑に向かいます。
琵琶湖浄水場を通過します。
坂本城址碑を通過します。
坂本城址碑(さかもとじょうあとひ)
坂本城は戦国時代に明智光秀(1528-82)が築城した城。現在、遺構がほとんど残っておらず、この碑だけがひっそりと立っているだけ。坂本城は城内に琵琶湖の水を引き入れた水城形式で、高い天守閣を持ち、その姿は非常に豪壮であったといいます。「その結構壮美なるには眼を驚かす」と絶賛されたこの名城は、明智光秀の支配のもと、比叡山の監視と西近江路(にしおうみじ)・坂本港明智の要衝の地となりました。本能寺の変の後、山崎(やまさき)の合戦で敗れた明智一族の秀満が妻子を刺し殺して城に火を放ち、討ち死にした史実は、戦国の悲話としてもよく語られているそうです。
湖岸緑地唐崎苑に向かいます。
綺麗な街並みでした。
湖岸緑地唐崎苑に着きました。
湖岸緑地唐崎苑で昼食休憩にしました。
昼食休憩後、唐崎神社、陸上自衛隊、琵琶湖疎水、大津港、プリンスホテル、膳所公園を経由して石山駅まで歩きました。
唐崎神社(からさきじんじゃ)
近江八景の一つで境内には宇志丸宿禰が植えたとされる「唐崎の松」があり、境内から琵琶湖を背景に唐崎の松を描いた歌川広重の「唐崎の夜雨」が有名だそうです。
唐崎の松
近江八景の標識
陸上自衛隊を通過します。
琵琶湖疎水を第二、第一の順に渡ります。
琵琶湖疎水(びわこそすい)
京阪電鉄三井寺駅のすぐ北側を流れる疏水運河。京都への飲料水の供給と灌漑、水運、発電を目的として明治18年(1885)6月2日に着工、約5年の歳月をかけて明治23年(1890)4月に完成(第2疏水は明治45年(1912)に完成、全線トンネルで、延長7.4km)。全長11.1km、日本人だけの技術で、資材面などの困難を克服し、明治中期における日本土木技術の確立を示すとともに、天然の湖にはじめて人工的変改を行なったものとして画期的な事業といわているそうです。琵琶湖から取り入れられた水は、工事中もっとも困難を極めた長等山トンネルを通って京都市山科区で地上にあらわれ、再びいくつかのトンネルを抜け、京都市左京区の蹴上(けあげ)、そして鴨川、宇治川へと流れていくそうです。
第一疎水の琵琶湖側の景色です。
大津港に着きました。
大津港(おおつこう)
かつて北国と畿内を結ぶ物資の湖上交通の要所として、秀吉は大津港に大津百艚船仲間を作り、北国物資の集散地として栄えた湊。現在は琵琶湖観光の玄関口として賑わい、南湖遊覧や限定クルーズなどが人気だそうです。
少し休憩した後、プリンスホテルに向かいます。
プリンスホテルを通過します。
近江大橋、膳所公園に向かいます。
膳所公園に着きました。
この後、石山駅まで歩きました。
石山駅
ご訪問していただきありがとうございました。
大津港
旅客船ミシガン
唐崎神社近くの景色
琵琶湖一周9回割ウォーク
琵琶湖一周9回割ウォークは琵琶湖一周の約235kmを1月から11月にかけて合計9回で回るウォーキングです。冬の寒い日も夏の暑い日も雨の日もあると思いますが全参加を目指して頑張りたいと思います。
「琵琶湖一周9回割ウォーク」の第8回目。今回は堅田駅から石山駅まで 湖西史跡と公園などを巡ってきました。
当日は晴れ、最高気温15.7℃。爽やかな秋晴れの中、楽しいウォーキングになりました。
集合場所堅田駅を出発して、雄琴港口、坂本城址碑を経由して湖岸緑地唐崎苑まで歩きます。
集合場所の堅田駅
堅田駅を出発します。
雄琴港口に向かいます。
雄琴港口(おごとこうぐち)
おごと温泉最寄りの港。夏にはおごと温泉花火大会の会場となるそうです。
少し休憩後、坂本城址碑に向かいます。
琵琶湖浄水場を通過します。
坂本城址碑を通過します。
坂本城址碑(さかもとじょうあとひ)
坂本城は戦国時代に明智光秀(1528-82)が築城した城。現在、遺構がほとんど残っておらず、この碑だけがひっそりと立っているだけ。坂本城は城内に琵琶湖の水を引き入れた水城形式で、高い天守閣を持ち、その姿は非常に豪壮であったといいます。「その結構壮美なるには眼を驚かす」と絶賛されたこの名城は、明智光秀の支配のもと、比叡山の監視と西近江路(にしおうみじ)・坂本港明智の要衝の地となりました。本能寺の変の後、山崎(やまさき)の合戦で敗れた明智一族の秀満が妻子を刺し殺して城に火を放ち、討ち死にした史実は、戦国の悲話としてもよく語られているそうです。
湖岸緑地唐崎苑に向かいます。
綺麗な街並みでした。
湖岸緑地唐崎苑に着きました。
湖岸緑地唐崎苑で昼食休憩にしました。
昼食休憩後、唐崎神社、陸上自衛隊、琵琶湖疎水、大津港、プリンスホテル、膳所公園を経由して石山駅まで歩きました。
唐崎神社(からさきじんじゃ)
近江八景の一つで境内には宇志丸宿禰が植えたとされる「唐崎の松」があり、境内から琵琶湖を背景に唐崎の松を描いた歌川広重の「唐崎の夜雨」が有名だそうです。
唐崎の松
近江八景の標識
陸上自衛隊を通過します。
琵琶湖疎水を第二、第一の順に渡ります。
琵琶湖疎水(びわこそすい)
京阪電鉄三井寺駅のすぐ北側を流れる疏水運河。京都への飲料水の供給と灌漑、水運、発電を目的として明治18年(1885)6月2日に着工、約5年の歳月をかけて明治23年(1890)4月に完成(第2疏水は明治45年(1912)に完成、全線トンネルで、延長7.4km)。全長11.1km、日本人だけの技術で、資材面などの困難を克服し、明治中期における日本土木技術の確立を示すとともに、天然の湖にはじめて人工的変改を行なったものとして画期的な事業といわているそうです。琵琶湖から取り入れられた水は、工事中もっとも困難を極めた長等山トンネルを通って京都市山科区で地上にあらわれ、再びいくつかのトンネルを抜け、京都市左京区の蹴上(けあげ)、そして鴨川、宇治川へと流れていくそうです。
第一疎水の琵琶湖側の景色です。
大津港に着きました。
大津港(おおつこう)
かつて北国と畿内を結ぶ物資の湖上交通の要所として、秀吉は大津港に大津百艚船仲間を作り、北国物資の集散地として栄えた湊。現在は琵琶湖観光の玄関口として賑わい、南湖遊覧や限定クルーズなどが人気だそうです。
少し休憩した後、プリンスホテルに向かいます。
プリンスホテルを通過します。
近江大橋、膳所公園に向かいます。
膳所公園に着きました。
この後、石山駅まで歩きました。
石山駅
ご訪問していただきありがとうございました。
平野の自治都市と長瀬川水辺を歩く(大阪市) [ウォーキング大阪市]
「平野の自治都市と長瀬川水辺を歩く」に参加してきました。(20181117)
秋色の白鷺公園
大阪平野の自治都市と長瀬川水辺を歩いてきました。
当日は晴れ、最高気温19.8℃。気持ち良いウォーキングになりました。
集合場所長居公園を出発して、酒君塚古墳、喜連西中央公園、今川公園、白鷺公園を経由して 平野公園まで歩きます。
集合場所の長居公園
長居公園の中を出発します。
長居陸上競技場の前を通過します。
長居公園を出て、酒君塚古墳に向かいます。
酒君塚古墳を通過します。
酒君塚古墳(さけきみつかこふん)
駒川上流右岸にある鷹合の酒君(さけきみ)塚古墳は、近年の発掘調査によって、現在の墳丘の盛土下に、かって平塚と呼ばれた長径35m以上、高さ2m前後の古墳の墳丘が確認され、出土した円筒埴輪から築造時期は四世紀末で、田辺古墳群では最も古い古墳。また、酒君塚古墳(平塚)は御勝山古墳に次ぐクラスの平野川に至る駒川・今川水系の首長墓で、田辺古墳群の被葬者の頂点に立った倭王権とも関わりの深い人物であったとされているそうです。
喜連西中央公園に着きました。
少し休憩後、平野公園に向かいます。
長瀬川沿いを歩きます。
今川公園を通過します。
白鷺公園に向かいます。
白鷺公園で休憩になりました。
平野中央本通商店街を通過します。
平野公園に着きました。
平野公園で昼食休憩になりました。
昼食休憩後、平野駅まで歩きました。
平野駅近くに菅原神社がありました。
菅原神社(すがはらじんじゃ)
もと天児屋根尊を祀り橘宮と称したが、のちに天神社と称して、菅原道真公を祀る。創建の年月は明らかではないが、鬼門除けの神として信仰を集め、境内の砂を持ち帰る風習があった。明治5年村社となり、さらに40年10月南鞍作村の無格社天照皇大神社、41年10月鞍作、新家村の村社菅原神社を合祀した。しかし、新家村の天神社は近時旧地に戻って独立した。神社奥には、鞍作、南鞍作、新家の三ヶ村を潤した三鞍作用水樋門の記念碑があるそうです。
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秋色の白鷺公園
大阪平野の自治都市と長瀬川水辺を歩いてきました。
当日は晴れ、最高気温19.8℃。気持ち良いウォーキングになりました。
集合場所長居公園を出発して、酒君塚古墳、喜連西中央公園、今川公園、白鷺公園を経由して 平野公園まで歩きます。
集合場所の長居公園
長居公園の中を出発します。
長居陸上競技場の前を通過します。
長居公園を出て、酒君塚古墳に向かいます。
酒君塚古墳を通過します。
酒君塚古墳(さけきみつかこふん)
駒川上流右岸にある鷹合の酒君(さけきみ)塚古墳は、近年の発掘調査によって、現在の墳丘の盛土下に、かって平塚と呼ばれた長径35m以上、高さ2m前後の古墳の墳丘が確認され、出土した円筒埴輪から築造時期は四世紀末で、田辺古墳群では最も古い古墳。また、酒君塚古墳(平塚)は御勝山古墳に次ぐクラスの平野川に至る駒川・今川水系の首長墓で、田辺古墳群の被葬者の頂点に立った倭王権とも関わりの深い人物であったとされているそうです。
喜連西中央公園に着きました。
少し休憩後、平野公園に向かいます。
長瀬川沿いを歩きます。
今川公園を通過します。
白鷺公園に向かいます。
白鷺公園で休憩になりました。
平野中央本通商店街を通過します。
平野公園に着きました。
平野公園で昼食休憩になりました。
昼食休憩後、平野駅まで歩きました。
平野駅近くに菅原神社がありました。
菅原神社(すがはらじんじゃ)
もと天児屋根尊を祀り橘宮と称したが、のちに天神社と称して、菅原道真公を祀る。創建の年月は明らかではないが、鬼門除けの神として信仰を集め、境内の砂を持ち帰る風習があった。明治5年村社となり、さらに40年10月南鞍作村の無格社天照皇大神社、41年10月鞍作、新家村の村社菅原神社を合祀した。しかし、新家村の天神社は近時旧地に戻って独立した。神社奥には、鞍作、南鞍作、新家の三ヶ村を潤した三鞍作用水樋門の記念碑があるそうです。
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