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22.平野区をあるく(大阪) [ウォーキング大阪24区]

「平野区をあるく」に参加してきました。(20181225)

大念仏寺
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大阪平野区の歴史的な街並みを歩いてきました。

当日は晴れ、最高気温12.3℃。気持ち良いウォーキングになりました。


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集合場所長吉東部中央公園を出発して、志紀長吉神社、川辺八幡神社、小松神社、敬正寺、瓜破天神社を経由して瓜破霊園まで歩きます。



集合場所の長吉東部中央公園を出発して志紀長吉神社に向かいます。
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志紀長吉神社(しきながよしじんじゃ)
延喜式内の神社で祭神は長江襲津彦命、事代主命の二座である。明治5年に旧郷社に列せられたころは、旧長吉、瓜破、恵我、大正、藤井寺の各村の総氏神であったが、現在は長吉一円の氏神である。大坂夏の陣のとき、豊臣方の武将真田幸村がこの神社に刀剣と軍旗を奉納して戦勝を祈願したと伝えられ、刀剣は第2次世界大戦後、占領軍の命令で没収されたが、軍旗は今も神社に保存されている。麻布で、「真田の六文銭」がくっきりと描かれているそうです。
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気持ち良い佇まいの街並みを歩きます。
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川辺八幡神社(かわなべはちまんじんじゃ)
創建の年月不詳であるが、石清水八幡宮の分霊を勧請したものと伝わる。往時は、社殿も壮大で社領も広く、いまの境外地字垣添の全部を包容し、社領も4町歩以上におよんだが、1704年の大和川付け替え工事よって立ち退きを余儀なくされ、社領地の大部分がその川床となった。明治5年村社に指定された。境内の楠の木には黒い龍が宿るという伝承があり、推定樹齢300年以上で大阪市の保存樹に指定されている。また、毎年9月の秋祭には大和川に御輿を担ぎ入れる「足洗い」神事に併せて仕掛け花火と打上げ花火が行なわれ、秋の川面を彩るそうです。
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大和川の堤防を歩きます。
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川辺大和川公園で少し休憩後、瓜破霊園に向かいます。

小松神社( こまつじんじゃ)
「瓜破の古書「船戸録」によると、この地に源氏の武士権守宗重の一子で湯浅七郎兵衛宗光という人が住んでいた。この宗光が安元の戦いの際、平重盛に危い命を助けられたことがあった。その後、平重盛は紀州の熊野浦に入水してこの世を去った。このことを知った宗光は報恩のため自己所有の土地を寄進し、社殿を建て、その霊を祀り小松大明神と名付けられた。その後、小松大明神は本郷の氏神さまとして郷民たちの信仰を集めるようになった。元来、この神社は当地の南西方向に位置していたが鉄道敷にかかったため天神社に合祀されていたものを、南之町の有志によりこの地に社を昭和22年に建立し、祀ることにされたそうです。
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敬正寺(きょうしょうじ)
大化年間(645~649年)道昭法師により創建された永楽寺の遺跡といわれ、永楽寺の本尊五智如来(五輪仏)のうち2体の石像が安置されている。右側の大きい方が大日如来で、左側が阿弥陀如来である。豊かな頬をして落ち着いた像容から、制作年代は平安後期までさかのぼるものと推定されている。大日如来には生駒山の花崗岩、阿弥陀如来は二上山の安山岩が用いられており、府の有形文化財に指定されているそうです。
(写真はネットから引用させていただきました)
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瓜破天神社(うりわりてんじんじゃ)
僧道昭がこの地で修行中天神の霊像が出現した。そこで瓜を割って供えたが、この伝承が瓜破という地名の起源のひとつといわれている。道昭は、当地の出身と伝えられ白雉4年(653年)遣唐使に従って入唐し、玄弉三蔵の教えを受け、帰国後諸国を遍歴して庶民に慕われたことが、続日本紀にみられるそうです。
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瓜破霊園で昼食休憩になりました。


昼食休憩後、八坂神社、如願寺、楯原神社、平野公園、全興寺、長實寺、大念仏寺を経由して地下鉄平野駅まで歩きました。

八坂神社(やさかじんじゃ)
東喜連村の氏神で素盞鳴尊を祀り、八坂神社と称していたが、嘉永年間に忍坂大中姫命(允恭天皇の皇后)を祀る媛天神を合祀して東西神社となった。改称は、合祀により氏子が東西喜連村にまたがることになったので、東西の二字をとった。明治42年12月、天神・東西・春日の三社は現在の楯原神社に合祀されていたが、氏子の決議にもとづき再び八坂神社とした。昭和26年7月、東喜連氏子の要望により、東西社・春日社を元の東喜連に分離移転し、同時に地域の氏子も別れることとなったそうです。
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如願寺(にょがんじ)
崇峻天皇元年(588年)聖徳太子の創建として、もと喜連寺といわれた。阿弥陀寺・弥勒寺など四方に荘厳な諸堂が建てられた大伽藍であったがその後、弘法大師により再建、如願寺と改められた。本尊聖観世音菩薩は平安時代の作で、大阪府有形文化財に指定されており、摂津国三十三所観音霊場の第三十二番札所でもあるそうです。
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楯原神社は如願寺の横にありました。


楯原神社(たてはらじんじゃ)
神社の歴史はきわめて古く、崇神天皇の頃初めて祀られたといわれる延喜式内の古社であり、祭神は武甕槌大神と大国主大神である。また、神武天皇が国内平定に用いられた十握の劒を祀ったと社伝にある。もと、字楯原(現在の喜連西1)にあったが、兵火にあい現在の地に移ったそうです。
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平野公園で少し休憩になりました。
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この後、大念仏寺に向かいます。

全興寺(せんこうじ)
平野がまだ広々とした野であったころ、ここに薬師堂が建てられ、そこを中心に人が住みはじめ、平野の町がしだいに広がっていったといわれる。本尊は薬師如来で、聖徳太子の作と伝えられている。また、当寺には、真田幸村が樋之尻口の地蔵堂に仕掛けた地雷によって飛来したという伝説をもつ「首の地蔵尊」や湛慶作と伝えられる「太子の像」がある。境内には、「地獄堂」や「水琴窟」「駄菓子屋さん博物館」もあり、見どころが多いそうです。
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長宝寺(ちょうほうじ)
桓武天皇の妃であった坂上春子姫が、平安時代初めの大同年間(806~810年)に出家して開いた高野山真言宗の寺院であり、坂上家の氏寺でもあります。境内の銅鐘は鎌倉時代の代表的な作で重要文化財に指定されています。また、室町時代に当寺の慶心と言う尼さんが地獄へ行って戻り、その様子を記した「よみかえりの草紙」や閻魔王が自ら刻んだという閻魔像と「宝印」が寺に伝わり、毎年5月18日のご開帳の時、おでこに閻魔様の「宝印」を押してもらえば極楽へ行けると伝えられているそうです。
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大念仏寺(だいねんぶつじ)
融通念仏宗の総本山で、大治2年(1127年) 聖応大師(良忍上人)が建立したものである。当寺には国宝「毛詩鄭箋残巻」、重要文化財「融通念仏勘進帳」等があり、総本山特別行事として1・5・9月のそれぞれ16日に百万遍会(大数珠くり)、5月1日~5日の阿弥陀経万部会(万部おねり)はことに有名である。また、本堂は、木造の建物では大阪府下最大だそうです。
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この後、地下鉄平野駅まで歩きました。





今回が今年最後のウォーキング記録になります。
一年間ありがとうございました。

どうぞ、良いお年をお迎えください。 来年もよろしくお願いいたします。


ご訪問していただきありがとうございました。



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