熊野街道をあるく その5(最終回)(大阪) [ウォーキング京街道_熊野街道]
「熊野街道をあるく その5(最終回)」に参加してきました。(20171226)
泉井上神社
今年のウォーキングの目標の一つ「熊野街道をあるく」に参加しました。
熊野街道
熊野街道は大阪天満の八軒家浜を起点として和歌山の熊野三山に至る街道です。
今回の「熊野街道をあるく」は大阪天満宮から東岸和田までを5回に分けて歩きます。
今回は第5回目(最終回)として和泉府中駅から東岸和田駅まで歩きました。
当日は曇り、最高気温8℃。少し寒かったですが気持ち良いウォーキングになりました。
集合場所和泉府中駅を出発して泉井上神社、井の口王子跡、小田公園、郡界橋を経由して久米田池まで歩きます。
集合場所の和泉府中駅
駅の近くの泉井上神社を訪れます。
泉井上神社(いずみいのうえじんじゃ)
創建時期は定かでないが、神武天皇が東征の成就を祈願したとのいい伝えが残る古社。仲哀天皇2年(200)、神功皇后がこの地に行啓した際、突然、清水が湧き出した。皇后はこれを喜び、霊泉として祀ったことから、この地を「和泉」と呼ぶようになったという。また豊臣秀吉はこの和泉清水の水を大坂城まで運ばせ、茶の湯に用いたとも伝えられる。霊亀2年(716)、和泉監(いずみのげん)が置かれ、この地が地方政治の中心地となった時、泉井上神社の傍らに、和泉五社(五社大明神:大鳥/泉穴師/聖/積川/日根)を合祀した和泉国総社が建立された。泉井上神社の本殿北には、慶長10年(1605)、豊臣秀頼によって再建された五社総社の社殿が残り、国の重要文化財に指定されているそうです。
この後、近くの公園でコース説明がありました。
公園を出発します。
熊野街道の標識がありました。
井の口王子跡
小田公園に向かいます。
小田公園に着きました。
少し休憩後、松尾川沿いを歩いて郡界橋に向かいます。
郡界橋(ぐんかいばし)
岸和田市と和泉市の境目の辺り。昔の泉南郡と泉北郡の境界に架かる橋だそうです。
郡界橋から久米田池を目指します。
魔湯山古墳(まゆやまこふん)
前方部を北西に向けており、墳丘の長さ約200m、後円部径約130m、高さ約15m、前方部幅約95m、高さ8m、後円部と比べて前方部の幅が狭く、西南側には傾斜地を利用した痕跡が認められる。和泉地方最大の前方後円墳で保存の状態もきわめて良好なことから、1956年(昭和31)に国の史跡に指定された。墳丘ならびに堤上には円筒埴輪(はにわ)が並び、墳丘上には葺石(ふきいし)が認められ、くびれ部には造り出し(祭祀を行った場所)が設けられている。後円部の周りには濠がめぐっていたが、現在は溜め池となっており、築造当時のものではないと考えられ、築造時期は古墳時代前期(4世紀代)で、中央政権と結びつきが強い在地豪族の墳墓と推定されているそうです。
久米田池
ここで昼食休憩になりました。
昼食休憩後は久米田寺、久米田古墳群、積川神社遥拝所鳥居、ときわ公園を経由して東岸和田駅まで歩きました。
久米田寺(くめだでら)
僧行基が天平10年(738年)に開基したが、永禄年間(1558~1570)の三好氏と畠山氏の戦火で焼失。現在の建物は、江戸時代中期に再建されたものです。久米田寺所蔵の文書の内「楠家文書」などが、国の重要文化財として、指定されています。4月21日は久米田寺の縁日で、近隣の住民は「21日のおだいっさん」と親しみ、また、春は桜の名所として有名だそうです。
久米田古墳群(くめだこふんぐん)
池尻町付近の標高35~40mの久米田丘陵にあります。過去、10数基の古墳があったと考えられていますが、現在は8基の古墳が確認されています。そのうち、貝吹山古墳、風吹山古墳、無名塚古墳の3基は現在、一部整備され久米田公園の中に存在します。古墳時代、岸和田市のある和泉地域で力を持っていた首長のお墓(古墳)は、岸和田市摩湯町にある摩湯山古墳から始まります。その後、岸和田市近隣で貝吹山古墳と同等の古墳が造られていきます。しかし、時代が下るにつれて、中央政権と和泉地域の首長との関係の変化などから岸和田市内では大規模な古墳は造られなくなったそうです。
積川神社遥拝所鳥居(つがわじんじゃようはいじょとりい)
積川神社遥拝所は大阪府岸和田市小松里町字北額(額町)の府道30号線(熊野古道)沿いにある。積川神社の氏地は牛滝川に沿って磯上町付近までに及び、遠方の氏子が積川神社に参拝できるよう、中間地点付近に遥拝所が設けられたそうです。
ときわ公園
この後、東岸和田駅まで歩きました。
「京街道をあるく」及び「熊野街道をあるく」を無事に完歩することが出来ました。
スタッフの皆さま、有難うございました。
今回が今年最後のウォーキング記録になります。
一年間ありがとうございました。
どうぞ、良いお年をお迎えください。 来年もよろしくお願いいたします。
ご訪問していただきありがとうございました。
泉井上神社
今年のウォーキングの目標の一つ「熊野街道をあるく」に参加しました。
熊野街道
熊野街道は大阪天満の八軒家浜を起点として和歌山の熊野三山に至る街道です。
今回の「熊野街道をあるく」は大阪天満宮から東岸和田までを5回に分けて歩きます。
今回は第5回目(最終回)として和泉府中駅から東岸和田駅まで歩きました。
当日は曇り、最高気温8℃。少し寒かったですが気持ち良いウォーキングになりました。
集合場所和泉府中駅を出発して泉井上神社、井の口王子跡、小田公園、郡界橋を経由して久米田池まで歩きます。
集合場所の和泉府中駅
駅の近くの泉井上神社を訪れます。
泉井上神社(いずみいのうえじんじゃ)
創建時期は定かでないが、神武天皇が東征の成就を祈願したとのいい伝えが残る古社。仲哀天皇2年(200)、神功皇后がこの地に行啓した際、突然、清水が湧き出した。皇后はこれを喜び、霊泉として祀ったことから、この地を「和泉」と呼ぶようになったという。また豊臣秀吉はこの和泉清水の水を大坂城まで運ばせ、茶の湯に用いたとも伝えられる。霊亀2年(716)、和泉監(いずみのげん)が置かれ、この地が地方政治の中心地となった時、泉井上神社の傍らに、和泉五社(五社大明神:大鳥/泉穴師/聖/積川/日根)を合祀した和泉国総社が建立された。泉井上神社の本殿北には、慶長10年(1605)、豊臣秀頼によって再建された五社総社の社殿が残り、国の重要文化財に指定されているそうです。
この後、近くの公園でコース説明がありました。
公園を出発します。
熊野街道の標識がありました。
井の口王子跡
小田公園に向かいます。
小田公園に着きました。
少し休憩後、松尾川沿いを歩いて郡界橋に向かいます。
郡界橋(ぐんかいばし)
岸和田市と和泉市の境目の辺り。昔の泉南郡と泉北郡の境界に架かる橋だそうです。
郡界橋から久米田池を目指します。
魔湯山古墳(まゆやまこふん)
前方部を北西に向けており、墳丘の長さ約200m、後円部径約130m、高さ約15m、前方部幅約95m、高さ8m、後円部と比べて前方部の幅が狭く、西南側には傾斜地を利用した痕跡が認められる。和泉地方最大の前方後円墳で保存の状態もきわめて良好なことから、1956年(昭和31)に国の史跡に指定された。墳丘ならびに堤上には円筒埴輪(はにわ)が並び、墳丘上には葺石(ふきいし)が認められ、くびれ部には造り出し(祭祀を行った場所)が設けられている。後円部の周りには濠がめぐっていたが、現在は溜め池となっており、築造当時のものではないと考えられ、築造時期は古墳時代前期(4世紀代)で、中央政権と結びつきが強い在地豪族の墳墓と推定されているそうです。
久米田池
ここで昼食休憩になりました。
昼食休憩後は久米田寺、久米田古墳群、積川神社遥拝所鳥居、ときわ公園を経由して東岸和田駅まで歩きました。
久米田寺(くめだでら)
僧行基が天平10年(738年)に開基したが、永禄年間(1558~1570)の三好氏と畠山氏の戦火で焼失。現在の建物は、江戸時代中期に再建されたものです。久米田寺所蔵の文書の内「楠家文書」などが、国の重要文化財として、指定されています。4月21日は久米田寺の縁日で、近隣の住民は「21日のおだいっさん」と親しみ、また、春は桜の名所として有名だそうです。
久米田古墳群(くめだこふんぐん)
池尻町付近の標高35~40mの久米田丘陵にあります。過去、10数基の古墳があったと考えられていますが、現在は8基の古墳が確認されています。そのうち、貝吹山古墳、風吹山古墳、無名塚古墳の3基は現在、一部整備され久米田公園の中に存在します。古墳時代、岸和田市のある和泉地域で力を持っていた首長のお墓(古墳)は、岸和田市摩湯町にある摩湯山古墳から始まります。その後、岸和田市近隣で貝吹山古墳と同等の古墳が造られていきます。しかし、時代が下るにつれて、中央政権と和泉地域の首長との関係の変化などから岸和田市内では大規模な古墳は造られなくなったそうです。
積川神社遥拝所鳥居(つがわじんじゃようはいじょとりい)
積川神社遥拝所は大阪府岸和田市小松里町字北額(額町)の府道30号線(熊野古道)沿いにある。積川神社の氏地は牛滝川に沿って磯上町付近までに及び、遠方の氏子が積川神社に参拝できるよう、中間地点付近に遥拝所が設けられたそうです。
ときわ公園
この後、東岸和田駅まで歩きました。
「京街道をあるく」及び「熊野街道をあるく」を無事に完歩することが出来ました。
スタッフの皆さま、有難うございました。
今回が今年最後のウォーキング記録になります。
一年間ありがとうございました。
どうぞ、良いお年をお迎えください。 来年もよろしくお願いいたします。
ご訪問していただきありがとうございました。
熊野街道をあるく その4(大阪) [ウォーキング京街道_熊野街道]
「熊野街道をあるく その4」に参加してきました。(20171128)
池上曽根遺跡公園
今年のウォーキングの目標の一つ「熊野街道をあるく」に参加しました。
熊野街道
熊野街道は大阪天満の八軒家浜を起点として和歌山の熊野三山に至る街道です。
今回の「熊野街道をあるく」は大阪天満宮から東岸和田までを5回に分けて歩きます。
今回は第4回目として鳳駅から和泉府中駅まで歩きました。
当日は晴れ、最高気温19.2℃。気持ち良いウォーキングになりました。
集合場所鳳駅を出発して等乃伎神社、旧府神社、葛葉稲荷神社、篠田王子像を経由して信太の森ふるさと館まで歩きます。
鳳駅近くの公園
等乃伎神社(とのぎじんじゃ)
古事記にも掲載された巨木伝説に通じる楠は御神木として崇められ、現在も当神社の社業は高石市の数少ない自然保護樹林に指定されているそうです。また、お守りの数は日本で3本の指に入るほど豊富だそうです。
熊野街道の看板がありました。
旧府神社から葛葉稲荷神社、信太の森ふるさと館に向かいます。
旧府神社(ふるふじんじゃ)
延喜式内の古社であるが、詳細な創建年月や創設当初の祭神は不明。三代実録(901年)に『貞観元年(西暦859年平安時代)五月七日壬戌。和泉国舊府神列於官社。同八月十三日丙申。和泉国無位舊府神授正五位下』と記録されている。江戸時代には「牛頭天王社」とも称され明治5年に村社に列せられた。大正4年6月23日には葛之葉町の信太森葛葉稲荷神社に合祠されたが、翌年、元の社殿に奉祀されたそうです。
葛葉稲荷神社(くずのはいなりじんじゃ)
正式名称は信太森神社であり、葛葉稲荷神社は通称。本殿の外に拝殿・神饌所を有し、末社に楠木神社・厳島神社・白狐社を持つ。また狐塚があったとされる。安倍晴明所縁の社。文学・歌舞伎などで知られる『葛の葉物語』の舞台となった場所で、清明の母・白狐が住んでいたと伝えられる。豊穣・商売繁盛の他、学徳成就・良縁祈願・安産祈願・子宝・夜泣き・交通安全に御利益がある。陰陽師・安倍晴明が信太の森の白狐を母として生まれたという「葛葉伝説」の舞台として知られています。また、「千枝のクス」とも「夫婦クス」とも呼ばれる樹齢約700年のクスの巨木は市天然記念物に指定されているそうです。
信太の森ふるさと館(しのだのもりふるさとかん)
信太の森は聖神社・信太山一帯に広がっていたと考えられてて、農地の拡大、須恵器の生産などで植生は変化した。明治以降、大部分が陸軍や自衛隊の演習場となり乱開発をまぬがれてきて、大阪の貴重な自然環境を残してきた。信太の森の鏡池史跡公園はかつての信太の森の中心部に近く、聖神社の宗教儀礼の場であり、「葛の葉伝説」の舞台として伝承されてきました。このほとりで、白狐と保名が出会ったとされ、最後の童子丸(晴明)との別れの場でもあったと伝えられているそうです。展示室には安倍晴明誕生の「葛の葉伝説」や和歌・文学のふるさと。文楽、歌舞伎、瞽女唄(ごぜうた)や文学、ゆかりの地などを写真や資料で紹介。また、植物、野鳥や昆虫や歴史なども紹介しているそうです。
信太の森の鏡池
ここで昼食休憩になりました。
昼食休憩後は聖神社、八阪神社、池上曽根遺跡公園、曽根神社、泉穴師神社を経由して和泉府中駅まで歩きました。
聖神社(ひじりじんじゃ)
和泉国三宮であり、大鳥、泉穴師、積川、日根の各神社とともに五社大明神として知られる。聖神(ひじりのかみ)を祭神とし、信太聖神または信太明神ともいう。白鳳3年(675)、天武天皇の勅願によって創建されたとされ、往時は広大な神域を誇っていた。慶長9年(1604)に豊臣秀頼によって造営された本殿、末社の三神社は共に国の重要文化財に指定されている。聖は「日知り」の意で、暦の神様として渡来氏族の陰陽師が信仰していたといわれている。葛葉稲荷と同様、この神社にも、阿倍保名と妻の葛葉姫(くずはのひめ)、その子どもで、後の陰陽師・安倍晴明にまつわる伝承が残っているそうです。
八阪神社(やさかじんじゃ)
創建年代は不詳。京都の八坂神社より御分霊を勧請したという御祭神は素戔嗚尊。本殿・拝殿は、江戸時代前期の貞享元年(1684年)に改築された。信太地区の各氏神は信太森葛葉稲荷神社に合祀されたが、当社のみ、合祀される図に現在に至っている。和泉だんじり祭りを構成する一つで、信太郷の総氏神である聖神社とともに、信太・幸地区となるそうです。
池上曽根遺跡公園(いけがみそねいせきこうえん)
大阪府和泉市池上町の南北1.5km、東西0.6kmの総面積60万㎡という全国屈指の規模を持つ弥生時代の環濠集落(周囲を溝で囲んだ集落)跡地に作られた公園。'95年に発見された東西19.2m、南北6.9m、面積133㎡にも及ぶ弥生時代最大級の規模をもつ建物や、直径2.3mのクスノキの大木を刳りぬいて井筒にした日本最大の刳りぬき井戸の遺構と共に、竪穴住居など2千年前の集落が復元されているそうです。
曽根神社(そねじんじゃ)
曽禰氏の祖神を祀る。素盞嗚尊いかは後の配祀。弥生前期の大規模遺跡である池上曽根遺跡に隣接している。神域ゆえ発掘されていないが、おそらくここからは祭祀関係の遺跡が出るものと思われる。 この遺跡の大型掘立柱建物のヒノキの柱は紀元前52年に伐採されている。和泉には大鳥大社の北側に四ツ池遺跡もあり、その他銅鐸も出ており、弥生前期より力のある豪族の存在を思わせるそうです。
泉穴師神社に向かいます。
泉穴師神社(いずみあなしじんじゃ)
7世紀の創建と伝えられ、和泉五社(大鳥・泉穴師・聖・積川・日根)のひとつであり、和泉市内にある最大の神社でもある。祭神は夫婦二柱、男性が農業、女性が繊維の神。また境内には、樹齢約600~800年といわれる、幹まわり4.5m以上のクスノキが十数本あり、同市の天然記念物に指定されているほか、大木が茂る境内は「泉穴師神社の森」として、野鳥、昆虫が多く見られ、「大阪みどりの百選」にも選ばれているそうです。
穴師公園で休憩になりました。
この後、和泉府中駅まで歩きました。
ご訪問していただきありがとうございました。
池上曽根遺跡公園
今年のウォーキングの目標の一つ「熊野街道をあるく」に参加しました。
熊野街道
熊野街道は大阪天満の八軒家浜を起点として和歌山の熊野三山に至る街道です。
今回の「熊野街道をあるく」は大阪天満宮から東岸和田までを5回に分けて歩きます。
今回は第4回目として鳳駅から和泉府中駅まで歩きました。
当日は晴れ、最高気温19.2℃。気持ち良いウォーキングになりました。
集合場所鳳駅を出発して等乃伎神社、旧府神社、葛葉稲荷神社、篠田王子像を経由して信太の森ふるさと館まで歩きます。
鳳駅近くの公園
等乃伎神社(とのぎじんじゃ)
古事記にも掲載された巨木伝説に通じる楠は御神木として崇められ、現在も当神社の社業は高石市の数少ない自然保護樹林に指定されているそうです。また、お守りの数は日本で3本の指に入るほど豊富だそうです。
熊野街道の看板がありました。
旧府神社から葛葉稲荷神社、信太の森ふるさと館に向かいます。
旧府神社(ふるふじんじゃ)
延喜式内の古社であるが、詳細な創建年月や創設当初の祭神は不明。三代実録(901年)に『貞観元年(西暦859年平安時代)五月七日壬戌。和泉国舊府神列於官社。同八月十三日丙申。和泉国無位舊府神授正五位下』と記録されている。江戸時代には「牛頭天王社」とも称され明治5年に村社に列せられた。大正4年6月23日には葛之葉町の信太森葛葉稲荷神社に合祠されたが、翌年、元の社殿に奉祀されたそうです。
葛葉稲荷神社(くずのはいなりじんじゃ)
正式名称は信太森神社であり、葛葉稲荷神社は通称。本殿の外に拝殿・神饌所を有し、末社に楠木神社・厳島神社・白狐社を持つ。また狐塚があったとされる。安倍晴明所縁の社。文学・歌舞伎などで知られる『葛の葉物語』の舞台となった場所で、清明の母・白狐が住んでいたと伝えられる。豊穣・商売繁盛の他、学徳成就・良縁祈願・安産祈願・子宝・夜泣き・交通安全に御利益がある。陰陽師・安倍晴明が信太の森の白狐を母として生まれたという「葛葉伝説」の舞台として知られています。また、「千枝のクス」とも「夫婦クス」とも呼ばれる樹齢約700年のクスの巨木は市天然記念物に指定されているそうです。
信太の森ふるさと館(しのだのもりふるさとかん)
信太の森は聖神社・信太山一帯に広がっていたと考えられてて、農地の拡大、須恵器の生産などで植生は変化した。明治以降、大部分が陸軍や自衛隊の演習場となり乱開発をまぬがれてきて、大阪の貴重な自然環境を残してきた。信太の森の鏡池史跡公園はかつての信太の森の中心部に近く、聖神社の宗教儀礼の場であり、「葛の葉伝説」の舞台として伝承されてきました。このほとりで、白狐と保名が出会ったとされ、最後の童子丸(晴明)との別れの場でもあったと伝えられているそうです。展示室には安倍晴明誕生の「葛の葉伝説」や和歌・文学のふるさと。文楽、歌舞伎、瞽女唄(ごぜうた)や文学、ゆかりの地などを写真や資料で紹介。また、植物、野鳥や昆虫や歴史なども紹介しているそうです。
信太の森の鏡池
ここで昼食休憩になりました。
昼食休憩後は聖神社、八阪神社、池上曽根遺跡公園、曽根神社、泉穴師神社を経由して和泉府中駅まで歩きました。
聖神社(ひじりじんじゃ)
和泉国三宮であり、大鳥、泉穴師、積川、日根の各神社とともに五社大明神として知られる。聖神(ひじりのかみ)を祭神とし、信太聖神または信太明神ともいう。白鳳3年(675)、天武天皇の勅願によって創建されたとされ、往時は広大な神域を誇っていた。慶長9年(1604)に豊臣秀頼によって造営された本殿、末社の三神社は共に国の重要文化財に指定されている。聖は「日知り」の意で、暦の神様として渡来氏族の陰陽師が信仰していたといわれている。葛葉稲荷と同様、この神社にも、阿倍保名と妻の葛葉姫(くずはのひめ)、その子どもで、後の陰陽師・安倍晴明にまつわる伝承が残っているそうです。
八阪神社(やさかじんじゃ)
創建年代は不詳。京都の八坂神社より御分霊を勧請したという御祭神は素戔嗚尊。本殿・拝殿は、江戸時代前期の貞享元年(1684年)に改築された。信太地区の各氏神は信太森葛葉稲荷神社に合祀されたが、当社のみ、合祀される図に現在に至っている。和泉だんじり祭りを構成する一つで、信太郷の総氏神である聖神社とともに、信太・幸地区となるそうです。
池上曽根遺跡公園(いけがみそねいせきこうえん)
大阪府和泉市池上町の南北1.5km、東西0.6kmの総面積60万㎡という全国屈指の規模を持つ弥生時代の環濠集落(周囲を溝で囲んだ集落)跡地に作られた公園。'95年に発見された東西19.2m、南北6.9m、面積133㎡にも及ぶ弥生時代最大級の規模をもつ建物や、直径2.3mのクスノキの大木を刳りぬいて井筒にした日本最大の刳りぬき井戸の遺構と共に、竪穴住居など2千年前の集落が復元されているそうです。
曽根神社(そねじんじゃ)
曽禰氏の祖神を祀る。素盞嗚尊いかは後の配祀。弥生前期の大規模遺跡である池上曽根遺跡に隣接している。神域ゆえ発掘されていないが、おそらくここからは祭祀関係の遺跡が出るものと思われる。 この遺跡の大型掘立柱建物のヒノキの柱は紀元前52年に伐採されている。和泉には大鳥大社の北側に四ツ池遺跡もあり、その他銅鐸も出ており、弥生前期より力のある豪族の存在を思わせるそうです。
泉穴師神社に向かいます。
泉穴師神社(いずみあなしじんじゃ)
7世紀の創建と伝えられ、和泉五社(大鳥・泉穴師・聖・積川・日根)のひとつであり、和泉市内にある最大の神社でもある。祭神は夫婦二柱、男性が農業、女性が繊維の神。また境内には、樹齢約600~800年といわれる、幹まわり4.5m以上のクスノキが十数本あり、同市の天然記念物に指定されているほか、大木が茂る境内は「泉穴師神社の森」として、野鳥、昆虫が多く見られ、「大阪みどりの百選」にも選ばれているそうです。
穴師公園で休憩になりました。
この後、和泉府中駅まで歩きました。
ご訪問していただきありがとうございました。
熊野街道をあるく その3(大阪) [ウォーキング京街道_熊野街道]
「熊野街道をあるく その3」に参加してきました。(20171024)
大鳥神社
今年のウォーキングの目標の一つ「熊野街道をあるく」に参加しました。
熊野街道
熊野街道は大阪天満の八軒家浜を起点として和歌山の熊野三山に至る街道です。
今回の「熊野街道をあるく」は大阪天満宮から東岸和田までを5回に分けて歩きます。
今回は第3回目として堺東駅から鳳駅まで歩きました。
当日は曇り、最高気温18.2℃。気持ち良いウォーキングになりました。
集合場所堺東駅を出発してザビエル公園、菅原神社、開口神社、住吉大社宿院頓宮、利晶の杜、神明神社、旧堺燈台を経由して大浜公園まで歩きます。
堺東駅近くの堺市役所
堺市役所を出発して暫く歩いた後、阪神高速沿いを歩きます。
ザビエル公園に着きました。
公園の前(東側)を路面電車が通っています。
少し休憩後、菅原神社、開口神社、住吉大社宿院頓宮、利晶の杜に向かいます。
菅原神社(すがわらじんじゃ)
菅原道真自作の木像が堺の浜に漂着し、これを祭ったのがはじまりといわれています。天神さんと呼ばれ、堺戎(えべっさん)としても有名。鉄砲鍛冶・榎並屋勘左衛門の寄進により、延宝5年(1677年)に建てられたと伝えられる楼門(ろうもん)は大阪府指定有形文化財。これの特徴のひとつは軒を支える複雑な組物に、彫刻を刻んだ絵様肘木(えようひじき)という肘の形をした組物を用い建築技法を簡略化していることで、府下では数少ない楼門建築として貴重。また白壇や珍しい樹木、夏のホタル観賞、9月中旬の秋祭りのふとん太鼓でも知られているそうです。
開口神社(あぐちじんじゃ)
行基が念仏寺、空海が宝塔を境内に建てたことで「大寺」とも呼ばれる塩土老翁神、素盞嗚神、生国魂神を祀る旧市内唯一の式内社。大寺縁起絵巻、伏見天皇宸翰御歌集、短刀銘吉光は国指定の重要文化財だそうです。
住吉大社宿院頓宮(すみよしたいしゃしゅくいんとんぐう)
住吉大社の御旅所としての神社で、文化13年(1816年)が始まりとされています。後に大鳥大社の摂社も遷座され、それ以来2柱の神様をお祀りしています。毎年7月31日には大鳥大社からの御渡り、8月1日には住吉大社からの御渡りと、飯匙堀(いいがいぼり)での荒和大祓神事が行われます。飯匙堀は海幸山幸の伝説により、潮干珠が埋められたところといわれ、どんなに雨が降っても水がたまらない不思議な場所とされているそうです。
利晶の杜(りしょうのもり)
千利休と茶の湯を歴史文化から解き明かす「千利休茶の湯館」、歌人与謝野晶子の作品世界とその生き方に触れる「与謝野晶子記念館」、堺観光の基点となる「観光案内展示室」などがあります。千家茶道由来の地である千利休屋敷跡に面した「茶の湯体験施設」では、表千家・裏千家・武者小路千家のお点前により椅子席でお抹茶とお菓子を味わっていただく立礼呈茶や、茶道三千家の指導のもとお茶を点てる茶室お点前体験などが楽しめる。また、千利休がつくった茶室で唯一現存する国宝の茶室「待庵」の創建当初の姿を復元した「さかい待庵」があり、外観の見学だけではなく、その室内まで入ることもできるそうです。
この後、神明神社、旧堺燈台から大浜公園に向かいます。
神明神社(じんめいじんじゃ)
由緒書によれば、天保3年(1832年)には当地に宇迦之御魂神(稲荷神)・住吉大神・金山毘古大神を祀る旭神社があったそうです。その後、天保12年(1841年)に堺奉行の水野若狭守(みずのわかさのかみ)が当町の繁栄・発展を祈り、地域の氏神として新たに天照大御神・豊受大御神を主祭神として合祀して神明社としたことが、当社の創建とされているそうです。
旧堺港
旧堺燈台(きゅうさかいとうだい)
堺のシンボルの一つとして保存。現地に現存する日本最古の木造洋式灯台として国指定史跡に指定されているそうです。
大浜公園
ここで昼食休憩になりました。
昼食休憩後は蘇鉄山、船待神社、石津神社、大鳥神社を経由して鳳駅まで歩きました。
蘇鉄山(そてつやま)
蘇鉄山は大阪湾に面し、幕末には黒船来航に備えてお台場(砲台)が築かれた場所を、明治12年(1879年)に大浜公園として解放され展望のよい築山として整備されたところです。蘇鉄山の約300m東南にあった御蔭山の頂に、近代地図作成のための基準点となる一等三角点が明治18年(1885年)に設定されました。その後御蔭山が削られ、昭和14年(1939年)に蘇鉄山の標高6.97mの所に移設されたものです。現在一等三角点の設置されている日本一低い山となっています。御蔭山は天保年間に港と水路浚渫により造られた山で、同時期に川浚えの土砂を積み上げてできた大阪の天保山とは兄弟関係にあたるそうです。
宿院通近くです。
ここからブロック地図2に沿って歩きます。
船待神社(ふなまちじんじゃ)
当神社は元塩穴郷にあり塩穴天神社といわれ天穂日命を祀る。その後延喜元年1月(人皇第六十代醍醐天皇の御代)菅原道真公が太宰府へ下る途中河内道明寺を経てこの地に来たり船を待つ間この地に祀られてあった菅原道真公の遠い先祖に当たる天穂日命の祠に参拝し松の樹を植えて出発した。その後長保三年(1001)1月15日(一条天皇の御代)菅原朝臣為紀という人がこの地に来たときに残した種々の跡を調べ官にお願いして天穂日命の社に菅原道真公を合祀し船待天神社と改めた。その後寛治年中(1087~93)に塩穴郷より今の湊の地に再建されたものだそうです。
石津神社(いしづじんじゃ)
八重事代主神(やえことしろぬしのかみ)、大己貴神(おおなむちのかみ)、天穂日神(あめのほひのかみ)を祀っています。境内には、本殿・幣殿・拝殿・御輿倉と野見宿禰神社・天満宮があるそうです。
熊野街道の標識がありました
大鳥神社(おおとりじんじゃ)
和泉の一の宮、大鳥造の本殿は古代神社建築の1つ。日本武尊が死後、白鳥となって最後に留まった地に、周辺の人々が白鳥を祭るため建てた社が大鳥神社であると伝えられている。境内種々の樹木があり「千種の森(ちぐさのもり)」と呼ばれている。また、菖蒲園には10万本のしょうぶが群生しており、6月には一般に公開されるそうです。
この後、鳳駅まで歩きました。
ご訪問していただきありがとうございました。
大鳥神社
今年のウォーキングの目標の一つ「熊野街道をあるく」に参加しました。
熊野街道
熊野街道は大阪天満の八軒家浜を起点として和歌山の熊野三山に至る街道です。
今回の「熊野街道をあるく」は大阪天満宮から東岸和田までを5回に分けて歩きます。
今回は第3回目として堺東駅から鳳駅まで歩きました。
当日は曇り、最高気温18.2℃。気持ち良いウォーキングになりました。
集合場所堺東駅を出発してザビエル公園、菅原神社、開口神社、住吉大社宿院頓宮、利晶の杜、神明神社、旧堺燈台を経由して大浜公園まで歩きます。
堺東駅近くの堺市役所
堺市役所を出発して暫く歩いた後、阪神高速沿いを歩きます。
ザビエル公園に着きました。
公園の前(東側)を路面電車が通っています。
少し休憩後、菅原神社、開口神社、住吉大社宿院頓宮、利晶の杜に向かいます。
菅原神社(すがわらじんじゃ)
菅原道真自作の木像が堺の浜に漂着し、これを祭ったのがはじまりといわれています。天神さんと呼ばれ、堺戎(えべっさん)としても有名。鉄砲鍛冶・榎並屋勘左衛門の寄進により、延宝5年(1677年)に建てられたと伝えられる楼門(ろうもん)は大阪府指定有形文化財。これの特徴のひとつは軒を支える複雑な組物に、彫刻を刻んだ絵様肘木(えようひじき)という肘の形をした組物を用い建築技法を簡略化していることで、府下では数少ない楼門建築として貴重。また白壇や珍しい樹木、夏のホタル観賞、9月中旬の秋祭りのふとん太鼓でも知られているそうです。
開口神社(あぐちじんじゃ)
行基が念仏寺、空海が宝塔を境内に建てたことで「大寺」とも呼ばれる塩土老翁神、素盞嗚神、生国魂神を祀る旧市内唯一の式内社。大寺縁起絵巻、伏見天皇宸翰御歌集、短刀銘吉光は国指定の重要文化財だそうです。
住吉大社宿院頓宮(すみよしたいしゃしゅくいんとんぐう)
住吉大社の御旅所としての神社で、文化13年(1816年)が始まりとされています。後に大鳥大社の摂社も遷座され、それ以来2柱の神様をお祀りしています。毎年7月31日には大鳥大社からの御渡り、8月1日には住吉大社からの御渡りと、飯匙堀(いいがいぼり)での荒和大祓神事が行われます。飯匙堀は海幸山幸の伝説により、潮干珠が埋められたところといわれ、どんなに雨が降っても水がたまらない不思議な場所とされているそうです。
利晶の杜(りしょうのもり)
千利休と茶の湯を歴史文化から解き明かす「千利休茶の湯館」、歌人与謝野晶子の作品世界とその生き方に触れる「与謝野晶子記念館」、堺観光の基点となる「観光案内展示室」などがあります。千家茶道由来の地である千利休屋敷跡に面した「茶の湯体験施設」では、表千家・裏千家・武者小路千家のお点前により椅子席でお抹茶とお菓子を味わっていただく立礼呈茶や、茶道三千家の指導のもとお茶を点てる茶室お点前体験などが楽しめる。また、千利休がつくった茶室で唯一現存する国宝の茶室「待庵」の創建当初の姿を復元した「さかい待庵」があり、外観の見学だけではなく、その室内まで入ることもできるそうです。
この後、神明神社、旧堺燈台から大浜公園に向かいます。
神明神社(じんめいじんじゃ)
由緒書によれば、天保3年(1832年)には当地に宇迦之御魂神(稲荷神)・住吉大神・金山毘古大神を祀る旭神社があったそうです。その後、天保12年(1841年)に堺奉行の水野若狭守(みずのわかさのかみ)が当町の繁栄・発展を祈り、地域の氏神として新たに天照大御神・豊受大御神を主祭神として合祀して神明社としたことが、当社の創建とされているそうです。
旧堺港
旧堺燈台(きゅうさかいとうだい)
堺のシンボルの一つとして保存。現地に現存する日本最古の木造洋式灯台として国指定史跡に指定されているそうです。
大浜公園
ここで昼食休憩になりました。
昼食休憩後は蘇鉄山、船待神社、石津神社、大鳥神社を経由して鳳駅まで歩きました。
蘇鉄山(そてつやま)
蘇鉄山は大阪湾に面し、幕末には黒船来航に備えてお台場(砲台)が築かれた場所を、明治12年(1879年)に大浜公園として解放され展望のよい築山として整備されたところです。蘇鉄山の約300m東南にあった御蔭山の頂に、近代地図作成のための基準点となる一等三角点が明治18年(1885年)に設定されました。その後御蔭山が削られ、昭和14年(1939年)に蘇鉄山の標高6.97mの所に移設されたものです。現在一等三角点の設置されている日本一低い山となっています。御蔭山は天保年間に港と水路浚渫により造られた山で、同時期に川浚えの土砂を積み上げてできた大阪の天保山とは兄弟関係にあたるそうです。
宿院通近くです。
ここからブロック地図2に沿って歩きます。
船待神社(ふなまちじんじゃ)
当神社は元塩穴郷にあり塩穴天神社といわれ天穂日命を祀る。その後延喜元年1月(人皇第六十代醍醐天皇の御代)菅原道真公が太宰府へ下る途中河内道明寺を経てこの地に来たり船を待つ間この地に祀られてあった菅原道真公の遠い先祖に当たる天穂日命の祠に参拝し松の樹を植えて出発した。その後長保三年(1001)1月15日(一条天皇の御代)菅原朝臣為紀という人がこの地に来たときに残した種々の跡を調べ官にお願いして天穂日命の社に菅原道真公を合祀し船待天神社と改めた。その後寛治年中(1087~93)に塩穴郷より今の湊の地に再建されたものだそうです。
石津神社(いしづじんじゃ)
八重事代主神(やえことしろぬしのかみ)、大己貴神(おおなむちのかみ)、天穂日神(あめのほひのかみ)を祀っています。境内には、本殿・幣殿・拝殿・御輿倉と野見宿禰神社・天満宮があるそうです。
熊野街道の標識がありました
大鳥神社(おおとりじんじゃ)
和泉の一の宮、大鳥造の本殿は古代神社建築の1つ。日本武尊が死後、白鳥となって最後に留まった地に、周辺の人々が白鳥を祭るため建てた社が大鳥神社であると伝えられている。境内種々の樹木があり「千種の森(ちぐさのもり)」と呼ばれている。また、菖蒲園には10万本のしょうぶが群生しており、6月には一般に公開されるそうです。
この後、鳳駅まで歩きました。
ご訪問していただきありがとうございました。
熊野街道をあるく その2(大阪) [ウォーキング京街道_熊野街道]
「熊野街道をあるく その2」に参加してきました。(20170926)
仁徳天皇陵
今年のウォーキングの目標の一つ「熊野街道をあるく」に参加しました。
熊野街道
熊野街道は大阪天満の八軒家浜を起点として和歌山の熊野三山に至る街道です。今回の「熊野街道をあるく」は大阪天満宮から東岸和田までを5回に分けて歩きます。
今回は第2回目として住吉大社から方違神社、百舌鳥八幡宮などを経由して中百舌鳥駅まで歩きました。
当日は晴れ、最高気温30℃。暑い中のウォーキングになりました。
集合場所住吉大社を出発して止止呂支比売命神社、極楽寺、遠里小野南公園、境王子跡、方違神社、三国ケ丘公園まで歩きます。
住吉大社(すみよしたいしゃ)
全国に約2,300社ある住吉神社の総本社。下関の住吉神社、博多の住吉神社とともに日本三大住吉の一社。また、毎年初詣の参拝者の多さでも全国的に有名。四棟の本殿は国宝に指定されているそうです。
熊野街道を歩きます。
止止呂支比売命神社(とどろきひめのみことじんじゃ)
御祭神は素戔嗚尊、稲田姫尊。摂社は霰松原荒神社/天水分豊浦命神社(式内社)三宝荒神(天水分命、奥津彦命、奥津姫命)、大国主命、事代主命。創建年代は不明。しかし、延喜式にはその名の記載がある。社名のトドロキとは当時の境内にあった橋の名前。承久3年(1221年)後鳥羽天皇が、当社境内松林内に行宮を立てて以降、若松宮あるいは若松神社と言われる。それ以前は、住吉大社の摂社(奥の院)とされていたそうです。
極楽寺(ごくらくじ)
創建年は不祥。本尊毘沙門天はここから南に広がっていた榎津庄(奈良~平安期に見られる郷)にあった寺のものと伝えられている。境内には大きな一基の毘沙門天石灯籠がある。表面の磨滅は甚だしいが、建武3年(1336)丙子3月の銘があり、重要文化財に指定。一説によると当寺に祈願して誕生した楠木正成の寄進と伝えられているそうです。
農神社
遠里小野南公園に着きました。
少し休憩した後、大和川を渡り、堺市に入ります。
境王子跡(さかいおうじあと)
境王子は現在の大阪府堺市堺区北田出井町付近にあったと推定されている。この地域は、摂津国、河内国、和泉国の境があった場所で、境王子の名はこれに由来する。また、「堺」(「境」の別表記)という地名も境王子が置かれた平安時代後期から歴史文献に登場するようになり(1081年(永保元年)の『藤原為房卿記』には境王子が「和泉堺之小堂」という名称で登場し、これが「堺」という地名の初出である)、境王子がその由来となったと考えられているそうです。
方違神社(ほうちがいじんじゃ)
河内・和泉・摂津三国の境にある方位のない清地とされ方除祈願で有名。遠方への旅や家を移る時などに参れば災難に会わないという言い伝えから、新築・転居等の厄除けで各地から多くの人々が参詣に来られるそうです。
三国ケ丘公園に着きました。
ここで昼食休憩になりました。
昼食休憩後は仁徳天皇陵、大仙公園、御廟山古墳、万代寺、百舌鳥八幡宮を経由して中百舌鳥駅まで歩きました。
仁徳天皇陵の北側を歩きます。
仁徳天皇陵(にんとくてんのうりょう)
全長約486mの日本最大の前方後円墳。エジプトのクフ王のピラミッド、中国の秦の始皇帝陵と並ぶ世界3大墳墓の一つといわれ、上から見ると円と四角を合体させた前方後円墳という日本独自の形で、5世紀中ごろに約20年をかけて築造されたと推定されているそうです。
冒頭の写真のところです。
大仙公園
少し休憩後、御廟山古墳、百舌鳥八幡宮に向かいます。
御廟山古墳に着きました。
御廟山古墳(ごびょうやまこふん)
百舌鳥本町にある前方部を西に向けた前方後円墳。平成20年に行われた宮内庁と堺市による発掘調査により、規模が墳丘長約203m、後円部径約113m、前方部最大幅約136mと復元された。墳丘は3段に築かれていて、南側のくびれ部には造出しがあります。葺石と埴輪がありますが、埋葬の主体部の構造や副葬品などはわかっていません。周囲には盾形の濠と堤がめぐっていますが、最近の調査で二重の濠があることがわかっています。墳丘は陵墓参考地として宮内庁が管理しているそうです。
万代寺(まんだいじ)
行基により開基されたと伝えられており、真龍山と号する。真言宗大覚寺末で阿弥陀仏を本尊としている。隣接する百舌鳥八幡宮の奥の院とも呼ばれる。古くより百舌鳥八幡宮とは関係が深いそうです。
百舌鳥八幡宮(もずはちまんぐう)
欽明天皇(532~571年)のころに建てられたと伝えられ、うっそうとした境内と重厚なたたずまいは歴史の古さを感じさせます。本殿右前にある大くすは幹囲り5.2m、樹高25mで樹齢は700年とも800年ともいわれている名古木で、府の天然記念物に指定されています。また、毎年旧暦8月15日の中秋の名月にかけて、勇壮なふとん太鼓を繰り出す「月見祭」は、農作の祈願と満月を祝う風習とが合わさって神社の祭りになったものといわれ、記録によると300年以上の伝統があります。太鼓を仕込んだ台の上に、朱色の座布団を5段重ねにした造りのふとん太鼓は、高さ約4m、重さ約3tもあり約70人で担ぎ「ベーラベーラベラショッショイ」というかけ声と太鼓の音で、まちを練り歩いた後神社に奉納されるそうです。
この後、中百舌鳥駅まで歩きました。
前回記事のNICEボタンをクローズしていますが、同時に見て頂けると嬉しいです。
ご訪問していただきありがとうございました。
仁徳天皇陵
今年のウォーキングの目標の一つ「熊野街道をあるく」に参加しました。
熊野街道
熊野街道は大阪天満の八軒家浜を起点として和歌山の熊野三山に至る街道です。今回の「熊野街道をあるく」は大阪天満宮から東岸和田までを5回に分けて歩きます。
今回は第2回目として住吉大社から方違神社、百舌鳥八幡宮などを経由して中百舌鳥駅まで歩きました。
当日は晴れ、最高気温30℃。暑い中のウォーキングになりました。
集合場所住吉大社を出発して止止呂支比売命神社、極楽寺、遠里小野南公園、境王子跡、方違神社、三国ケ丘公園まで歩きます。
住吉大社(すみよしたいしゃ)
全国に約2,300社ある住吉神社の総本社。下関の住吉神社、博多の住吉神社とともに日本三大住吉の一社。また、毎年初詣の参拝者の多さでも全国的に有名。四棟の本殿は国宝に指定されているそうです。
熊野街道を歩きます。
止止呂支比売命神社(とどろきひめのみことじんじゃ)
御祭神は素戔嗚尊、稲田姫尊。摂社は霰松原荒神社/天水分豊浦命神社(式内社)三宝荒神(天水分命、奥津彦命、奥津姫命)、大国主命、事代主命。創建年代は不明。しかし、延喜式にはその名の記載がある。社名のトドロキとは当時の境内にあった橋の名前。承久3年(1221年)後鳥羽天皇が、当社境内松林内に行宮を立てて以降、若松宮あるいは若松神社と言われる。それ以前は、住吉大社の摂社(奥の院)とされていたそうです。
極楽寺(ごくらくじ)
創建年は不祥。本尊毘沙門天はここから南に広がっていた榎津庄(奈良~平安期に見られる郷)にあった寺のものと伝えられている。境内には大きな一基の毘沙門天石灯籠がある。表面の磨滅は甚だしいが、建武3年(1336)丙子3月の銘があり、重要文化財に指定。一説によると当寺に祈願して誕生した楠木正成の寄進と伝えられているそうです。
農神社
遠里小野南公園に着きました。
少し休憩した後、大和川を渡り、堺市に入ります。
境王子跡(さかいおうじあと)
境王子は現在の大阪府堺市堺区北田出井町付近にあったと推定されている。この地域は、摂津国、河内国、和泉国の境があった場所で、境王子の名はこれに由来する。また、「堺」(「境」の別表記)という地名も境王子が置かれた平安時代後期から歴史文献に登場するようになり(1081年(永保元年)の『藤原為房卿記』には境王子が「和泉堺之小堂」という名称で登場し、これが「堺」という地名の初出である)、境王子がその由来となったと考えられているそうです。
方違神社(ほうちがいじんじゃ)
河内・和泉・摂津三国の境にある方位のない清地とされ方除祈願で有名。遠方への旅や家を移る時などに参れば災難に会わないという言い伝えから、新築・転居等の厄除けで各地から多くの人々が参詣に来られるそうです。
三国ケ丘公園に着きました。
ここで昼食休憩になりました。
昼食休憩後は仁徳天皇陵、大仙公園、御廟山古墳、万代寺、百舌鳥八幡宮を経由して中百舌鳥駅まで歩きました。
仁徳天皇陵の北側を歩きます。
仁徳天皇陵(にんとくてんのうりょう)
全長約486mの日本最大の前方後円墳。エジプトのクフ王のピラミッド、中国の秦の始皇帝陵と並ぶ世界3大墳墓の一つといわれ、上から見ると円と四角を合体させた前方後円墳という日本独自の形で、5世紀中ごろに約20年をかけて築造されたと推定されているそうです。
冒頭の写真のところです。
大仙公園
少し休憩後、御廟山古墳、百舌鳥八幡宮に向かいます。
御廟山古墳に着きました。
御廟山古墳(ごびょうやまこふん)
百舌鳥本町にある前方部を西に向けた前方後円墳。平成20年に行われた宮内庁と堺市による発掘調査により、規模が墳丘長約203m、後円部径約113m、前方部最大幅約136mと復元された。墳丘は3段に築かれていて、南側のくびれ部には造出しがあります。葺石と埴輪がありますが、埋葬の主体部の構造や副葬品などはわかっていません。周囲には盾形の濠と堤がめぐっていますが、最近の調査で二重の濠があることがわかっています。墳丘は陵墓参考地として宮内庁が管理しているそうです。
万代寺(まんだいじ)
行基により開基されたと伝えられており、真龍山と号する。真言宗大覚寺末で阿弥陀仏を本尊としている。隣接する百舌鳥八幡宮の奥の院とも呼ばれる。古くより百舌鳥八幡宮とは関係が深いそうです。
百舌鳥八幡宮(もずはちまんぐう)
欽明天皇(532~571年)のころに建てられたと伝えられ、うっそうとした境内と重厚なたたずまいは歴史の古さを感じさせます。本殿右前にある大くすは幹囲り5.2m、樹高25mで樹齢は700年とも800年ともいわれている名古木で、府の天然記念物に指定されています。また、毎年旧暦8月15日の中秋の名月にかけて、勇壮なふとん太鼓を繰り出す「月見祭」は、農作の祈願と満月を祝う風習とが合わさって神社の祭りになったものといわれ、記録によると300年以上の伝統があります。太鼓を仕込んだ台の上に、朱色の座布団を5段重ねにした造りのふとん太鼓は、高さ約4m、重さ約3tもあり約70人で担ぎ「ベーラベーラベラショッショイ」というかけ声と太鼓の音で、まちを練り歩いた後神社に奉納されるそうです。
この後、中百舌鳥駅まで歩きました。
前回記事のNICEボタンをクローズしていますが、同時に見て頂けると嬉しいです。
ご訪問していただきありがとうございました。
熊野街道をあるく その1(大阪) [ウォーキング京街道_熊野街道]
「熊野街道をあるく その1」に参加してきました。(20170822)
今年のウォーキングの目標の一つ「熊野街道をあるく」に参加しました。
熊野街道
熊野街道は大阪天満の八軒家浜を起点として和歌山の熊野三山に至る街道です。
今回の「熊野街道をあるく」は大阪府内の熊野街道の大阪天満宮から東岸和田までを5回に分けて歩きます。
今回は第1回目として大阪天満宮から八軒屋浜を経由して住吉大社まで歩きました。
当日は晴れ、最高気温33.7℃。暑い中のウォーキングになりました。
集合場所大阪天満宮を出発して、八軒家浜、 坐摩神社行宮、釣鐘屋敷跡、南大江公園、榎木大明神、近松門左衛門墓、高津宮、生國魂神社、吉祥寺を経由して四天王寺まで歩きます。
集合場所の大阪天満宮です。
大阪天満宮(おおさかてんまんぐう)
菅原道真公が祭られている大阪天満宮は大阪市民からは「天満(てんま)の天神さん」と呼ばれ親しまれています。
天満宮を出発して、八軒家浜に向かいます。
天神橋を渡ります。
右側に八軒家浜が見えます。
八軒家浜に着きました。
八軒家浜(はちけんやはま)
八軒屋浜は、京都・伏見と大阪を結ぶ三十石船の発着場で舟運の拠点としてにぎわった場所だそうです。
熊野街道の出発地点です。
坐摩神社行宮、釣鐘屋敷跡を経由します。
坐摩神社行宮(いかすりじんじゃ あんぐう)
坐摩神社の旧社地にこの行宮が建ち、正確には豊磐間戸・奇磐間戸神社。熊野九十九王子の第一王子 窪津王子の跡に建てられているそうです。
釣鐘屋敷跡(つりがねやしきあと)
寛永11年(1634)3代将軍家光が、大坂城へ来たとき、大坂町中の地子銀(じしぎん)(固定資産税)の永久免除を約束した。その恩恵に感謝して釣鐘をつくり町中に時を知らせた。この鐘楼は明治3年撤去され、釣鐘は大阪府庁屋上に「大阪町中時報鐘(おおさかちょうちゅうじほうしょう)」として保存されていた。昭和60年地元有志の努力によって、再び元の釣鐘屋敷地へ戻され、日に3回鐘の音をひびかせている。現地の町名、釣鐘町もこれによるそうです。
熊野街道を歩きます。
南大江公園
大阪市中央区 神崎町の南大江公園。南大江公園の南西に狸坂大明神が鎮座、側に朝日神明宮旧跡の碑がある。坂口王子はこの公園の南西の筋向かい「狸坂」の上り口の教会のある場所とも言われているそうです。
榎木大明神(なつきだいみょうじん)
御祓い筋(熊野街道)と長堀通りの角を北に、石段を登ったところにあります。このあたりは第2次大戦の空襲でも焼け残った古い家屋がまだ残っています。榎木大明神ですから榎(えのき)の木があると思いますが、実は、槐(えんじゅ)です。槐(えんじゅ)は、マメ科の落葉高木で、中国が原産。古くから台湾、日本、韓国などで植栽されている樹木です。巳さん(白蛇)を祀っているそうです。
空堀商店街の近くの熊野街道を歩きます。
近松門左衛門墓を経由して高津宮に向かいます。
近松門左衛門墓(ちかまつもんざえもんのはか)
近松門左衛門(1653年-1724年)は元禄年間を中心として、貞享~享保と約40年間にわたり劇作家として活躍した。竹本義太夫や2代目義太夫のために100作を越える浄瑠璃を著す一方で、坂田藤十郎のために20数作の歌舞伎狂言を著している。「曽根崎心中」、「心中天網島」、「女殺油地獄」などの世話物に代表される作品に描かれる人間の姿は今日に通ずる所も多く、伝統芸能や演劇、映画などの中で再創造され、たくさんの人に感動を与え続けているそうです。
高津宮(こうづぐう)
貞観8年(866年)、清和天皇の勅令によって難波高津宮の遺跡が探され、あったと定められた地に仁徳天皇を
祀る社が建立されたのが始まりとされているそうです。
ここで少し休憩になりました。
休憩後、生國魂神社、吉祥寺を経由して四天王寺に向かいます。
生國魂神社(いくくにたまじんじゃ)
かつては現在の大坂城の地に鎮座し、中世にはその社地に近接して石山本願寺も建立され繁栄したが、石山合戦後の豊臣秀吉による大坂城築城の際に現在地に遷座されている。この生國魂神社が祭神とする生島神(いくしまのかみ)・足島神(たるしまのかみ)は、国土の神霊とされる。両神は平安時代に宮中でも常時奉斎されたほか、新天皇の即位儀礼の1つである難波での八十島祭(やそしままつり)の際にも主神に祀られた重要な神々で、生國魂神社自体もそれら宮中祭祀と深い関わりを持つとされる。また、同様に大坂城地から遷座されたという久太郎町の坐摩神社とともに、難波宮との関わりも推測されている。その後中世・近世を通じても崇敬を受け、戦前の近代社格制度においては最高位の官幣大社に位置づけられた、大阪の代表的な古社の1つだそうです。
吉祥寺(きっしょうじ)
吉祥寺は万松山と号し、1630年(寛永7年))創建の曹洞宗の寺院。創建当時の住職縦鎌師が赤穂藩主浅野主匠頭長矩(あさの たくみのかみ ながのり)と親しい間柄で、この寺は大坂における浅野家の菩提寺であった。長矩候は参勤交代の折には必ずこの寺院に立寄ったという。義士討ち入りの翌年2月、大石内蔵助をはじめとする46士は切腹したが、足軽の寺坂吉右衛門が46士の遺髪、遺爪、鎖かたびら等に銀10両を添えて義士の冥福を祈る碑を建ててくれるよう吉祥寺に依頼したもので、浅野本家広島藩の意向もあり、江戸や赤穂よりも先がけ、1739年(元文4年)建立されたそうです。
四天王寺(してんのうじ)
四天王寺は、推古天皇元年(593)に聖徳太子によって建立。「四天王寺式 伽藍配置」は6~7世紀の大陸の様式を今日に伝える貴重な存在とされているそうです。
ここで昼食休憩になりました。
昼食休憩後は堀越神社、安倍清明神社、阿倍王子神社、万代池公園を経由して住吉大社まで歩きました。
堀越神社(ほりこしじんじゃ)
第33代・推古天皇の時代、四天王寺建立と同時期に、聖徳太子が叔父の第32代・崇峻(すしゅん)天皇を偲んで茶臼山に建立したと伝えられ、四天王寺七宮のひとつに数えられる神社。古くから明治中期まで境内の南沿いに
美しい堀があり、この堀を越えて参詣したので、「堀越」という名がつけられたという。境内には、かつて八軒家の渡辺の津にあった熊野第一王子の窪津王子が祀られている。交通量の多い谷町筋に面しているが、樹齢数百年におよぶ樹木などによって、境内は閑静な雰囲気を保持している。大阪では、「堀越さんは一生に一度の願いを聞いてくださる神さん」との言い伝えがあり、古くから親しまれているそうです。
あべのハルカスを通過します。
路面電車と並行して熊野街道を歩きます。
安倍清明神社に着きました。
安倍清明神社(あべせいめいじんじゃ)
阿倍野区阿倍野で生まれたといわれる平安時代の陰陽師・安倍晴明を祀る神社。阿倍王子神社が管理する末社で、創建は没後2年の寛弘4年(1007年)。現在の社殿は大正10年に晴明公の子孫と称する保田家が旧社地を寄進、大正14年に完成した。約180坪(約600平米)ほどの境内には大阪市の保存樹林が植えられ、「安倍晴明生誕地」の石碑もある。社務所において安倍晴明公顕彰会による占いも受け付けているそうです。
近くにある阿倍王子神社に着きました。
阿倍王子神社(あべおうじじんじゃ)
阿倍王子神社は大阪府大阪市阿倍野区にある神社。かつては阿倍王子(あべのおうじ)といい熊野神社の分霊社である九十九王子のひとつであったそうです。
再び、路面電車と並行して歩きます。
万代池公園に着きました。
ここで、最後の休憩になりました。
万代池公園
休憩後、ゴールの住吉大社に向かいます。
住吉大社(すみよしたいしゃ)
全国に約2,300社ある住吉神社の総本社。下関の住吉神社、博多の住吉神社とともに日本三大住吉の一社。また、毎年初詣の参拝者の多さでも全国的に有名。四棟の本殿は国宝に指定されているそうです。
第一本宮
第二本宮
第三本宮
第四本宮
反橋
ご訪問していただきありがとうございました。
今年のウォーキングの目標の一つ「熊野街道をあるく」に参加しました。
熊野街道
熊野街道は大阪天満の八軒家浜を起点として和歌山の熊野三山に至る街道です。
今回の「熊野街道をあるく」は大阪府内の熊野街道の大阪天満宮から東岸和田までを5回に分けて歩きます。
今回は第1回目として大阪天満宮から八軒屋浜を経由して住吉大社まで歩きました。
当日は晴れ、最高気温33.7℃。暑い中のウォーキングになりました。
集合場所大阪天満宮を出発して、八軒家浜、 坐摩神社行宮、釣鐘屋敷跡、南大江公園、榎木大明神、近松門左衛門墓、高津宮、生國魂神社、吉祥寺を経由して四天王寺まで歩きます。
集合場所の大阪天満宮です。
大阪天満宮(おおさかてんまんぐう)
菅原道真公が祭られている大阪天満宮は大阪市民からは「天満(てんま)の天神さん」と呼ばれ親しまれています。
天満宮を出発して、八軒家浜に向かいます。
天神橋を渡ります。
右側に八軒家浜が見えます。
八軒家浜に着きました。
八軒家浜(はちけんやはま)
八軒屋浜は、京都・伏見と大阪を結ぶ三十石船の発着場で舟運の拠点としてにぎわった場所だそうです。
熊野街道の出発地点です。
坐摩神社行宮、釣鐘屋敷跡を経由します。
坐摩神社行宮(いかすりじんじゃ あんぐう)
坐摩神社の旧社地にこの行宮が建ち、正確には豊磐間戸・奇磐間戸神社。熊野九十九王子の第一王子 窪津王子の跡に建てられているそうです。
釣鐘屋敷跡(つりがねやしきあと)
寛永11年(1634)3代将軍家光が、大坂城へ来たとき、大坂町中の地子銀(じしぎん)(固定資産税)の永久免除を約束した。その恩恵に感謝して釣鐘をつくり町中に時を知らせた。この鐘楼は明治3年撤去され、釣鐘は大阪府庁屋上に「大阪町中時報鐘(おおさかちょうちゅうじほうしょう)」として保存されていた。昭和60年地元有志の努力によって、再び元の釣鐘屋敷地へ戻され、日に3回鐘の音をひびかせている。現地の町名、釣鐘町もこれによるそうです。
熊野街道を歩きます。
南大江公園
大阪市中央区 神崎町の南大江公園。南大江公園の南西に狸坂大明神が鎮座、側に朝日神明宮旧跡の碑がある。坂口王子はこの公園の南西の筋向かい「狸坂」の上り口の教会のある場所とも言われているそうです。
榎木大明神(なつきだいみょうじん)
御祓い筋(熊野街道)と長堀通りの角を北に、石段を登ったところにあります。このあたりは第2次大戦の空襲でも焼け残った古い家屋がまだ残っています。榎木大明神ですから榎(えのき)の木があると思いますが、実は、槐(えんじゅ)です。槐(えんじゅ)は、マメ科の落葉高木で、中国が原産。古くから台湾、日本、韓国などで植栽されている樹木です。巳さん(白蛇)を祀っているそうです。
空堀商店街の近くの熊野街道を歩きます。
近松門左衛門墓を経由して高津宮に向かいます。
近松門左衛門墓(ちかまつもんざえもんのはか)
近松門左衛門(1653年-1724年)は元禄年間を中心として、貞享~享保と約40年間にわたり劇作家として活躍した。竹本義太夫や2代目義太夫のために100作を越える浄瑠璃を著す一方で、坂田藤十郎のために20数作の歌舞伎狂言を著している。「曽根崎心中」、「心中天網島」、「女殺油地獄」などの世話物に代表される作品に描かれる人間の姿は今日に通ずる所も多く、伝統芸能や演劇、映画などの中で再創造され、たくさんの人に感動を与え続けているそうです。
高津宮(こうづぐう)
貞観8年(866年)、清和天皇の勅令によって難波高津宮の遺跡が探され、あったと定められた地に仁徳天皇を
祀る社が建立されたのが始まりとされているそうです。
ここで少し休憩になりました。
休憩後、生國魂神社、吉祥寺を経由して四天王寺に向かいます。
生國魂神社(いくくにたまじんじゃ)
かつては現在の大坂城の地に鎮座し、中世にはその社地に近接して石山本願寺も建立され繁栄したが、石山合戦後の豊臣秀吉による大坂城築城の際に現在地に遷座されている。この生國魂神社が祭神とする生島神(いくしまのかみ)・足島神(たるしまのかみ)は、国土の神霊とされる。両神は平安時代に宮中でも常時奉斎されたほか、新天皇の即位儀礼の1つである難波での八十島祭(やそしままつり)の際にも主神に祀られた重要な神々で、生國魂神社自体もそれら宮中祭祀と深い関わりを持つとされる。また、同様に大坂城地から遷座されたという久太郎町の坐摩神社とともに、難波宮との関わりも推測されている。その後中世・近世を通じても崇敬を受け、戦前の近代社格制度においては最高位の官幣大社に位置づけられた、大阪の代表的な古社の1つだそうです。
吉祥寺(きっしょうじ)
吉祥寺は万松山と号し、1630年(寛永7年))創建の曹洞宗の寺院。創建当時の住職縦鎌師が赤穂藩主浅野主匠頭長矩(あさの たくみのかみ ながのり)と親しい間柄で、この寺は大坂における浅野家の菩提寺であった。長矩候は参勤交代の折には必ずこの寺院に立寄ったという。義士討ち入りの翌年2月、大石内蔵助をはじめとする46士は切腹したが、足軽の寺坂吉右衛門が46士の遺髪、遺爪、鎖かたびら等に銀10両を添えて義士の冥福を祈る碑を建ててくれるよう吉祥寺に依頼したもので、浅野本家広島藩の意向もあり、江戸や赤穂よりも先がけ、1739年(元文4年)建立されたそうです。
四天王寺(してんのうじ)
四天王寺は、推古天皇元年(593)に聖徳太子によって建立。「四天王寺式 伽藍配置」は6~7世紀の大陸の様式を今日に伝える貴重な存在とされているそうです。
ここで昼食休憩になりました。
昼食休憩後は堀越神社、安倍清明神社、阿倍王子神社、万代池公園を経由して住吉大社まで歩きました。
堀越神社(ほりこしじんじゃ)
第33代・推古天皇の時代、四天王寺建立と同時期に、聖徳太子が叔父の第32代・崇峻(すしゅん)天皇を偲んで茶臼山に建立したと伝えられ、四天王寺七宮のひとつに数えられる神社。古くから明治中期まで境内の南沿いに
美しい堀があり、この堀を越えて参詣したので、「堀越」という名がつけられたという。境内には、かつて八軒家の渡辺の津にあった熊野第一王子の窪津王子が祀られている。交通量の多い谷町筋に面しているが、樹齢数百年におよぶ樹木などによって、境内は閑静な雰囲気を保持している。大阪では、「堀越さんは一生に一度の願いを聞いてくださる神さん」との言い伝えがあり、古くから親しまれているそうです。
あべのハルカスを通過します。
路面電車と並行して熊野街道を歩きます。
安倍清明神社に着きました。
安倍清明神社(あべせいめいじんじゃ)
阿倍野区阿倍野で生まれたといわれる平安時代の陰陽師・安倍晴明を祀る神社。阿倍王子神社が管理する末社で、創建は没後2年の寛弘4年(1007年)。現在の社殿は大正10年に晴明公の子孫と称する保田家が旧社地を寄進、大正14年に完成した。約180坪(約600平米)ほどの境内には大阪市の保存樹林が植えられ、「安倍晴明生誕地」の石碑もある。社務所において安倍晴明公顕彰会による占いも受け付けているそうです。
近くにある阿倍王子神社に着きました。
阿倍王子神社(あべおうじじんじゃ)
阿倍王子神社は大阪府大阪市阿倍野区にある神社。かつては阿倍王子(あべのおうじ)といい熊野神社の分霊社である九十九王子のひとつであったそうです。
再び、路面電車と並行して歩きます。
万代池公園に着きました。
ここで、最後の休憩になりました。
万代池公園
休憩後、ゴールの住吉大社に向かいます。
住吉大社(すみよしたいしゃ)
全国に約2,300社ある住吉神社の総本社。下関の住吉神社、博多の住吉神社とともに日本三大住吉の一社。また、毎年初詣の参拝者の多さでも全国的に有名。四棟の本殿は国宝に指定されているそうです。
第一本宮
第二本宮
第三本宮
第四本宮
反橋
ご訪問していただきありがとうございました。
京街道をあるく 6回目(最終回)(大阪) [ウォーキング京街道_熊野街道]
「京街道をあるく 6回目(最終回)」に参加してきました。(20170627)
大阪天満宮(おおさかてんまんぐう)
今年のウォーキングの目標の一つ「京街道をあるく」に参加しました。
京街道 (大坂街道)
京街道は大阪の京橋(後に高麗橋)から淀川左岸に沿って進み、淀を経て京都に向かう街道。文禄3年(1594年)に伏見城築造に着手した豊臣秀吉が1596年(文禄5年)2月に毛利一族に命じて淀川左岸に築かせた「文禄堤」が起源だそうです。今回の「京街道をあるく」は京都から大阪まで6回に分けて歩きます。
今回は第6回目(最終回)として大日駅から大阪天満宮まで歩きました。
当日は曇り、最高気温29.1℃。少し暑い中のウォーキングになりました。
集合場所大日駅を出発して盛泉寺、難宗寺、高札場、守居神社、関目神社を経由して成育公園まで歩きます。
集合場所の大日駅
大日駅を出発します。
盛泉寺近くにある守口一里塚に着きました。
盛泉寺(じょうせんじ)
教如(きょうにょ)上人を開基として、慶長11年(1606)に創建された東本願寺の末寺で、「東の御堂さん」、「東御坊さん」と呼ばれています。本堂は、近くにある「西御坊」の難宗寺と同様、元和元年(1615)の兵火により焼失した後、幾度も風水害を受けてきましたが、天保6年(1835)に再建されて現在に至っているそうです。
難宗寺(なんしゅうじ)
難宗寺は、文明7年(1475)に越前の吉崎を退出した浄土真宗の僧・蓮如上人が、文明9年(1477)に創立した守口御坊がはじまりと伝えられ、慶長16年(1611)には本願寺掛所に昇格し、「西御坊」と呼ばれるようになっています。その後、元和元年(1615)の兵火などを経て、文化7年(1810)に再建されたのが現在の本堂だそうです。
京街道の道標がありました。
守口の街並みを歩きます。
高札場(こうさつば)
高札場とは、幕府から命じられた法令や法律を木版に墨書きし民衆に周知させる瓦版の役割を果たしていた掲示板。守口市が守口宿の魅力、守口の歴史を知ってもらうための記念物として建てられたそうです。
日吉公園で休憩になりました。
紫陽花が綺麗に咲いていました。
守居神社(もりいじんじゃ)
昔は「土居神社」と呼ばれていたそうですが、明治の頃に守口の土居にある「守居神社」となる。守口と土居の各一文字を用いて「守居」と呼称されたと伝えられる。守居神社の宝刀は昭和56年に大阪府指定有形文化財となり、茎(なかご)(中子)に「備中守橘康廣」の銘がある。康廣は、江戸時代の寛文年間(1661~1673)に大阪に出て、大阪石堂派の祖となった刀匠。刀文は、焼き幅の広い丁字乱れが特徴で、康廣の代表作の一つに数えられているそうです。
関目神社(せきめじんじゃ)
祭神は素盞嗚(すさのお)命。創建不詳。豊臣秀吉が大坂城築城のとき、鬼門の治めとして、小さな社を建てたのがはじまりという。秀吉はこの付近を防衛線の一部として重視し、ここで街道(京街道)をわざと屈曲させ、軍兵の勢いをそいだという「七曲がり」が残っているそうです。
成育公園に着きました。
ここで昼食休憩になりました。
昼食休憩後は野江水神社、藤田邸跡公園、川崎橋を経由して大阪天満宮まで歩きました。
野江水神社(のえすいじんじゃ)
1548年、榎並城の城主であった三好宗三が戦いにそなえて城の近くにとりでをつくっていたとき、幾度か水害に悩まされたので、榎並城内に水難の守り神をおまつりしたのが水神社であるといわれています。のちに、豊臣秀吉が大阪城をたてるときも水害のために城づくりがさまたげられないように水神社を建直し祈願をしたそうです。
この後、京橋方面に向かいます。
京橋近くの公園です。
藤田邸跡公園に着きました。
藤田邸跡公園(ふじたていあとこうえん)
藤田伝三郎男爵の本邸の庭園跡。近松門左衛門の最高傑作「心中天の網島」の場所だそうです。公園の横には藤田美術館と太閤園があります。
この後、川崎橋を渡ってゴールの大阪天満宮に向かいます。
川崎橋を渡ります。
対岸には八軒家浜が見えます。
八軒家浜(はちけんやはま)
八軒屋浜は、京都・伏見と大阪を結ぶ三十石船の発着場で舟運の拠点としてにぎわった場所だそうです。
いよいよ京街道シリーズの最後になる大阪天満宮です。
大阪天満宮(おおさかてんまんぐう)
菅原道真公が祭られている大阪天満宮は大阪市民からは「天満(てんま)の天神さん」と呼ばれ親しまれています。
今回で京街道シリーズを完歩することができました。
次回からは熊野街道を予定しています。
ご訪問していただきありがとうございました。
大阪天満宮(おおさかてんまんぐう)
今年のウォーキングの目標の一つ「京街道をあるく」に参加しました。
京街道 (大坂街道)
京街道は大阪の京橋(後に高麗橋)から淀川左岸に沿って進み、淀を経て京都に向かう街道。文禄3年(1594年)に伏見城築造に着手した豊臣秀吉が1596年(文禄5年)2月に毛利一族に命じて淀川左岸に築かせた「文禄堤」が起源だそうです。今回の「京街道をあるく」は京都から大阪まで6回に分けて歩きます。
今回は第6回目(最終回)として大日駅から大阪天満宮まで歩きました。
当日は曇り、最高気温29.1℃。少し暑い中のウォーキングになりました。
集合場所大日駅を出発して盛泉寺、難宗寺、高札場、守居神社、関目神社を経由して成育公園まで歩きます。
集合場所の大日駅
大日駅を出発します。
盛泉寺近くにある守口一里塚に着きました。
盛泉寺(じょうせんじ)
教如(きょうにょ)上人を開基として、慶長11年(1606)に創建された東本願寺の末寺で、「東の御堂さん」、「東御坊さん」と呼ばれています。本堂は、近くにある「西御坊」の難宗寺と同様、元和元年(1615)の兵火により焼失した後、幾度も風水害を受けてきましたが、天保6年(1835)に再建されて現在に至っているそうです。
難宗寺(なんしゅうじ)
難宗寺は、文明7年(1475)に越前の吉崎を退出した浄土真宗の僧・蓮如上人が、文明9年(1477)に創立した守口御坊がはじまりと伝えられ、慶長16年(1611)には本願寺掛所に昇格し、「西御坊」と呼ばれるようになっています。その後、元和元年(1615)の兵火などを経て、文化7年(1810)に再建されたのが現在の本堂だそうです。
京街道の道標がありました。
守口の街並みを歩きます。
高札場(こうさつば)
高札場とは、幕府から命じられた法令や法律を木版に墨書きし民衆に周知させる瓦版の役割を果たしていた掲示板。守口市が守口宿の魅力、守口の歴史を知ってもらうための記念物として建てられたそうです。
日吉公園で休憩になりました。
紫陽花が綺麗に咲いていました。
守居神社(もりいじんじゃ)
昔は「土居神社」と呼ばれていたそうですが、明治の頃に守口の土居にある「守居神社」となる。守口と土居の各一文字を用いて「守居」と呼称されたと伝えられる。守居神社の宝刀は昭和56年に大阪府指定有形文化財となり、茎(なかご)(中子)に「備中守橘康廣」の銘がある。康廣は、江戸時代の寛文年間(1661~1673)に大阪に出て、大阪石堂派の祖となった刀匠。刀文は、焼き幅の広い丁字乱れが特徴で、康廣の代表作の一つに数えられているそうです。
関目神社(せきめじんじゃ)
祭神は素盞嗚(すさのお)命。創建不詳。豊臣秀吉が大坂城築城のとき、鬼門の治めとして、小さな社を建てたのがはじまりという。秀吉はこの付近を防衛線の一部として重視し、ここで街道(京街道)をわざと屈曲させ、軍兵の勢いをそいだという「七曲がり」が残っているそうです。
成育公園に着きました。
ここで昼食休憩になりました。
昼食休憩後は野江水神社、藤田邸跡公園、川崎橋を経由して大阪天満宮まで歩きました。
野江水神社(のえすいじんじゃ)
1548年、榎並城の城主であった三好宗三が戦いにそなえて城の近くにとりでをつくっていたとき、幾度か水害に悩まされたので、榎並城内に水難の守り神をおまつりしたのが水神社であるといわれています。のちに、豊臣秀吉が大阪城をたてるときも水害のために城づくりがさまたげられないように水神社を建直し祈願をしたそうです。
この後、京橋方面に向かいます。
京橋近くの公園です。
藤田邸跡公園に着きました。
藤田邸跡公園(ふじたていあとこうえん)
藤田伝三郎男爵の本邸の庭園跡。近松門左衛門の最高傑作「心中天の網島」の場所だそうです。公園の横には藤田美術館と太閤園があります。
この後、川崎橋を渡ってゴールの大阪天満宮に向かいます。
川崎橋を渡ります。
対岸には八軒家浜が見えます。
八軒家浜(はちけんやはま)
八軒屋浜は、京都・伏見と大阪を結ぶ三十石船の発着場で舟運の拠点としてにぎわった場所だそうです。
いよいよ京街道シリーズの最後になる大阪天満宮です。
大阪天満宮(おおさかてんまんぐう)
菅原道真公が祭られている大阪天満宮は大阪市民からは「天満(てんま)の天神さん」と呼ばれ親しまれています。
今回で京街道シリーズを完歩することができました。
次回からは熊野街道を予定しています。
ご訪問していただきありがとうございました。
京街道をあるく 5回目(大阪) [ウォーキング京街道_熊野街道]
「京街道をあるく 5回目」に参加してきました。(20170523)
京阪枚方駅近くの通り
京街道
京街道は大阪の京橋(後に高麗橋)から淀川左岸に沿って進み、淀を経て京都に向かう街道。文禄3年(1594年)に伏見城築造に着手した豊臣秀吉が1596年(文禄5年)2月に毛利一族に命じて淀川左岸に築かせた「文禄堤」が起源だそうです。「京街道をあるく」は京都から大阪まで6回に分けて歩きます。
今回は第5回目として京阪枚方駅から大日駅まで歩きました。
当日は晴れ、最高気温28.5℃。少し暑い中のウォーキングになりました。
集合場所京阪枚方駅を出発して三矢公園、枚方浜跡、光善寺、蹉跎神社御旅所を経由して太間天満宮まで歩きます。
京阪枚方駅近くの公園を出発します。
京街道の道標がありました。
三矢公園
枚方浜跡
淀川河川公園
光善寺(こうぜんじ)
文明7(1475)年、浄土真宗本願寺八世蓮如上人により建立。蓮如上人はこの地で約3年間布教に努めたそうです。
蹉跎神社御旅所(さだじんじゃおたびしょ)を通過します。
淀川堤防を歩きます。
茨田堤碑(まんだのつつみ)
『日本書紀』の仁徳天皇11年には、淀川に日本で最初といわれる「茨田堤」が築かれ、築堤に大変苦労したことが記載されているそうです。
太間天満宮 ( たいまてんまんぐう )
日本書紀仁徳天皇の11年(5世紀初)の条に茨田堤の築造のことが出ていますが、それには2ヵ所の難所があって、何度工事をやり直してもつながらないので、人柱を立てて堤を完成させようとしました。下の1ヵ所は、武蔵国の、強頚(こわくひ)が犠牲になりました。上の所は、茨田連衫子(むらじころものこ)が指命されましたが、衫子は、機智をもっていけにえになることを免れたそうです。
太間天満宮横の公園で昼食休憩になりました。
昼食休憩後は淀川河川敷、佐太天神宮、来迎寺、庭窪レストセンター、八坂瓊神社を経由して大日駅まで歩きました。
淀川河川敷を歩きます。
佐太天神宮に向かいます。
佐太天神宮(さたてんじんぐう)
昌泰4年(901年)に道真が筑紫の大宰府に遷る途中、道真の領地であった当地に暫時滞在し、その出立に際して自身の木像と自画像を残したそうです。
来迎寺(らいこうじ)
正平2年(1347年)、大念仏寺7世法明上人の弟子、実尊誠阿上人西願が河内国茨田郡下仁和寺庄守口村(守口市来迎町)に天筆如来を本尊として一宇を建立したのが始まりとされるそうです。
再び、淀川堤防を歩きます。
大阪モノレールの下を歩きます。
庭窪レストセンター
八坂瓊神社(やさかにじんじゃ)
京都の八坂神社からの勧請、年代は不詳。御祭神は、素盞鳴尊だそうです。
鳥居は平成28年10月建立だそうです。
この後、大日駅まで歩きました。
ご訪問していただきありがとうございました。
京阪枚方駅近くの通り
京街道
京街道は大阪の京橋(後に高麗橋)から淀川左岸に沿って進み、淀を経て京都に向かう街道。文禄3年(1594年)に伏見城築造に着手した豊臣秀吉が1596年(文禄5年)2月に毛利一族に命じて淀川左岸に築かせた「文禄堤」が起源だそうです。「京街道をあるく」は京都から大阪まで6回に分けて歩きます。
今回は第5回目として京阪枚方駅から大日駅まで歩きました。
当日は晴れ、最高気温28.5℃。少し暑い中のウォーキングになりました。
集合場所京阪枚方駅を出発して三矢公園、枚方浜跡、光善寺、蹉跎神社御旅所を経由して太間天満宮まで歩きます。
京阪枚方駅近くの公園を出発します。
京街道の道標がありました。
三矢公園
枚方浜跡
淀川河川公園
光善寺(こうぜんじ)
文明7(1475)年、浄土真宗本願寺八世蓮如上人により建立。蓮如上人はこの地で約3年間布教に努めたそうです。
蹉跎神社御旅所(さだじんじゃおたびしょ)を通過します。
淀川堤防を歩きます。
茨田堤碑(まんだのつつみ)
『日本書紀』の仁徳天皇11年には、淀川に日本で最初といわれる「茨田堤」が築かれ、築堤に大変苦労したことが記載されているそうです。
太間天満宮 ( たいまてんまんぐう )
日本書紀仁徳天皇の11年(5世紀初)の条に茨田堤の築造のことが出ていますが、それには2ヵ所の難所があって、何度工事をやり直してもつながらないので、人柱を立てて堤を完成させようとしました。下の1ヵ所は、武蔵国の、強頚(こわくひ)が犠牲になりました。上の所は、茨田連衫子(むらじころものこ)が指命されましたが、衫子は、機智をもっていけにえになることを免れたそうです。
太間天満宮横の公園で昼食休憩になりました。
昼食休憩後は淀川河川敷、佐太天神宮、来迎寺、庭窪レストセンター、八坂瓊神社を経由して大日駅まで歩きました。
淀川河川敷を歩きます。
佐太天神宮に向かいます。
佐太天神宮(さたてんじんぐう)
昌泰4年(901年)に道真が筑紫の大宰府に遷る途中、道真の領地であった当地に暫時滞在し、その出立に際して自身の木像と自画像を残したそうです。
来迎寺(らいこうじ)
正平2年(1347年)、大念仏寺7世法明上人の弟子、実尊誠阿上人西願が河内国茨田郡下仁和寺庄守口村(守口市来迎町)に天筆如来を本尊として一宇を建立したのが始まりとされるそうです。
再び、淀川堤防を歩きます。
大阪モノレールの下を歩きます。
庭窪レストセンター
八坂瓊神社(やさかにじんじゃ)
京都の八坂神社からの勧請、年代は不詳。御祭神は、素盞鳴尊だそうです。
鳥居は平成28年10月建立だそうです。
この後、大日駅まで歩きました。
ご訪問していただきありがとうございました。
「京街道をあるく 4回目」(大阪) [ウォーキング京街道_熊野街道]
「京街道をあるく 4回目」に参加してきました。(20170425)
くずはゴルフ場沿い
京街道(きょうかいどう)
京街道はの京橋(後に高麗橋)から淀川左岸に沿って進み、淀を経てに向かう街道。文禄3年(1594年)に伏見城築造に着手した豊臣秀吉が1596年(文禄5年)2月に毛利一族に命じて淀川左岸に築かせた「文禄堤」が起源だそうです。「京街道をあるく」は京都から大阪まで6回に分けて歩きます。
「西国街道をあるく」京都駅から大阪天満宮までのウォーキングの第4回目。今回は樟葉駅から枚方駅まで歩きました。
当日は曇り、最高気温23.4℃。少し汗ばむ感じのウォーキングになりました。
集合場所樟葉駅を出発してを経由して片埜神社、牧野車塚古墳、粟倉神社、西雲寺を経由して御殿山神社まで歩きます。
樟葉駅
樟葉駅の北側にある「くずはゴルフ場」です。
片埜神社に向かいます。
藤の花が見事に咲いていました。
片埜神社(かたのじんじゃ)
社伝では、古くから旧交野郡の鎮守神として崇敬され、延喜式に掲載されている交野郡二座のうちの一座。天正11年(1583)豊臣秀吉が大坂城築城に際して、片埜神社を鬼門鎮座の社として定めたという。現在の本殿は、残されている棟札によると、慶長7年(1602)豊臣秀頼が片桐旦元を総奉行に再建したものだそうです。
片埜神社東門
少し休憩をとったあと、牧野車塚古墳、粟倉神社、御蔵山神社に向かいます。
牧野車塚古墳(まきのくるまづかこふん)
穂谷川左岸に臨む交野大地上の標高約22m付近に立地する前方後円墳。墳丘は2段築成で、全長107.5m、後円部54.5m、前方部幅44mを測ります。主軸をほぼ東西にとり、前方部を東に向けています。周囲には、幅10mほどの空堀をめぐらせ、さらに西側から南側にかけて外堤が設けられています。葺石(ふきいし)は認められず、かっては、埴輪が散乱していたようですが、今は見られないそうです。
粟倉神社( あわくらじんじゃ )
小倉村渚村の古くからの氏神で応神天皇を祭神。粟倉寺も近くにあったと考えられているがまだわかっていないことが多いが、小倉村の地名は栗倉が語源との説もあるそうです。
西雲寺(さいうんじ)
当山は1630年(寛永7年)超誉存悦上人の開創で、もとは小山寺という真言宗の寺院で、弘法大師座像が伝わる。5代住職随誉上人が21年間の在住中に寺容を整え本堂、庫裡を建立し、寺号を西雲寺と改称したそうです。
御殿山に登ります。
良い見晴らしです。
御殿山神社(ごてんやまじんじゃ)
元は渚の院跡の観音寺境内に設けられていた小倉の粟倉神社の御旅所(おたびしょ)。江戸文政年間(1818~29年)、渚村に産土神勧請の気運が高まり御旅所に八幡大神を勧請して西粟倉神社と称した。明治初年の神仏分離令によって、1869年御殿山に社殿を造営し翌年当地に遷宮し、御殿山神社と改称し現在に至っているそうです。
ここで昼食休憩になりました。
昼食休憩後、百済王神社、禁野車塚古墳、意賀美神を経由して枚方駅まで歩きました。
百済王神社(くだらおうじんじゃ)
百済王氏の祖霊を祭る神社。現在の祭神は百済国王と進雄命(江戸時代までは牛頭天王)となっているそうです。
禁野車塚古墳(きんやくるまづかこふん)
淀川の南岸、生駒山脈の北西山麓にのびる枚方丘陵のなかにある前方後円墳。全長約110mで前方部を西に向けており、周濠その他の施設はない。墳丘上には葺石、円筒埴輪片、形象埴輪片がある。主体部は不明であるが、後円部頂に板石片があり、あるいは竪穴式石室であるかもしれない。淀川流域南岸に残る数少ない前方後円墳の一つであり、淀川が瀬戸内から畿内中心部にいたる主要交通路の一つと推定されることからして、この地域の歴史的発展を示す資料として、この古墳のもつ意義は高いそうです。
意賀美神社(おかみじんじゃ)
意賀美神社は元は現在地から約100m南の旧伊加賀村字宮山に鎮座していた。創建の年代は不詳であるが、開化天皇の時代には饒速日命の五世の子孫で物部氏の遠祖である伊香色男の邸宅がこの地にあり、その敷地内に鎮座していたという。高龗神は水神であり、淀川の鎮守として創建されたものとみられる。延喜式神名帳では小社に列している。旧伊加賀村の氏神として、明治5年(1872年)に村社に列格したそうです。
この後、枚方駅まで歩きました。
枚方駅近くにあった京街道の道標です。
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くずはゴルフ場沿い
京街道(きょうかいどう)
京街道はの京橋(後に高麗橋)から淀川左岸に沿って進み、淀を経てに向かう街道。文禄3年(1594年)に伏見城築造に着手した豊臣秀吉が1596年(文禄5年)2月に毛利一族に命じて淀川左岸に築かせた「文禄堤」が起源だそうです。「京街道をあるく」は京都から大阪まで6回に分けて歩きます。
「西国街道をあるく」京都駅から大阪天満宮までのウォーキングの第4回目。今回は樟葉駅から枚方駅まで歩きました。
当日は曇り、最高気温23.4℃。少し汗ばむ感じのウォーキングになりました。
集合場所樟葉駅を出発してを経由して片埜神社、牧野車塚古墳、粟倉神社、西雲寺を経由して御殿山神社まで歩きます。
樟葉駅
樟葉駅の北側にある「くずはゴルフ場」です。
片埜神社に向かいます。
藤の花が見事に咲いていました。
片埜神社(かたのじんじゃ)
社伝では、古くから旧交野郡の鎮守神として崇敬され、延喜式に掲載されている交野郡二座のうちの一座。天正11年(1583)豊臣秀吉が大坂城築城に際して、片埜神社を鬼門鎮座の社として定めたという。現在の本殿は、残されている棟札によると、慶長7年(1602)豊臣秀頼が片桐旦元を総奉行に再建したものだそうです。
片埜神社東門
少し休憩をとったあと、牧野車塚古墳、粟倉神社、御蔵山神社に向かいます。
牧野車塚古墳(まきのくるまづかこふん)
穂谷川左岸に臨む交野大地上の標高約22m付近に立地する前方後円墳。墳丘は2段築成で、全長107.5m、後円部54.5m、前方部幅44mを測ります。主軸をほぼ東西にとり、前方部を東に向けています。周囲には、幅10mほどの空堀をめぐらせ、さらに西側から南側にかけて外堤が設けられています。葺石(ふきいし)は認められず、かっては、埴輪が散乱していたようですが、今は見られないそうです。
粟倉神社( あわくらじんじゃ )
小倉村渚村の古くからの氏神で応神天皇を祭神。粟倉寺も近くにあったと考えられているがまだわかっていないことが多いが、小倉村の地名は栗倉が語源との説もあるそうです。
西雲寺(さいうんじ)
当山は1630年(寛永7年)超誉存悦上人の開創で、もとは小山寺という真言宗の寺院で、弘法大師座像が伝わる。5代住職随誉上人が21年間の在住中に寺容を整え本堂、庫裡を建立し、寺号を西雲寺と改称したそうです。
御殿山に登ります。
良い見晴らしです。
御殿山神社(ごてんやまじんじゃ)
元は渚の院跡の観音寺境内に設けられていた小倉の粟倉神社の御旅所(おたびしょ)。江戸文政年間(1818~29年)、渚村に産土神勧請の気運が高まり御旅所に八幡大神を勧請して西粟倉神社と称した。明治初年の神仏分離令によって、1869年御殿山に社殿を造営し翌年当地に遷宮し、御殿山神社と改称し現在に至っているそうです。
ここで昼食休憩になりました。
昼食休憩後、百済王神社、禁野車塚古墳、意賀美神を経由して枚方駅まで歩きました。
百済王神社(くだらおうじんじゃ)
百済王氏の祖霊を祭る神社。現在の祭神は百済国王と進雄命(江戸時代までは牛頭天王)となっているそうです。
禁野車塚古墳(きんやくるまづかこふん)
淀川の南岸、生駒山脈の北西山麓にのびる枚方丘陵のなかにある前方後円墳。全長約110mで前方部を西に向けており、周濠その他の施設はない。墳丘上には葺石、円筒埴輪片、形象埴輪片がある。主体部は不明であるが、後円部頂に板石片があり、あるいは竪穴式石室であるかもしれない。淀川流域南岸に残る数少ない前方後円墳の一つであり、淀川が瀬戸内から畿内中心部にいたる主要交通路の一つと推定されることからして、この地域の歴史的発展を示す資料として、この古墳のもつ意義は高いそうです。
意賀美神社(おかみじんじゃ)
意賀美神社は元は現在地から約100m南の旧伊加賀村字宮山に鎮座していた。創建の年代は不詳であるが、開化天皇の時代には饒速日命の五世の子孫で物部氏の遠祖である伊香色男の邸宅がこの地にあり、その敷地内に鎮座していたという。高龗神は水神であり、淀川の鎮守として創建されたものとみられる。延喜式神名帳では小社に列している。旧伊加賀村の氏神として、明治5年(1872年)に村社に列格したそうです。
この後、枚方駅まで歩きました。
枚方駅近くにあった京街道の道標です。
前回、前々回の記事はNiceボタンをクローズしていますが、合わせて見て頂けると嬉しいです
ご訪問していただきありがとうございました。
「京街道をあるく 3回目」(京都、大阪) [ウォーキング京街道_熊野街道]
「京街道をあるく 3回目」に参加してきました。(20170328)
石清水八幡宮
京街道(きょうかいどう)
京街道はの京橋(後に高麗橋)から淀川左岸に沿って進み、淀を経てに向かう街道。文禄3年(1594年)に伏見城築造に着手した豊臣秀吉が1596年(文禄5年)2月に毛利一族に命じて淀川左岸に築かせた「文禄堤」が起源だそうです。「京街道をあるく」は京都から大阪まで6回に分けて歩きます。
「西国街道をあるく」京都駅から大阪天満宮までのウォーキングの第3回目。今回は淀駅から樟葉駅まで歩きました。
当日は晴れ、最高気温15.2℃。気持ち良いウォーキングになりました。
集合場所淀駅近くの與杼神社を出発して淀緑地、凉森神社、さくらであい館、走井餅を経由して石清水八幡宮まで歩きます。
與杼神社(よど じんじゃ)
淀城跡公園内にある與杼神社(よど じんじゃ)は、与杼神社とも記される。また、淀姫(よどひめ)社、旧社地に因み水垂(みずたれ)社、大荒木(おおあらき)神社ともいわれた。境内は4437㎡あり、淀城跡公園と共に風致地区に指定されている。周辺の淀、納所(のうしょ)、水垂、大下津(おおしもず)の産土神として祀られてきた。 祭神は、豊玉姫命(とよたまひめのみこと)、高皇産霊神(たかみむすひのかみ)、速秋津姫命(はやあきつひめのみこと)の三柱だそうです。
淀城跡公園(よどじょうあとこうえん)
淀城跡公園は、淀駅から歩いて5分。淀城の跡を整備して作られた公園ですが、この淀城は、淀の方が秀吉から賜った淀城ではなく、江戸時代になってから、二代将軍秀忠が松平定綱に築城を命じて造らせたもの。淀の方の淀城は、少し離れた納所にあって、妙教寺という寺に淀古城の石碑があるだけのようです。
淀緑地(よどりょくち)
淀水路沿いにある淀緑地。2本の「河津桜」の苗木が平成14(2002)年に植樹されて以降、徐々に増え続け、現在は淀一帯で約200本の桜の名所となっているそうです。
凉森神社(すずしのもりじんじゃ)
淀美豆町(よどみずちょう)の産土神。祭神は、白鬚大神(しらひげおおかみ、猿田彦神)、神速須佐之男命(かんはやすさのおのみこと )、大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)、事代主大神(ことしろぬしのおおかみ)、菅原道眞(すがわらのみちざね)。相殿に、天照大神(あまてらすおおみかみ)、豊受大神(とようけのおおかみ)、天宇受賣命(あめのうずめ)、第16代・仁徳天皇(にんとくてんのう)を祀るそうです。
この後、さくらであい館に向かいます。
さくらであい館(さくらであいかん)
木津川、宇治川、桂川が出会う三川合流地点にほど近い桜の名所、背割堤に新しいランドマークとして3日前(平成29年3月25日)にオープンしたそうです。
背割堤(せわりてい)
桜で有名な所。当日、桜はまだ咲いていませんでした。
ネットから満開の写真を引用させていただきました。
休憩後、石清水八幡宮に向かいます。
走井餅(はしりいもち)
石清水八幡宮の門前にある走井(はしりい)餅屋さん。江戸時代中期の明和元年(1764年)大津走井の名水で餡餅をつくり、八幡で引き継がれているそうです。昭和天皇へ献上された由緒深いお餅屋さんだそうです。
大好きな走井餅。買ってきました。
石清水八幡宮の横にある雰囲気の良い橋でした。
石清水八幡宮への登りです。少しきつかったです。
石清水八幡宮展望台に着きました。
ここで昼食休憩になりました。
昼食休憩後、石清水八幡宮、樟葉台場跡、交野天神社を経由して樟葉駅まで歩きました。
石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)
男山(標高143m)山上に鎮座する神社で伊勢神宮(三重)・賀茂神社(京都)とともに日本三社の一社、また、宇佐神宮(大分)・鶴岡八幡宮(神奈川)と共に日本三大八幡宮の一社だそうです。9月15日に行われる石清水祭は葵祭(京都)、春日祭(奈良)と共に三大勅祭の一つに数えられているそうです。
エジソン記念碑がありました。
エジソン白熱電球の実用化成功に最も大きな役割を果たした記念だそうです。
ここから、一気に山を下り、樟葉台場跡に向かいます。
樟葉台場跡(くずはだいばあと)
樟葉台場(砲台)跡は、江戸時代に徳川幕府が、大坂湾から京都に侵入する外国船に備えるという名目で、淀川左岸の楠葉と右岸の高浜に砲台を築きました。また、台場は長州藩士など尊王攘夷派の入京を阻止する機能もあったそうです。
交野天神社に向かいます。
交野天神社(かたのてんじんしゃ)
桓武(かんむ)天皇は、延暦6年(787)、長岡京の南郊の地を選び、郊祀壇(こうしだん)を設けて、父光仁(こうにん)天皇を天神(あまつかみ)として祀った。これは、中国の皇帝が毎年冬至に都の南に天壇(てんだん)を設けて、天帝(てんてい)を祀る例にならったもので、当社の起源はこの郊祀壇にあるといわれている。主祭神は光仁天皇で、天児屋根命(あめのこやねのみこと)・菅原道真(すがわらのみちざね)が合祀されているそうです。
この後、樟葉駅まで歩きました。
樟葉駅近くで今回初めて京街道の道標を見ました。
樟葉駅
帰ってから、走井餅を頂きました。
美味しかったです。
前々回、前回はNiceボタンをクローズしていますが、合わせてみて頂けると嬉しいです。
ご訪問していただきありがとうございました。
石清水八幡宮
京街道(きょうかいどう)
京街道はの京橋(後に高麗橋)から淀川左岸に沿って進み、淀を経てに向かう街道。文禄3年(1594年)に伏見城築造に着手した豊臣秀吉が1596年(文禄5年)2月に毛利一族に命じて淀川左岸に築かせた「文禄堤」が起源だそうです。「京街道をあるく」は京都から大阪まで6回に分けて歩きます。
「西国街道をあるく」京都駅から大阪天満宮までのウォーキングの第3回目。今回は淀駅から樟葉駅まで歩きました。
当日は晴れ、最高気温15.2℃。気持ち良いウォーキングになりました。
集合場所淀駅近くの與杼神社を出発して淀緑地、凉森神社、さくらであい館、走井餅を経由して石清水八幡宮まで歩きます。
與杼神社(よど じんじゃ)
淀城跡公園内にある與杼神社(よど じんじゃ)は、与杼神社とも記される。また、淀姫(よどひめ)社、旧社地に因み水垂(みずたれ)社、大荒木(おおあらき)神社ともいわれた。境内は4437㎡あり、淀城跡公園と共に風致地区に指定されている。周辺の淀、納所(のうしょ)、水垂、大下津(おおしもず)の産土神として祀られてきた。 祭神は、豊玉姫命(とよたまひめのみこと)、高皇産霊神(たかみむすひのかみ)、速秋津姫命(はやあきつひめのみこと)の三柱だそうです。
淀城跡公園(よどじょうあとこうえん)
淀城跡公園は、淀駅から歩いて5分。淀城の跡を整備して作られた公園ですが、この淀城は、淀の方が秀吉から賜った淀城ではなく、江戸時代になってから、二代将軍秀忠が松平定綱に築城を命じて造らせたもの。淀の方の淀城は、少し離れた納所にあって、妙教寺という寺に淀古城の石碑があるだけのようです。
淀緑地(よどりょくち)
淀水路沿いにある淀緑地。2本の「河津桜」の苗木が平成14(2002)年に植樹されて以降、徐々に増え続け、現在は淀一帯で約200本の桜の名所となっているそうです。
凉森神社(すずしのもりじんじゃ)
淀美豆町(よどみずちょう)の産土神。祭神は、白鬚大神(しらひげおおかみ、猿田彦神)、神速須佐之男命(かんはやすさのおのみこと )、大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)、事代主大神(ことしろぬしのおおかみ)、菅原道眞(すがわらのみちざね)。相殿に、天照大神(あまてらすおおみかみ)、豊受大神(とようけのおおかみ)、天宇受賣命(あめのうずめ)、第16代・仁徳天皇(にんとくてんのう)を祀るそうです。
この後、さくらであい館に向かいます。
さくらであい館(さくらであいかん)
木津川、宇治川、桂川が出会う三川合流地点にほど近い桜の名所、背割堤に新しいランドマークとして3日前(平成29年3月25日)にオープンしたそうです。
背割堤(せわりてい)
桜で有名な所。当日、桜はまだ咲いていませんでした。
ネットから満開の写真を引用させていただきました。
休憩後、石清水八幡宮に向かいます。
走井餅(はしりいもち)
石清水八幡宮の門前にある走井(はしりい)餅屋さん。江戸時代中期の明和元年(1764年)大津走井の名水で餡餅をつくり、八幡で引き継がれているそうです。昭和天皇へ献上された由緒深いお餅屋さんだそうです。
大好きな走井餅。買ってきました。
石清水八幡宮の横にある雰囲気の良い橋でした。
石清水八幡宮への登りです。少しきつかったです。
石清水八幡宮展望台に着きました。
ここで昼食休憩になりました。
昼食休憩後、石清水八幡宮、樟葉台場跡、交野天神社を経由して樟葉駅まで歩きました。
石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)
男山(標高143m)山上に鎮座する神社で伊勢神宮(三重)・賀茂神社(京都)とともに日本三社の一社、また、宇佐神宮(大分)・鶴岡八幡宮(神奈川)と共に日本三大八幡宮の一社だそうです。9月15日に行われる石清水祭は葵祭(京都)、春日祭(奈良)と共に三大勅祭の一つに数えられているそうです。
エジソン記念碑がありました。
エジソン白熱電球の実用化成功に最も大きな役割を果たした記念だそうです。
ここから、一気に山を下り、樟葉台場跡に向かいます。
樟葉台場跡(くずはだいばあと)
樟葉台場(砲台)跡は、江戸時代に徳川幕府が、大坂湾から京都に侵入する外国船に備えるという名目で、淀川左岸の楠葉と右岸の高浜に砲台を築きました。また、台場は長州藩士など尊王攘夷派の入京を阻止する機能もあったそうです。
交野天神社に向かいます。
交野天神社(かたのてんじんしゃ)
桓武(かんむ)天皇は、延暦6年(787)、長岡京の南郊の地を選び、郊祀壇(こうしだん)を設けて、父光仁(こうにん)天皇を天神(あまつかみ)として祀った。これは、中国の皇帝が毎年冬至に都の南に天壇(てんだん)を設けて、天帝(てんてい)を祀る例にならったもので、当社の起源はこの郊祀壇にあるといわれている。主祭神は光仁天皇で、天児屋根命(あめのこやねのみこと)・菅原道真(すがわらのみちざね)が合祀されているそうです。
この後、樟葉駅まで歩きました。
樟葉駅近くで今回初めて京街道の道標を見ました。
樟葉駅
帰ってから、走井餅を頂きました。
美味しかったです。
前々回、前回はNiceボタンをクローズしていますが、合わせてみて頂けると嬉しいです。
ご訪問していただきありがとうございました。
「京街道をあるく 2回目」(京都) [ウォーキング京街道_熊野街道]
「京街道をあるく 2回目」に参加してきました。(20170228)
京街道(きょうかいどう)
京街道はの京橋(後に高麗橋)から淀川左岸に沿って進み、淀を経てに向かう街道。文禄3年(1594年)に伏見城築造に着手した豊臣秀吉が1596年(文禄5年)2月に毛利一族に命じて淀川左岸に築かせた「文禄堤」が起源だそうです。「京街道をあるく」は京都から大阪まで6回に分けて歩きます。
「西国街道をあるく」京都駅から大阪天満宮までのウォーキングの第2回目。
今回は伏見稲荷大社から淀駅まで歩きました。
当日は曇り、晴れ、最高気温10℃。気持ち良いウォーキングになりました。
集合場所伏見稲荷大社を出発してぬりこべ地蔵、瑞光寺、藤森神社、勝念寺、本成寺、金礼寺、源空寺、カッパカントリー、京橋を経由して伏見港公園まで歩きます。
伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)
伏見稲荷大社は式内社(名神大社)、二十二社(上七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁に属さない単立神社。稲荷山の麓に本殿があり、稲荷山全体を神域とする。全国に約3万社あるといわれる稲荷神社の総本社。初詣では近畿地方の社寺で最多の参拝者を集める(日本国内第4位〔2010年〕)そうです。外国人に人気の観光スポット3年連続第一位だそうです。
有名な千本鳥居の前を通過します。
ぬりこべ地蔵(ぬりこべじぞう)
ぬりこべ地蔵は京都では歯痛にご利益があるとして有名。歯の健康を祈るハガキが全国から寄せられている。本来は、摂取院の塗り壁の立派なお堂にあった事から「塗り壁地蔵」と呼ばれていたが、これがなまって「ぬりこべ地蔵」になったそうです。
茶碗子の井戸(ちゃわんこのいど)
路傍の地蔵堂の横に清冷な湧水がある。京都の名水の一つで「茶碗子の水」と呼ばれる。 伝えによれば昔 都に住む茶人が、いつも宇治橋より、宇治川の水を汲ませて、茶の湯に用いていた。 ある時、使いの者が水を汲んでの帰り道、この近くまできて、水をこぼしてしまった。使いの者はこの湧水を持ち帰って知らぬ顔をしていた。 いつもの水と違うことを主人は見破った。 問い詰められた使いの者は恐る恐る一部始終を話したところ、主人に叱られるどころか、宇治川の水よりも良いとほめられ、その後は宇治までの遠出の必要がなくなったといわれているそうです。
瑞光寺(ずいこうじ)
日蓮宗身延山久遠寺派。1655年(明暦1)元政が草庵を結んだのが起こり。寛文年間(1661-73)に堂舎を建立、法華道場となった。元政の出家は、江戸吉原の高尾太夫の死によるというエピソードから縁切り祈願の信仰があるそうです。
琵琶湖疎水沿いを歩きます。
藤森神社(ふじのもりじんじゃ)
藤森神社は平安遷都以前から祀られている古い社、駈馬、紫陽花でも有名だそうです。
勝念寺(しょうねんじ)
勝念寺は、安養山往生院と号する。「かましきさん」「かえる寺」「萩の寺」「えんまさんの寺」とも呼ばれているそうです。
本成寺(ほんじょうじ)
妙栄山(みょうえいざん)と号する法華宗大本山本能寺の末寺。天正10年(1582)の「本能寺の変」後、同寺の再建に尽力した、本能寺中興日逕(にちきょう)聖人によって、慶長2年(1597)に創建されたのが当寺である。 当初、現在の伏見区上板橋中之町にあったが、その後、寛永13年(1636)、篤信者中村隆運が法華経千部読誦の心願成就を機に、伏見町奉行水野石見守忠貞の協力を得て、現在地に移したものだそうです。
金礼宮(きんさつぐう)
金札宮は伏見で最も古い神社のひとつで祭祀を司る霊験あらたかな天太玉命(白菊翁・白菊大明神)を祀りまた観阿弥の謡曲「金札」や、ご神木で京都市指定天然記念物のクロガネモチの木でも知られ開運と幸運を呼ぶ神社として永く人々の尊崇を集めているそうです。
源空寺(げんくうじ)
宝海山(ほうかいざん)と号する浄土宗の寺。円光大師(法然)の霊場25ヶ所の一つに数えられている。寺伝によれば、建久6年(1195)忍空(にんくう)上人によって、はじめ炭山(すみやま)(宇治市)の地に創建されたが、慶長年間(1596~1615)当地に移された。本堂には、円光大師座像を安置し、二層からなる山門の階下両脇には、石仏六体地蔵、愛染明王像及び朝日大黒天像を祀っている。この大黒天像は、豊臣秀吉の持念仏で、もと伏見城の巽櫓(たつみやぐら)にあったものを、一時京町大黒町に預けられたのち当寺に移されたもので、この経過により、当地はもと新大黒町とも呼ばれていたそうです。
伏見の酒どころを歩きます。
鳥せい本店
鳥と伏見の酒が美味しかったのを思い出します。
カッパカントリー
懐かしのテレビCM、お酒と河童(カッパ)のことなら何でもわかる黄桜記念館だそうです。
竜馬通りを横切ります。
京橋(きょうばし)
橋下の流れは宇治川に注ぎ、淀川に通じている。淀川の水運は、古くは京・大阪を結び、また琵琶湖を経て、遠く東海道・北陸とも連絡する交通上の大動脈であったが、慶長年間(1596~1615)、角倉了以(すみのくらりょうい)が京都市中と伏見との間に高瀬川を開削するに及んで、この付近は旅人や貨物を輸送する船着場として大いに栄えた。淀川を上り下りして貨客を運んだ三十石船や高瀬川を往来した高瀬舟、更に宇治川を下ってきた柴舟(しばぶね)などがこの辺りにひしめき合い、数十軒の船宿も立ち並んで、昼夜の別なく雑踏を極めた。しかし、明治初年、京都・大阪間に鉄道が開通するに至って次第にさびれ、今は往時の盛観は見られないが、ここから東約50メートルの所にある旅館「寺田屋」がわずかに昔の船宿の名残りをとどめているそうです。
伏見港公園(ふしみこうこうえん)
伏見港は、かつて京都府京都市伏見区に存在した河川港。1950年代頃まで、京都と大阪を結ぶ水運の拠点として栄えたそうです。
伏見港公園で昼食休憩になりました。
昼食休憩後、三栖閘門、宇治川堤防を経由して淀駅まで歩きました。
三栖閘門(みすこうもん)
1929(昭和4)年に宇治川の改修を行った際に、宇治川との舟運連絡を図るために設けられた土木構造物。現在では地域のランドマークとなっているそうです。
宇治川堤防を歩きます。
この後、ゴールの淀駅まで歩きました。
淀駅前の広場には河津桜が咲いていました。
ご訪問していただきありがとうございました。
京街道(きょうかいどう)
京街道はの京橋(後に高麗橋)から淀川左岸に沿って進み、淀を経てに向かう街道。文禄3年(1594年)に伏見城築造に着手した豊臣秀吉が1596年(文禄5年)2月に毛利一族に命じて淀川左岸に築かせた「文禄堤」が起源だそうです。「京街道をあるく」は京都から大阪まで6回に分けて歩きます。
「西国街道をあるく」京都駅から大阪天満宮までのウォーキングの第2回目。
今回は伏見稲荷大社から淀駅まで歩きました。
当日は曇り、晴れ、最高気温10℃。気持ち良いウォーキングになりました。
集合場所伏見稲荷大社を出発してぬりこべ地蔵、瑞光寺、藤森神社、勝念寺、本成寺、金礼寺、源空寺、カッパカントリー、京橋を経由して伏見港公園まで歩きます。
伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)
伏見稲荷大社は式内社(名神大社)、二十二社(上七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁に属さない単立神社。稲荷山の麓に本殿があり、稲荷山全体を神域とする。全国に約3万社あるといわれる稲荷神社の総本社。初詣では近畿地方の社寺で最多の参拝者を集める(日本国内第4位〔2010年〕)そうです。外国人に人気の観光スポット3年連続第一位だそうです。
有名な千本鳥居の前を通過します。
ぬりこべ地蔵(ぬりこべじぞう)
ぬりこべ地蔵は京都では歯痛にご利益があるとして有名。歯の健康を祈るハガキが全国から寄せられている。本来は、摂取院の塗り壁の立派なお堂にあった事から「塗り壁地蔵」と呼ばれていたが、これがなまって「ぬりこべ地蔵」になったそうです。
茶碗子の井戸(ちゃわんこのいど)
路傍の地蔵堂の横に清冷な湧水がある。京都の名水の一つで「茶碗子の水」と呼ばれる。 伝えによれば昔 都に住む茶人が、いつも宇治橋より、宇治川の水を汲ませて、茶の湯に用いていた。 ある時、使いの者が水を汲んでの帰り道、この近くまできて、水をこぼしてしまった。使いの者はこの湧水を持ち帰って知らぬ顔をしていた。 いつもの水と違うことを主人は見破った。 問い詰められた使いの者は恐る恐る一部始終を話したところ、主人に叱られるどころか、宇治川の水よりも良いとほめられ、その後は宇治までの遠出の必要がなくなったといわれているそうです。
瑞光寺(ずいこうじ)
日蓮宗身延山久遠寺派。1655年(明暦1)元政が草庵を結んだのが起こり。寛文年間(1661-73)に堂舎を建立、法華道場となった。元政の出家は、江戸吉原の高尾太夫の死によるというエピソードから縁切り祈願の信仰があるそうです。
琵琶湖疎水沿いを歩きます。
藤森神社(ふじのもりじんじゃ)
藤森神社は平安遷都以前から祀られている古い社、駈馬、紫陽花でも有名だそうです。
勝念寺(しょうねんじ)
勝念寺は、安養山往生院と号する。「かましきさん」「かえる寺」「萩の寺」「えんまさんの寺」とも呼ばれているそうです。
本成寺(ほんじょうじ)
妙栄山(みょうえいざん)と号する法華宗大本山本能寺の末寺。天正10年(1582)の「本能寺の変」後、同寺の再建に尽力した、本能寺中興日逕(にちきょう)聖人によって、慶長2年(1597)に創建されたのが当寺である。 当初、現在の伏見区上板橋中之町にあったが、その後、寛永13年(1636)、篤信者中村隆運が法華経千部読誦の心願成就を機に、伏見町奉行水野石見守忠貞の協力を得て、現在地に移したものだそうです。
金礼宮(きんさつぐう)
金札宮は伏見で最も古い神社のひとつで祭祀を司る霊験あらたかな天太玉命(白菊翁・白菊大明神)を祀りまた観阿弥の謡曲「金札」や、ご神木で京都市指定天然記念物のクロガネモチの木でも知られ開運と幸運を呼ぶ神社として永く人々の尊崇を集めているそうです。
源空寺(げんくうじ)
宝海山(ほうかいざん)と号する浄土宗の寺。円光大師(法然)の霊場25ヶ所の一つに数えられている。寺伝によれば、建久6年(1195)忍空(にんくう)上人によって、はじめ炭山(すみやま)(宇治市)の地に創建されたが、慶長年間(1596~1615)当地に移された。本堂には、円光大師座像を安置し、二層からなる山門の階下両脇には、石仏六体地蔵、愛染明王像及び朝日大黒天像を祀っている。この大黒天像は、豊臣秀吉の持念仏で、もと伏見城の巽櫓(たつみやぐら)にあったものを、一時京町大黒町に預けられたのち当寺に移されたもので、この経過により、当地はもと新大黒町とも呼ばれていたそうです。
伏見の酒どころを歩きます。
鳥せい本店
鳥と伏見の酒が美味しかったのを思い出します。
カッパカントリー
懐かしのテレビCM、お酒と河童(カッパ)のことなら何でもわかる黄桜記念館だそうです。
竜馬通りを横切ります。
京橋(きょうばし)
橋下の流れは宇治川に注ぎ、淀川に通じている。淀川の水運は、古くは京・大阪を結び、また琵琶湖を経て、遠く東海道・北陸とも連絡する交通上の大動脈であったが、慶長年間(1596~1615)、角倉了以(すみのくらりょうい)が京都市中と伏見との間に高瀬川を開削するに及んで、この付近は旅人や貨物を輸送する船着場として大いに栄えた。淀川を上り下りして貨客を運んだ三十石船や高瀬川を往来した高瀬舟、更に宇治川を下ってきた柴舟(しばぶね)などがこの辺りにひしめき合い、数十軒の船宿も立ち並んで、昼夜の別なく雑踏を極めた。しかし、明治初年、京都・大阪間に鉄道が開通するに至って次第にさびれ、今は往時の盛観は見られないが、ここから東約50メートルの所にある旅館「寺田屋」がわずかに昔の船宿の名残りをとどめているそうです。
伏見港公園(ふしみこうこうえん)
伏見港は、かつて京都府京都市伏見区に存在した河川港。1950年代頃まで、京都と大阪を結ぶ水運の拠点として栄えたそうです。
伏見港公園で昼食休憩になりました。
昼食休憩後、三栖閘門、宇治川堤防を経由して淀駅まで歩きました。
三栖閘門(みすこうもん)
1929(昭和4)年に宇治川の改修を行った際に、宇治川との舟運連絡を図るために設けられた土木構造物。現在では地域のランドマークとなっているそうです。
宇治川堤防を歩きます。
この後、ゴールの淀駅まで歩きました。
淀駅前の広場には河津桜が咲いていました。
ご訪問していただきありがとうございました。
京街道をあるく 1回目(京都) [ウォーキング京街道_熊野街道]
「京街道をあるく 1回目」に参加してきました。(20170124)
伏見の寺田屋
京街道(きょうかいどう)
京街道は大阪の京橋(後に高麗橋)から淀川左岸に沿って進み、淀を経て京都に向かう街道。文禄3年(1594年)に伏見城築造に着手した豊臣秀吉が1596年(文禄5年)2月に毛利一族に命じて淀川左岸に築かせた「文禄堤」が起源だそうです。「京街道をあるく」は京都から大阪まで6回に分けて歩きます。
「西国街道をあるく」京都駅から大阪天満宮までのウォーキングの第1回目。今回はJR京都駅から京阪中書島駅まで歩きました。
当日は晴れ、最高気温5℃。少し肌寒いウォーキングになりました。
集合場所JR京都駅を出発して新宮神社、宇賀神社、鉾立公園を経由して鳥羽離宮跡まで歩きます。
京都駅を出発して南に向かいます。
暫く歩くと新宮神社、宇賀神社、地蔵院があります。
新宮神社(しんぐうじんじゃ)
新宮神社は速玉社(はやたま の やしろ)とも呼ばれ、九条家の屋敷稲荷神。祭神は春日大明神、八幡大菩薩、稲荷大明神、速玉明神(はやたまみょうじん)を祀る。商売繁盛、足止めの神としても知られ、家出人の行方を知り、家に帰らせるとの信仰篤いそうです。
宇賀神社(うがじんじゃ)
東九条の宇賀神社は、旧東九条村唯一の産土神として崇敬されてきた。社伝によれば、京都の神社の中で
最も古い歴史があるそうです。祭神は宇賀魂神(うがのみたまのかみ)、天照大神(あまてらすおおみかみ)を
祀る。商売繁盛、家内息災、学徳成就、芸能上達、交通安全などの信仰を集めるそうです。
地蔵院(じぞういん)
地蔵院からは十条通りを通過して鉾立公園に向かいます。
鉾立公園
近くには任天堂がありました。
鳥羽離宮跡に向かいます。
鳥羽離宮跡(とばりきゅうあと)
伏見区竹田・中島・下鳥羽。平安時代後期に白河・鳥羽・後白河上皇が造営の離宮があり院政を行ったところ。東西1.5キロ、南北1キロの広大な敷地に苑池・各殿舎・堂塔が建ち並んでいたそうです。
鳥羽離宮跡で昼食休憩になりました。
昼食休憩後は城南宮、白河天皇陵、北向山不動尊、改新中央緑地公園、松本酒造、寺田屋を経由して京阪中書島駅まで歩きました。
城南宮(じょうなんぐう)
城南宮は794年の平安京遷都に際し、国常立尊(くにのとこたちのみこと)と八千矛神(やちほこのかみ)と神功皇后(じんぐうこうごう)を祀り、以来都の南方に鎮まり国を守護する城南宮と仰がれているそうです。
城南宮からは白河天皇陵、北向山不動院に向かいます。
白河天皇陵(しらかわてんのうりょう)
白河天皇は、延久4年(1073)に20歳で即位し、翌延久5年(1074)に父の後三条天皇(病気により退位し上皇となっていました)が崩御すると親政を行い、応徳3年(1086)に上皇となって、大治4年(1129)に77歳で崩御するまで、堀河・鳥羽・崇徳三代に渡って院政を敷きます。約56年間に渡って政治の実権を握った天皇(上皇)は極めて稀な存在だそうです。
20
北向山不動院(きたむきふどういん)
北向山不動院は、北向不動、北向のお不動さんとも呼ばれ、江戸時代には「名不動」のひとつとされた。山号は北向山。天台宗の単立寺院、もとは延暦寺末寺。本尊は不動明王。近畿三十六不動尊第22番霊場。願い事祈願、病気平癒、試験合格、良縁祈願、家内安全、厄除けなどの信仰があるそうです。
改新中央緑地公園で休憩したあと、高瀬川沿いを伏見方面に向かいます。
松本酒造(まつもとしゅぞう)
松本酒造は京都府京都市伏見区にある酒造会社。1922年(大正11年)築の本社酒造場は近代化産業遺産の認定を受けているそうです。
伏見であい橋付近
「坂本龍馬とお龍、愛の旅路」の像がありました。
寺田屋(てらだや)
三十石舟が大阪と伏見を往来していた江戸時代に賑わった船宿。坂本龍馬が妻お龍との出会い、襲撃事件の舞台として有名なところだそうです。
冒頭の写真のところです
この後、京阪中書島駅まで歩きました。
京街道は今年の前半のコースになり、後半は熊野街道を南下して行くそうです。出来るだけ参加したいと思っています。
ご訪問していただきありがとうございました。
伏見の寺田屋
京街道(きょうかいどう)
京街道は大阪の京橋(後に高麗橋)から淀川左岸に沿って進み、淀を経て京都に向かう街道。文禄3年(1594年)に伏見城築造に着手した豊臣秀吉が1596年(文禄5年)2月に毛利一族に命じて淀川左岸に築かせた「文禄堤」が起源だそうです。「京街道をあるく」は京都から大阪まで6回に分けて歩きます。
「西国街道をあるく」京都駅から大阪天満宮までのウォーキングの第1回目。今回はJR京都駅から京阪中書島駅まで歩きました。
当日は晴れ、最高気温5℃。少し肌寒いウォーキングになりました。
集合場所JR京都駅を出発して新宮神社、宇賀神社、鉾立公園を経由して鳥羽離宮跡まで歩きます。
京都駅を出発して南に向かいます。
暫く歩くと新宮神社、宇賀神社、地蔵院があります。
新宮神社(しんぐうじんじゃ)
新宮神社は速玉社(はやたま の やしろ)とも呼ばれ、九条家の屋敷稲荷神。祭神は春日大明神、八幡大菩薩、稲荷大明神、速玉明神(はやたまみょうじん)を祀る。商売繁盛、足止めの神としても知られ、家出人の行方を知り、家に帰らせるとの信仰篤いそうです。
宇賀神社(うがじんじゃ)
東九条の宇賀神社は、旧東九条村唯一の産土神として崇敬されてきた。社伝によれば、京都の神社の中で
最も古い歴史があるそうです。祭神は宇賀魂神(うがのみたまのかみ)、天照大神(あまてらすおおみかみ)を
祀る。商売繁盛、家内息災、学徳成就、芸能上達、交通安全などの信仰を集めるそうです。
地蔵院(じぞういん)
地蔵院からは十条通りを通過して鉾立公園に向かいます。
鉾立公園
近くには任天堂がありました。
鳥羽離宮跡に向かいます。
鳥羽離宮跡(とばりきゅうあと)
伏見区竹田・中島・下鳥羽。平安時代後期に白河・鳥羽・後白河上皇が造営の離宮があり院政を行ったところ。東西1.5キロ、南北1キロの広大な敷地に苑池・各殿舎・堂塔が建ち並んでいたそうです。
鳥羽離宮跡で昼食休憩になりました。
昼食休憩後は城南宮、白河天皇陵、北向山不動尊、改新中央緑地公園、松本酒造、寺田屋を経由して京阪中書島駅まで歩きました。
城南宮(じょうなんぐう)
城南宮は794年の平安京遷都に際し、国常立尊(くにのとこたちのみこと)と八千矛神(やちほこのかみ)と神功皇后(じんぐうこうごう)を祀り、以来都の南方に鎮まり国を守護する城南宮と仰がれているそうです。
城南宮からは白河天皇陵、北向山不動院に向かいます。
白河天皇陵(しらかわてんのうりょう)
白河天皇は、延久4年(1073)に20歳で即位し、翌延久5年(1074)に父の後三条天皇(病気により退位し上皇となっていました)が崩御すると親政を行い、応徳3年(1086)に上皇となって、大治4年(1129)に77歳で崩御するまで、堀河・鳥羽・崇徳三代に渡って院政を敷きます。約56年間に渡って政治の実権を握った天皇(上皇)は極めて稀な存在だそうです。
20
北向山不動院(きたむきふどういん)
北向山不動院は、北向不動、北向のお不動さんとも呼ばれ、江戸時代には「名不動」のひとつとされた。山号は北向山。天台宗の単立寺院、もとは延暦寺末寺。本尊は不動明王。近畿三十六不動尊第22番霊場。願い事祈願、病気平癒、試験合格、良縁祈願、家内安全、厄除けなどの信仰があるそうです。
改新中央緑地公園で休憩したあと、高瀬川沿いを伏見方面に向かいます。
松本酒造(まつもとしゅぞう)
松本酒造は京都府京都市伏見区にある酒造会社。1922年(大正11年)築の本社酒造場は近代化産業遺産の認定を受けているそうです。
伏見であい橋付近
「坂本龍馬とお龍、愛の旅路」の像がありました。
寺田屋(てらだや)
三十石舟が大阪と伏見を往来していた江戸時代に賑わった船宿。坂本龍馬が妻お龍との出会い、襲撃事件の舞台として有名なところだそうです。
冒頭の写真のところです
この後、京阪中書島駅まで歩きました。
京街道は今年の前半のコースになり、後半は熊野街道を南下して行くそうです。出来るだけ参加したいと思っています。
ご訪問していただきありがとうございました。