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06.大正区をあるく(大阪24区) [ウォーキング大阪24区]

「大正区をあるく」に参加してきました。(20190312)

小林公園
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大阪大正区の歴史的な街並みを歩いてきました。

当日は曇り、晴れ、最高気温15.0℃。気持ち良いウォーキングになりました。

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集合場所大正駅近くの公園を出発して、上八坂神社、近代紡績工業発祥の地、大正区役所、落合上渡船場、落合下渡船場を経由して小林公園まで歩きます。

大正駅近くの公園
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公園を出発します。
京セラドーム大阪が見えます。
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大浪橋を渡ります。
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上八坂神社に着きました。

上八坂神社(かみやさかじんじゃ)
当神社は、三軒家村の開発の大功労者である中村勘助が、京都市東山区祇園町に鎮座する八坂神社の御分霊を勧請した正保4年9月(西暦1646年)が起源である。社殿は、始め三軒家東2丁目の中央にあたる所に建立されたのが、宝永4年の大津波の水害を被ったため、正徳年間に現在の社地に遷座した。昭和20年3月戦災により社殿は焼失したが、その後昭和32年5月に再建され、平成8年11月御鎮座350年祭を盛大に斎行したそうです。
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近代紡績工業発祥の地(きんだいぼうせきこうぎょうはっしょうのち)
幕末までの紡績は、農家の副業による家内工業にすぎなかった。そのため綿糸の輸入は総輸入額の40%近くを占めていた。そうしたなかで、明治15年、当地で会社組織の紡績工場が発足した。明治19年には夜業用に民間でははじめて電灯を使用したが、3日間夜間工場を公開したところ「ひもランプ」と珍しがられ約5万人がおしかけたそうです。
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大正区役所で少し休憩後、落合上渡船場に向かいます。

千鳥公園を通過します。
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落合上渡船場(おちあいかみとせんじょう)
落合上渡船場は、大正区千島1丁目と西成区北津守四丁目を結ぶ(岸壁間100メートル)。平成29年度現在、1日平均484人が利用しているそうです。
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西成公園を通過して、落合下渡船場に向かいます。
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落合下渡船場(おちあいしもとせんじょう)
落合下渡船場は、大正区平尾一丁目と西成区津守二丁目を結ぶ(岸壁間138メートル)。平成29年度現在、1日平均393人が利用しているそうです。
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小林公園で昼食休憩になりました。
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昼食休憩後、大正内港はしけ桟橋、泉尾公園、京セラドーム大阪を経由してドーム前駅まで歩きました。

大正内港はしけ桟橋(たいしょうないこうはしけさんばし)
大正中期から昭和初期、千島新田と泉尾新田(いずおしんでん)一帯に、運河・貯木場・水路の開削と道路・橋梁・宅地盛土などの開発工事が実施され、材木業者が誘致された。昭和7、8年(1932、1933年)頃には業者数約600戸の木材街が出現し、その木材市場は業界の一大中心地となった。昭和50年(1975年)に現在の原型となる「大正内港はしけ桟橋」が整備され、わずかにその面影をとどめている。貯木場の移転後に整備され多くの船舶が係留されている桟橋の姿は、港らしい景観を作り出しています。
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北村南公園
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泉尾公園
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京セラドーム大阪
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この後、 ドーム前駅まで歩きました。



ご訪問していただきありがとうございました。



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24.中央区をあるく(大阪) [ウォーキング大阪24区]

「中央区をあるく」に参加してきました。(20190212)

御津公園(三角公園)_アメリカ村
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大阪中央区の歴史的な街並みを歩いてきました。

当日は晴れ、最高 気温10.5℃。気持ち良いウォーキングになりました。

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集合場所湊町リバープレイスを出発して、三津寺、御津八幡宮、難波神社、南御堂、坐間神社、サムハラ神社を経由して靭公園まで歩きます。

集合場所の湊町リバープレイス
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道頓堀川沿いのとんぼりリバーウォークを歩きます。
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とんぼりリバーウォークから宗右衛門町を歩きます。

三津寺(みつでら)
真言宗御室派の準別格本山。地元では「みってらさん」「ミナミの観音さん」の通称で親しまれている。摂津国八十八ヶ所第二番霊場、大坂三十三観音札所第三十番札所。本尊は十一面観世音菩薩で秘仏であるが、本尊と同じ姿の石仏が山門を入ってすぐのところに祀られているそうです。
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アメリカ村を通過します。

御津公園(三角公園)(みつこうえん)
関西の若者文化を育てたまち・アメリカ村のランドマークであり、待ち合わせスポットのひとつでもある。戦後、道路敷地のへた地にできた「御津街園」と称されたこの三角スペースは、70年代から脚光を浴びてきた、アメリカ村の発展とともに「三角公園」という呼び名で親しまれている。近年では、若手漫才師らが辺りを闊歩する若者をお客さんに見立て、無償で漫才を披露するのが名物になっている。30年前から公園のまん前に店舗を構え、「網かけマヨネーズ」の元祖となった老舗の「甲賀流のたこ焼き屋さん」もいつも人の列でいっぱい。たこ焼きをつつきながら若手コンビの漫才を聞くのも三角公園ならではのようです。

冒頭の写真のところです。


御津八幡宮(みつはちまんぐう)
御津宮(御津八幡宮)は現在の心斎橋一帯の産土の社。この地は江戸時代初期以来、全国有数の街として発展し、今日ではこの辺り一帯は「ミナミ」と呼ばれ大阪の繁華街を形成しています。境内は約400坪とそう広くはありませんが常時参拝者も多く、今も神社前を東西に伸びる街路は「八幡町通り」と呼ばれ、界隈の人々にとって親しみのある社として現在に至っているそうです。
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四ツ橋を通過します。
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この後、順次、神社仏閣を巡ります。

難波神社(なんばじんじゃ)
創建は5世紀中頃と伝えられていて、彦六座、稲荷文楽座跡としても知られ船場の粋人達が芝居、文楽に興じた場所でもあったそうです。
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南御堂(みなみみどう)
正式名称は東本願寺難波別院。船場商人の信仰の中心とされ、本堂は鎌倉様式の鉄筋建ての建物です。昭和36年に復興されたそうです。
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御堂筋に面している御堂会館は工事中、2019年秋頃竣工予定だそうです。
ネットから引用させていただきました。
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坐間神社(いかすりじんじゃ)
大阪市中心部の船場にある古い神社で、同地の守護神的存在。正式な読み方は「いかすりじんじゃ」、一般には「ざまじんじゃ」と読まれることが多く、地元では「ざまさん」の通称で呼ばれているそうです。
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サムハラ神社(さむはらじんじゃ)
サムハラという言葉の語源はチベットで古くから使われている「シャンバラ」という言葉が元になっているとされ、幸福についての維持や収集、平和といった言葉が秘められている。また特別な気のエネルギーを感じられるとされており、合気道の守護神としても崇められているそうです。
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靭公園で昼食休憩になりました。
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昼食休憩後、御霊神社、少彦名神社、五代友厚公碑、八軒屋浜、五代友厚銅像を経由して大阪城梅林まで歩きました。


御霊神社(みたまじんじゃ)
当神社は八百年代後半の創建。古来大阪市の船場、中之島、土佐堀、江戸堀、京町堀、阿波堀、阿波座、薩摩堀及び立売堀、長掘の西部、南北堀江の西部等旧摂津国津村郷の産土神として信仰の中心になっていたそうです。
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少彦名神社(すくなひこなじんじゃ)
祭神は薬・医療・温泉・国土開発・醸造・交易の神であるが、少彦名神社では、薬の神として健康増進、交易の神として商売繁盛の神徳があるとされている。医薬にゆかりのある祭神を祀っていることから、医薬業に携わる会社・関係者などの信仰を集めている。また、病気平癒・健康祈願や医薬業関連の資格試験合格を願う参詣者も多い。近年ではペットの病気平癒・健康祈願に参拝する人も多い。伊勢講から始まった神社でもあるため、伊勢神宮のお札を求める参拝者で正月は賑わうそうです。
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この後、五代友厚さんの銅像などを巡った(後述)後、大阪城梅林まで歩きました。
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大阪城梅林(おおさかじょうばいりん)
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五代友厚さんの銅像めぐり

大阪取引所、光世証券、大阪商工会議所横、大阪企業家ミュージアムの銅像などをめぐりました。

当日は大阪企業家ミュージアム、大阪取引所を巡る「大阪の恩人『五代友厚』スタンプラリー2019」が実施されていました。

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五代友厚(ごだいともあつ)
薩摩藩士の次男として生まれた五代友厚。藩校の造士館や長崎で学び、上海への渡航や薩英戦争を経験した後、1865(慶応元)年から翌年にかけて、薩摩藩の留学生とともにイギリスほかヨーロッパ各国を巡りました。明治維新となった1868(明治元)年、政府の外国事務局判事や大阪府権判事、会計官権判事などに任じられ、大阪に赴任しました。 この時、大阪に造幣寮(現・造幣局)を設立しています。翌年、政府の役人を退官。大阪で実業の世界に入り、以後、鉱山、紡績、製塩、海運、鉄道など数多くの事業に携わったほか、大阪株式取引所(現・大阪取引所)や大阪商法会議所(現・大阪商工会議所、初代会頭)、大阪商業講習所(現・大阪市立大学)などの設立にも関与し、大阪の産業・経済の発展に力を尽しました。この業績から、「東の渋沢栄一、西の五代友厚」とも称されているそうです。

大阪取引所前の五代友厚像
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光世証券の五代友厚像
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大阪商工会議所横の五代友厚像
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大阪企業家ミュージアム
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五代友厚の胸像が設置されています。
撮影禁止のため写真はありません。


ご訪問していただきありがとうございました。



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23.北区をあるく(大阪) [ウォーキング大阪24区]

「北区をあるく」に参加してきました。(20190108)

中央公会堂
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大阪北区の歴史的な街並みを歩いてきました。

当日は晴れ、最高気温11.9℃。気持ち良いウォーキングになりました。

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集合場所大阪天満宮を出発して、天満別院、中央公会堂、露天神社、太融寺、綱敷天神社を経由して扇町公園まで歩きます。

集合場所の大阪天満宮

大阪天満宮(おおさかてんまんぐう)
菅原道真を主神に猿田彦命ほかを祭る。正門は弘化2年(1845年)に建てられたもので、境内には見るべきものが多く、天満の天神さんと親しまれています。天神祭は日本三大祭の一つで、中でも船渡御は圧巻だそうです。
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大阪天満宮を出発して、直ぐに天満別院に着きました。

天満別院(てんまべついん)
東本願寺派の別院で、もともと本願寺の総本山だそうです。
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この後、中之島公園、中央公会堂に向かいます。

中之島公園で少し休憩になりました。

中央公会堂
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今回は中央公会堂の中を見学させていただきました。


大阪市役所の西側を歩いて堂島川から北新地を歩きます。

大阪市役所
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堂島川を渡ります。
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北新地を通り抜けて梅新を通過します。
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露天神社に着きました。

露天神社(つゆのてんじんしゃ)
名前の由来は、祭神の菅原道真が太宰府に左遷される時にここを通過し偲び泣きしたため、または梅雨のころ社前の井戸から水が湧き出たためといわれています。元禄十六年(1703年)に実際にこの神社であった心中事件を元に、近松門左衛門が創作した浄瑠璃「曾根崎心中」が一躍有名になり、主人公のお初にちなんで「お初天神」と呼ばれるようになったそうです。
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太融寺、綱天神社から扇町公園に向かいます。

太融寺(たいゆうじ)
光源氏のモデルともいわれている源融(みなもとのとおる)の名をとって寺名にしたとか。かつての寺域は「北野の太融寺か、太融寺の北野か」といわれるほど広大でした。境内には淀君の墓や芭蕉の句碑など数々の史跡があるそうです。
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綱敷天神社(つなしきてんじんしゃ)
菅原道真が船綱を円座にして敷き梅を鑑賞したという、通称北野天神だそうです。
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扇町公園で昼食休憩になりました。
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昼食休憩後、豊崎神社、毛馬閘門、長柄国分寺を経由して天神橋筋6丁目駅まで歩きました。

天五中崎通商店街を歩きます。
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豊崎神社(とよさきじんじゃ)
都を飛鳥から難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや)に移した孝徳天皇を祀る神社。大化の改新の詔は長柄豊碕宮で宣言されたといわれているそうです。
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淀川堤防を歩きます。
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日本水仙が咲いていました。
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淀川大堰(よどがわおおぜき)
国土交通省近畿地方整備局と独立行政法人水資源機構が共同で管理を行う可動堰。1964年に完成した長柄可動堰を改造して1983年に完成した淀川最下流にある河川施設。大阪府と兵庫県への上水道と工業用水道供給を目的にしているそうです。
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毛馬閘門(けまこうもん)
明治の淀川改修工事では、橋の鉄橋化や長柄運河の開さくなど一連の工事が進められました。旧淀川(大川)に流下する水量の調節のために設けられたのが毛馬の洗堰で、船の航行の水位調節のために設けられたのが毛馬の閘門です。昭和49年の新水門完成と昭和51年の新閘門開通を機にそれぞれ引退し、現在は3門の旧洗堰と第1・第2旧閘門が保存されているそうです。
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長柄国分寺(ながらこくぶんじ)
聖武天皇の命により「長柄寺」から国分寺となったそうです。
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この後、天神橋筋6丁目まで歩きました。
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ご訪問していただきありがとうございました。




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22.平野区をあるく(大阪) [ウォーキング大阪24区]

「平野区をあるく」に参加してきました。(20181225)

大念仏寺
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大阪平野区の歴史的な街並みを歩いてきました。

当日は晴れ、最高気温12.3℃。気持ち良いウォーキングになりました。


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集合場所長吉東部中央公園を出発して、志紀長吉神社、川辺八幡神社、小松神社、敬正寺、瓜破天神社を経由して瓜破霊園まで歩きます。



集合場所の長吉東部中央公園を出発して志紀長吉神社に向かいます。
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志紀長吉神社(しきながよしじんじゃ)
延喜式内の神社で祭神は長江襲津彦命、事代主命の二座である。明治5年に旧郷社に列せられたころは、旧長吉、瓜破、恵我、大正、藤井寺の各村の総氏神であったが、現在は長吉一円の氏神である。大坂夏の陣のとき、豊臣方の武将真田幸村がこの神社に刀剣と軍旗を奉納して戦勝を祈願したと伝えられ、刀剣は第2次世界大戦後、占領軍の命令で没収されたが、軍旗は今も神社に保存されている。麻布で、「真田の六文銭」がくっきりと描かれているそうです。
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気持ち良い佇まいの街並みを歩きます。
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川辺八幡神社(かわなべはちまんじんじゃ)
創建の年月不詳であるが、石清水八幡宮の分霊を勧請したものと伝わる。往時は、社殿も壮大で社領も広く、いまの境外地字垣添の全部を包容し、社領も4町歩以上におよんだが、1704年の大和川付け替え工事よって立ち退きを余儀なくされ、社領地の大部分がその川床となった。明治5年村社に指定された。境内の楠の木には黒い龍が宿るという伝承があり、推定樹齢300年以上で大阪市の保存樹に指定されている。また、毎年9月の秋祭には大和川に御輿を担ぎ入れる「足洗い」神事に併せて仕掛け花火と打上げ花火が行なわれ、秋の川面を彩るそうです。
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大和川の堤防を歩きます。
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川辺大和川公園で少し休憩後、瓜破霊園に向かいます。

小松神社( こまつじんじゃ)
「瓜破の古書「船戸録」によると、この地に源氏の武士権守宗重の一子で湯浅七郎兵衛宗光という人が住んでいた。この宗光が安元の戦いの際、平重盛に危い命を助けられたことがあった。その後、平重盛は紀州の熊野浦に入水してこの世を去った。このことを知った宗光は報恩のため自己所有の土地を寄進し、社殿を建て、その霊を祀り小松大明神と名付けられた。その後、小松大明神は本郷の氏神さまとして郷民たちの信仰を集めるようになった。元来、この神社は当地の南西方向に位置していたが鉄道敷にかかったため天神社に合祀されていたものを、南之町の有志によりこの地に社を昭和22年に建立し、祀ることにされたそうです。
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敬正寺(きょうしょうじ)
大化年間(645~649年)道昭法師により創建された永楽寺の遺跡といわれ、永楽寺の本尊五智如来(五輪仏)のうち2体の石像が安置されている。右側の大きい方が大日如来で、左側が阿弥陀如来である。豊かな頬をして落ち着いた像容から、制作年代は平安後期までさかのぼるものと推定されている。大日如来には生駒山の花崗岩、阿弥陀如来は二上山の安山岩が用いられており、府の有形文化財に指定されているそうです。
(写真はネットから引用させていただきました)
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瓜破天神社(うりわりてんじんじゃ)
僧道昭がこの地で修行中天神の霊像が出現した。そこで瓜を割って供えたが、この伝承が瓜破という地名の起源のひとつといわれている。道昭は、当地の出身と伝えられ白雉4年(653年)遣唐使に従って入唐し、玄弉三蔵の教えを受け、帰国後諸国を遍歴して庶民に慕われたことが、続日本紀にみられるそうです。
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瓜破霊園で昼食休憩になりました。


昼食休憩後、八坂神社、如願寺、楯原神社、平野公園、全興寺、長實寺、大念仏寺を経由して地下鉄平野駅まで歩きました。

八坂神社(やさかじんじゃ)
東喜連村の氏神で素盞鳴尊を祀り、八坂神社と称していたが、嘉永年間に忍坂大中姫命(允恭天皇の皇后)を祀る媛天神を合祀して東西神社となった。改称は、合祀により氏子が東西喜連村にまたがることになったので、東西の二字をとった。明治42年12月、天神・東西・春日の三社は現在の楯原神社に合祀されていたが、氏子の決議にもとづき再び八坂神社とした。昭和26年7月、東喜連氏子の要望により、東西社・春日社を元の東喜連に分離移転し、同時に地域の氏子も別れることとなったそうです。
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如願寺(にょがんじ)
崇峻天皇元年(588年)聖徳太子の創建として、もと喜連寺といわれた。阿弥陀寺・弥勒寺など四方に荘厳な諸堂が建てられた大伽藍であったがその後、弘法大師により再建、如願寺と改められた。本尊聖観世音菩薩は平安時代の作で、大阪府有形文化財に指定されており、摂津国三十三所観音霊場の第三十二番札所でもあるそうです。
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楯原神社は如願寺の横にありました。


楯原神社(たてはらじんじゃ)
神社の歴史はきわめて古く、崇神天皇の頃初めて祀られたといわれる延喜式内の古社であり、祭神は武甕槌大神と大国主大神である。また、神武天皇が国内平定に用いられた十握の劒を祀ったと社伝にある。もと、字楯原(現在の喜連西1)にあったが、兵火にあい現在の地に移ったそうです。
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平野公園で少し休憩になりました。
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この後、大念仏寺に向かいます。

全興寺(せんこうじ)
平野がまだ広々とした野であったころ、ここに薬師堂が建てられ、そこを中心に人が住みはじめ、平野の町がしだいに広がっていったといわれる。本尊は薬師如来で、聖徳太子の作と伝えられている。また、当寺には、真田幸村が樋之尻口の地蔵堂に仕掛けた地雷によって飛来したという伝説をもつ「首の地蔵尊」や湛慶作と伝えられる「太子の像」がある。境内には、「地獄堂」や「水琴窟」「駄菓子屋さん博物館」もあり、見どころが多いそうです。
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長宝寺(ちょうほうじ)
桓武天皇の妃であった坂上春子姫が、平安時代初めの大同年間(806~810年)に出家して開いた高野山真言宗の寺院であり、坂上家の氏寺でもあります。境内の銅鐘は鎌倉時代の代表的な作で重要文化財に指定されています。また、室町時代に当寺の慶心と言う尼さんが地獄へ行って戻り、その様子を記した「よみかえりの草紙」や閻魔王が自ら刻んだという閻魔像と「宝印」が寺に伝わり、毎年5月18日のご開帳の時、おでこに閻魔様の「宝印」を押してもらえば極楽へ行けると伝えられているそうです。
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大念仏寺(だいねんぶつじ)
融通念仏宗の総本山で、大治2年(1127年) 聖応大師(良忍上人)が建立したものである。当寺には国宝「毛詩鄭箋残巻」、重要文化財「融通念仏勘進帳」等があり、総本山特別行事として1・5・9月のそれぞれ16日に百万遍会(大数珠くり)、5月1日~5日の阿弥陀経万部会(万部おねり)はことに有名である。また、本堂は、木造の建物では大阪府下最大だそうです。
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この後、地下鉄平野駅まで歩きました。





今回が今年最後のウォーキング記録になります。
一年間ありがとうございました。

どうぞ、良いお年をお迎えください。 来年もよろしくお願いいたします。


ご訪問していただきありがとうございました。



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17.東住吉区をあるく(大阪) [ウォーキング大阪24区]

「東住吉区をあるく」に参加してきました。(20181211)

長居公園
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大阪東住吉区の歴史的な街並みを歩いてきました。

当日は晴れ、曇り、最高気温11.4℃。気持ち良いウォーキングになりました。


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集合場所長居公園を出発して、行基の墓、矢田教育の森公園、阿麻美許曾神社、常栄寺、中臣須牟地神社 を経由して喜連西中央公園まで歩きます。

長居公園を出発します。
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行基の墓を通過します。

行基の墓(ぎょうきのはか)
公園南矢田の共同墓地内にある行基菩薩の墓。有名な生駒竹林寺墓所や往生院火葬場跡は歴史学的に確認できますので、この墓は単なる「供養墓」だと考えられているそうです。
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矢田教育の森公園に着きました。
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暫く休憩後、大和川に架かる行基大橋を渡ります。

この辺りは大和川の南側も大阪市になります。

阿麻美許曾神社(あまみこそじんじゃ)
祭神素盞嗚命(すさのおのみこと)ほか。大和川の南へくい込んだ市域南端にあり、大同年間(806~10)の創建というが不詳。境内地は広く、大樹が多く残る。かつて行基(ぎょうき)がこの地に住み、住民に便宜を与えたと伝えられている。付近の大和川にかかる「行基大橋」の橋名は、この伝えによっているそうです。
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再び、大和川を渡ります。

大和川堤防を歩きます。
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常栄寺(じょうえいじ)
この寺は天正9年(1581年)に浄土真宗の寺院として開基。徳川家康の政策により、本願寺が西本願寺と東本願寺に分裂した1602年に教如が率いる東本願寺に属したそうです。
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中臣須牟地神社(なかとみすむちじんじゃ)
中臣須牢地神社は、延喜式内(えんぎしきない)の古社であるが創建不詳。祭神は須牢地神、住吉三神ほか。中臣氏(藤原鎌足(かまたり)・不比等(ふひと)らがいる)の祖先を祭り、難波において王権のもと、最も古くから行われてきた八十島(やそじま)祭に関係したそうです。
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喜連西中央公園に向かいます。
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喜連西中央公園
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喜連西中央公園で昼食休憩になりました。


昼食休憩後、覚林寺、湯里住吉神社、中井神社、天神社旅所碑、京善寺、桑津天神社、榎神社を経由して文の里駅まで歩きました。


覚林寺(かくりんじ)
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湯里住吉神社(ゆざとすみよしじんじゃ)
信長の焼討(1577~1580)や大坂冬の陣(1614)と夏の陣(1615)の兵火に遭い、社殿や社記を全て焼失して、神社由緒がわからなくなったそうです。当社は初めは須牟地神社と呼ばれ、その後、住吉二之宮、湯屋島(湯谷島)住吉との社名を経て、現在は湯里住吉神社と呼ばれているそうです。
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中井神社(なかいじんじゃ)
中井神社は、三代実録(西暦901年)という書物に摂津の国「田辺東神(ひがしかみ)」と記されていて、古くは、ご祭神にちなんで「牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)とよばれていました。その昔、社前に、清水の湧く井戸があり、人々は、「汚れ(けがれ)のない霊水」としてたいせつにしていたので、中野村の井戸の有るところのお社として、明治時代の初めに中井神社と改められたそうです。(中井神社発行の神社暦による) 中井神社の東神に対し西神が山阪神社といわれているそうです。
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今川緑道を歩いて今川公園に向かいます。
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今川公園
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暫く休憩後、榎神社まで歩きます。

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天神社旅所碑を通過します。
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京善寺(きょうぜんじ)
当山の縁起は、古くは「金剛院」と称せられ厄除祈願道場として栄えていたが、1615年(元和元年)大坂夏の陣に合戦の場となり、兵火で寺は焼失したため、詳細は不明とのこと。この時期、寺は荒廃したが、1653年(承応2年)桑津村の篤信者富井部氏などの霊夢に不動明王が出現され、寺の再興を告げられたため、紀州より観弘実誉阿闍梨を招き堂宇を再興、寺号を心王山殊勝院京善寺と改めた。紀州根来寺の不動明王と同木同作(興教大師の作と伝えられる)の不動明王を勧請し本尊とした。以来、「身代り厄除け不動」「くわづ不動」として多くの人々の信仰を集め、現在に至っているそうです。
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桑津天神社(くわづてんじんじゃ)
「日本書記」によると応神天皇(4世紀)の頃、日向の国から美女の誉高い、髪長媛(かみながひめ) を召され桑津の地に住まわせたと記される。媛はのちに仁徳天皇の妃となられた。髪長媛は桑津天神社に奉祀される以前は、明治6年廃寺となった金蓮寺が髪長媛の宮跡であった関係で、境内の八幡宮に奉祀されています。また桑津天神社には少彦名命(すくなひこなのみこと)も祀られているが、これは髪長媛の病気祈願のため医薬の祖神である少彦名命が祀られたとの伝えによっているそうです。
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榎神社(えのきじんじゃ)
現在地に樹齢800有余年を数える榎の大木があり、土地の人々がこの木をご神体として社殿をつくり、年々参詣者も増加したので、昭和27年4月に宗教法人となり、翌28年に拝殿と社務所を新設した極めて新しい由緒の神社だそうです。 
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この後、文の里駅まで歩きました。



ご訪問していただきありがとうございました。




nice!(46) 

16.住吉区をあるく(大阪) [ウォーキング大阪24区]

「住吉区をあるく」に参加してきました。(20181127)

大和川堤防
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大阪住吉区の歴史的な街並みを歩いてきました。

当日は曇り、晴れ、最高気温20.2℃。気持ち良いウォーキングになりました。

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集合場所住吉大社を出発して、一運寺、生根神社、東福寺、住吉行宮跡、極楽寺、安楽寺、五代友厚像を経由して浅香中央公園まで歩きます。

集合場所の住吉大社。有名な太鼓橋です。
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住吉大社を出発します。

住吉大社(すみよしたいしゃ)
全国に約2,300社ある住吉神社の総本社。下関の住吉神社、博多の住吉神社とともに日本三大住吉の一社。また、毎年初詣の参拝者の多さでも全国的に有名。四棟の本殿は国宝に指定されているそうです。
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直ぐに、一運寺に着きました。

一運寺(いちうんじ)
一運寺は聖徳太子の創建で、天正14年(1586)に本誉存寧が再興し、寛永8年(1631)に広誉龍哲が本堂を再建した。最澄や空海も説法を行ったと言われている由緒正しい寺です。境内には、赤穂浪士である大石義雄 (大石内蔵助=おおいしくらのすけ)・主税父子、寺坂吉右衛門の墓があることで有名です。これは、赤穂浪士を資金面で援助した大阪商人・天野屋利兵衛の子孫が建てたものです。
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生根神社が近くにあります。

生根神社(いくねじんじゃ)
創建時期は不詳。一帯は住吉大社の神領であったことから、住吉大社摂社であった生根神社(奥の天神。現在は住吉大社から)から、少彦名神の分霊を勧請して玉出の産土神としたのに始まると伝えられているそうです。
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阪堺電車の横を歩きます。

迫力ありました。
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東福寺(とうふくじ)を通過します。

住吉行宮跡に着きました。

住吉行宮跡(すみよしあんぐうあと)
南朝の後村上天皇は、正平6年(1351)、北朝を奉じる足利義詮が降伏を申し出たので、翌年奈良県賀名生から住吉大社宮司津守国夏邸内の正印殿に移り、ここを行宮(行幸時の仮の宮居)とした。そのうち義詮は勢力をもり返して天皇の軍は敗れ、ふたたび賀名生に戻りました。後村上天皇はその後、たびたび行幸されましたが、ついに京都奪還はならず正平23年(1368)3月11日、41歳でこの地で亡くなられた。つぎの長慶天皇が即位されたのもこの地だそうです。
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熊野街道に沿って極楽寺に向かいます。
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極楽寺(ごくらくじ)
創建年は不祥。本尊毘沙門天はここから南に広がっていた榎津庄(奈良~平安期に見られる郷)にあった寺のものと伝えられている。境内には大きな一基の毘沙門天石灯籠がある。表面の磨滅は甚だしいが、建武3年(1336)丙子3月の銘があり、重要文化財に指定。一説によると当寺に祈願して誕生した楠木正成の寄進と伝えられているそうです。
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安楽寺が向かいにあります。

安楽寺(あんらくじ)
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遠里小野南公園で休憩した後、大阪市立大学にある五代友厚像に向かいます。

大和川河川敷を歩きます。
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JR杉本町に向かいます。
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大阪市立大学の中央を横切る道路
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五代友厚像(ごだい ともあつぞう)
五代 友厚は、江戸時代末期から明治時代中期にかけての日本の武士(薩摩藩士)、実業家。薩摩国鹿児島城下長田町城ヶ谷(現鹿児島市長田町)生まれ。大阪経済界の重鎮の一人。当時、「まさに瓦解に及ばんとする萌し」(五代)のあった大阪経済を立て直すために、商工業の組織化、信用秩序の再構築を図ったそうです。
五代友厚像は、今回訪れた大阪市立大学(2016年3月完成)の他にも、北浜の大阪取引所前、光世証券前、本町の大阪商工会議所前、大阪市立大阪ビジネスフロンティア高校(非公開)、大阪企業家ミュージアムにもあるそうです。(計6個)
2016年3月の除幕式にはNHK連続テレビ小説「あさが来た」で五代を演じた俳優、ディーン・フジオカさんも出席されたそうです。
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浅香中央公園に着きました。
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浅香中央公園で昼食休憩になりました。


昼食休憩後、大依羅神社、あびこ観音寺を経由してあびこ駅まで歩きました。

公園を出発します。
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大依羅神社(おおよさみ じんじゃ)
祭神は、依羅吾彦の祖先である建豊波豆羅和気王を主神として合祀。依羅吾彦は、14代仲哀天皇に従って「熊襲征伐」に出かけたこともあり、この地に住んで豪族となる。日本書紀によると、当神社は広大で、依羅氏が代々神主となっていたが、南北朝の戦乱により依羅氏が滅び、社殿も焼失。現在の本殿の西北側にある古井戸は「庭井の清水」と呼ばれ、庭井の地名もこの伝説によるといわれているそうです。
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あびこ観音寺(あびこかんのんじ)
観音霊場として名高い古刹。推古天皇14年(606年)、聖徳太子がこの地を訪れ、伽藍建立せよと仰せられたことがはじまりと伝えられている。戦乱の時代、大坂夏の陣で徳川家康が真田軍勢に追われた際に、辛くもこの寺にかくまわれ、観音様のご加護で九死に一生を得たとも言われている。毎年、節分には護摩焚きが執行され、多くの人で賑わうそうです。
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この後、あびこ駅まで歩きました。


Niceボタンをクローズさせていただきました。



ご訪問していただきありがとうございました。




15.阿倍野区をあるく(大阪) [ウォーキング大阪24区]

「阿倍野区をあるく」に参加してきました。(20181113)


松虫通り近く
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大阪阿倍野区の歴史的な街並みを歩いてきました。

当日は曇り、最高気温18.5℃。気持ち良いウォーキングになりました。

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集合場所南田辺駅近くの公園を出発して、山阪神社、法楽寺、桃ケ池公園、股ケ池明神を経由して万代池公園 まで歩きます。

南田辺駅近くの公園
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公園を出発します。
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直ぐに山阪神社に着きました。

山阪神社(やまさかじんじゃ)
神社創建の時期は不明ですが、主祭神は天穂日命(アマノホヒノミコト)。野見宿禰命(ノミノスクネノミコト)も祀っています。田辺氏と同系の土師氏の祖先神が野見宿禰命で、天穂日尊の子孫とされていることに因んでいるとも思われます。三代実録の「清和帝貞観(ジョウガン)4年(862)8月11日条田辺西神、田辺東神に従五位を授けた」ことが記録されており、田辺西神は当社を、東神は中井神社を示すものとされているそうです。
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法楽寺(ほうらくじ)
真言宗泉涌寺派大本山紫金山小松院法楽寺(田辺不動尊)が正しい名称で、昔から「田辺のお不動さん」の名で親しまれています。 「小松院」とあるように、平重盛(小松殿)の創建で、保元や平治の乱で戦死した兵士の霊を敵味方の区別なく葬りたいとする重盛の厚い信仰心から建造されたとする説と、この寺を基点として河内源氏の動静を重盛が探ったとする説とがあるそうです。
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桃ケ池公園に着きました。
少し休憩になりました。
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股ケ池明神(ももがいけみょうじん)
桃ヶ池にまつわる伝説として、「桃ヶ池に棲んでいた大蛇を聖徳太子が退治した」という内容が伝えられている。その際、股ヶ池浮島に穴を掘り大蛇の死体を埋葬したが、その後も怪異が続くというので霊を沈めるため「おろち塚」が作られ、昭和初期まで残っていたとされる。桃ヶ池公園に隣接して設置されている「股ヶ池明神」は、天明年間(1780年代)に角田某という人物が、夢に出た蛇霊を奉るために、おろち塚の北一丁の位置に丸高竜王、丸長竜王として祭ったことが起源と伝わる。これら伝承を信じるならば、おろち塚は股ヶ池明神の南に109m(1丁=60間=109m)にあったということになる。おろち塚の位置=埋葬した浮島かははっきりしないが、現在地元で「蛇島」と呼ばれている中央の島がその場である可能性がある。股ヶ池明神は神仏習合の様相を色濃く残す神社であり、不動明王や地蔵菩薩、さらには内部には聖徳太子、弘法大師も祀られている。 地下の不動明王が祀られている箇所は上部より水が流れ落ちる構造が作られており、小規模ながら滝行のようなものが過去行われていた様子がある。神社本庁には属する正式な神社ではなく、地域住民により維持管理されてきているそうです。
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万代池公園に向かいます。
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万代池公園で昼食休憩になりました。
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昼食休憩後、岸の姫松・五本松、天下茶屋遊園地跡、安倍晴明神社、阿倍王子神社、聖天山公園、慈母観音を経由して天王寺駅まで歩きました。

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岸の姫松・五本松(きしのひめまつ・ごほんまつ)
かつて紀州街道沿いは白砂青松の景勝地でした。住吉高校グラウンドに沿って残された松は、
その名残で「岸の姫松(五本松)」と呼ばれています。これは江戸時代後期の『住吉名勝図会』(寛政₇年〔1795〕刊)にも描かれて、浪華名物だったそうです。
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天下茶屋遊園地跡(てんがちゃやゆうえんちあと)
このあたりには明治時代「天下茶屋遊園地」があったそうです。遊園地といっても現代の言葉で連想するような「ジェットコースターなど大がかりな遊具が設置されている娯楽施設」のことではなく、明治時代の「遊園地」という言葉は、現代の言葉でいうところの「公園」の意味のようです。1892年頃から当地の開発がおこなわれ、1894年に公園ができました。周辺の宅地開発に合わせて公園も計画に配置。この地にあった鯨池という名前の池の周りに、料亭や茶室を配置していたとのこと。1909年は、夏目漱石もこの地を訪れたそうです。
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安倍晴明神社(あべせいめいじんじゃ)
阿倍王子神社が管理する末社で、創建は没後2年の寛弘4年(1007年)。現在の社殿は大正10年に晴明公の子孫と称する保田家が旧社地を寄進、大正14年に完成。阿倍野区阿倍野で生まれたといわれる平安時代の陰陽師・安倍晴明を祀る神社だそうです。
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阿倍王子神社(あべおうじじんじゃ)
阿倍王子神社は大阪府大阪市阿倍野区にある神社。かつては阿倍王子(あべのおうじ)といい熊野神社の分霊社である九十九王子のひとつであったそうです。
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聖天山公園で休憩になりました。
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慈母観音(じぼかんのん)
慈母観音は地域に貢献されながらも、身内にも見取られないまま亡くなられた多くの霊を供養し、苦労を決して無駄にしないように、地域が一丸となって奉って行きたいと思い建てられたものだそうです。
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この後、天王寺駅まで歩きました。
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ご訪問していただきありがとうございました。



nice!(45) 

18.西成区をあるく(大阪) [ウォーキング大阪24区]

「西成区をあるく」に参加してきました。(20181023)

天神ノ森天満宮
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大阪西成区の歴史的な街並みを歩いてきました。

当日は曇り、雨、最高気温20.1℃。渡し船に乗るなど楽しいウォーキングになりました。

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集合場所天下茶屋駅近くの広場を出発して、敷津松之宮御旅所、西成区役所、安養寺、天神ノ森天満宮、阿部野神社、生根神社を経由して玉出西公園まで歩きます。

天下茶屋駅近くの広場を出発します。
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暫く歩くと敷津松之宮御旅所に着きました。

敷津松之宮御旅所(しきつまつのみやおたびしょ)
浪速区にある敷津松之宮神社の御旅所。同神社の由緒略記によれば、神功皇后が武内宿彌(たけのうちのすくね)を従え敷津浜を航行中、松の木3本を植えて航行の安全を祈願したのが起源で、はじめは松本の宮といい、明治維新の頃は八坂神社と称したそうです。
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西天下茶屋駅を通過します。
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西成区役所に着きました。
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暫く、休憩になりました。

この後、天神ノ森天満宮、阿部野神社などに向かいます。

天下茶屋公園に着きました。
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東側に安養寺があります。

安養寺(あんようじ)
浄土宗知恩院派一心寺の末寺、本尊は阿弥陀仏、元禄2年(1689)3月貞誉清薫尼の創建。明治20年の失火と昭和20年の戦災で2度焼失し、現在の寺は昭和34年再建のものである。境内には、紙治おさん、猪名川、佐藤魚丸の墓があるそうです。
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天神ノ森天満宮(てんじんのもりてんまんぐう)
室町時代末期の茶匠・武野紹鴎が当地の森林に湧く泉水を愛し、歳月を送った所で、その水は太閤さんも「恵水」と名づけて褒めたたえました。社は北野天満宮の分霊を勧請し、菅原道真公をまつり、子安天満宮ともいわれる。これは社殿東側に子安石と称す霊石があり、安産のご利益があるとして参拝者でにぎわった。太閤さんも淀君懐妊のとき、住吉大社参拝の途中、安産祈願したと伝えられるそうです。
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本殿は冒頭の写真です。


阿部野神社(あべのじんじゃ)
阿部野神社は南北朝時代、北畠顕家(あきいえ)と足利軍が戦った古戦場跡地に1882年(明治15年)創建され、北畠親房(ちかふさ)、顕家父子が祀られているそうです。
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生根神社に向かいます。

途中で阪堺電車を見かけました。
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生根神社(いくねじんじゃ)
創建時期は不詳。一帯は住吉大社の神領であったことから、住吉大社摂社であった生根神社(奥の天神。現在は住吉大社から)から、少彦名神の分霊を勧請して玉出の産土神としたのに始まると伝えられているそうです。
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玉出西公園に着きました。
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玉出西公園で昼食休憩になりました。

昼食休憩後、千本松渡し、木津川飛行場跡の碑、新木津川大橋を経由して北加賀屋駅まで歩きました。

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千本松渡し(せんぼんまつわたし)
大正区南恩加島1丁目と西成区南津守二丁目を結ぶ(岸壁間230メートル)。このあたりは木津川の川尻に近く、江戸時代には諸国廻船の出入りの激しいところであった。幕府は、舟運の安全のため水深を確保し、また防波堤のとしても役立つよう、天保3年(1832)ここに大規模な石の堤を築いた。千本松の名は、この堤防の上に植えられた松並木に由来する。「摂津名所図会大成」に「右塘(つつみ)に数株の松を植列ぬるゆえに俗に木津川の千本松といふ洋々たる蒼海に築出せし松原の風景は彼の名に高き天橋立三保の松原などもほかならず覚ゆ・・・」と述べている。千本松の渡しが設けられた年代ははっきりしないが、大正時代の中頃に初めて設けられたものと思われる。昭和48年に千本松大橋が完成し、それとともに渡しは廃止されることになっていたが、地元住民の強い要望によって存続することになり、現在も通勤通学の貴重な足として利用されている。平成29年度現在1日平均約973人が利用しているそうです。
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渡船が近づいてきました。
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渡り終えた後、木津川飛行場跡の碑、新木津川大橋に向かいます。
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木津川飛行場跡の碑(きづがわひこうじょうあとのひ)
我が国最初期の本格的な民間飛行場で、昭和4年には東京-大阪-福岡を結ぶ定期旅客便の運行が開始され、近代大阪の玄関口として重要な役割を果たしたそうです。
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新木津川大橋(しんきづがわおおはし)
大阪市大正区船町1丁目と大阪市住之江区柴谷2丁目の間の木津川に架かるアーチ橋。大阪市南西部に環状道路網を形成し、流通をスムーズにする目的で架設された。1994年に完成。中央部の橋長は495m、中央部のスパンは305m、総延長は2.4km、幅員は11.25m。アーチ橋としては完成当時日本最長で、また世界でも14位の規模を誇ったそうです。
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新木津川大橋から綺麗な景色が見渡せました。
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この後、北加賀屋駅まで歩きました。
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Niceボタンをクローズさせていただきました。

ご訪問していただきありがとうございました。



21.住之江区をあるく(大阪) [ウォーキング大阪24区]

「21.住之江区をあるく」に参加してきました。(20181009)

ATC
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大阪住之江区の南港、シーサイドなどを歩いてきました。

当日は晴れ、最高気温27.5℃。素晴らしい天気の中の清々しいウォーキングになりました。

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集合場所コスモスクエア駅を出発して、咲洲キャナル、なにわの海の時空館、南港野鳥園を経由してATCまで歩きます。

コスモスクエア駅近くから見た景色、遠方に舞洲が見えます。
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コスモスクエア駅を出発してシーサイドコスモを歩きます。
この辺りは魚釣り開放区域になっています。
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人工の運河である咲洲キャナル沿いを歩きます。

咲洲キャナル(さきしまきゃなる)
コスモスクエア内を流れる人工運河。運河沿いには遊歩道が整備されており、水に親しめる空間が広がっていました。
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咲洲キャナルを通過してなにわの海の時空館に着きました。

なにわの海の時空館(なにわのうみのじくうかん)
大阪湾に浮かぶ巨大な半球は住之江区のなにわの海の時空館。残念ながら、2013年03月に閉館になったそうです。
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南港野鳥園に向かいます。
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南港野鳥園(なんこうやちょうえん)
人工干潟でありながら、世界規模で渡り鳥の飛来経路を守る「東アジア・オーストラリア地域シギ・チドリ類重要生息地ネットワーク」や環境省の「日本の重要湿地500」に選ばれた野鳥の楽園だそうです。
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少し休憩後、ATCに向かいます。
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ATC
アジア太平洋トレードセンター(アジアたいへいようトレードセンター)の略。海に面した抜群のロケーションを持つ大阪屈指の大型複合商業施設。ATCはITM棟とO’s(オズ)棟で構成されており、約70店舗が軒を並べ、食事やショッピングなどが楽しめる。また、全長450mの海と緑のリラックススペース「O’sパーク」や大型アウトレットモール「マーレ」をはじめ、魅力的な施設が盛りだくさんだそうです。
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ATCで昼食休憩になりました。


昼食休憩後、コスモタワー、港大橋臨港緑地を経由してポートタウン東駅まで歩きました。

コスモタワー
大阪府咲洲庁舎。高さ256mを誇るコスモスクエア地区のシンボルタワー。地上252mには大阪府咲洲庁舎展望台がある。明石海峡大橋、関西国際空港、USJなど大阪、神戸の街並みが一望でき、特に夜景は一見の価値アリだそうです。
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各種展示会などが催されるインテックス大阪を通過します。
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港大橋臨港緑地に向かいます。
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港大橋臨港緑地(みなとおおはしりんこうりょくち)
港大橋は、大阪市港区と住之江区咲洲を結ぶ全長980mのトラス橋。トラス橋としての中央径間510mは日本最長で、世界第3位の長さ。咲洲側の港大橋の真下から眺められる緑地、夜景も綺麗そうです。
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この後、ポートタウン東駅まで歩きました。
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ご訪問していただきありがとうございました。



06.大正区をあるく(大阪) [ウォーキング大阪24区]

「06.大正区をあるく」に参加してきました。(20180925)

千歳渡船場(千歳橋)
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大阪の大正区の歴史ある街並みを歩いてきました。

当日は雨のち曇り、最高気温23.6℃。小雨がぱらついたりする中でのウォーキングになりました。

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大正区(たいしょうく)
大正区は、大阪市を構成する24行政区の一つ。区全体が運河に囲まれた島状の地形となっている。 大正初期以来沖縄県からの移住者が多かった地域で、沖縄料理や沖縄食材を扱う店が多く、「リトル沖縄」とも呼ばれる。 2016年現在、大阪市24区の中で最も人口が少ない。


集合場所大正駅近くの公園を出発して、尻無川水門、千歳渡船場を経由して鶴町中央公園まで歩きます。

大正駅近くの公園
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公園を出発します。
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住宅街、商店街の中などを暫く歩くと尻無川水門に着きました。

尻無川水門(しりなしがわすいもん)
尻無川水門は、大阪ドームの南側から大正区に流れる尻無川にあるアーチ型水門。台風などで押し寄せてくる大阪湾からの高潮をせき止めるはたらきをもっているそうです。
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千歳渡船場に向かいます。
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千歳渡船場(ちとせとせんじょう)
大正内港を渡る渡船場。371m。昼間は20分おきに運航。1日平均約770人(H13年度)の利用があるそうです。
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渡船に乗って大正内港を渡りました。
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鶴町中央公園に向かいます。


鶴町中央公園で昼食休憩になりました。
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昼食休憩後、大阪俘虜収容所跡、落合上渡船場、下八阪神社、近代紡績工業発祥の地 、上八坂神社を経由して大正駅まで歩きました。

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南恩加島公園に着きました。
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しばらく休憩になりました。

大阪俘虜収容所跡(おおさかふりょしゅうようじょあと)
大正3年3月から大正6年2月までの間、大正区南恩加島にドイツ人俘虜収容所があったそうです。
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平尾本通商店街を歩きます。
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落合上渡船場(おちあいかみとせんじょう)
落合上渡船場は、大正区千島1丁目と西成区北津守四丁目を結ぶ(岸壁間100メートル)。平成29年度現在、1日平均484人が利用。上流にある木津川水門(防潮)が毎月1回程度開閉試運転のため閉まっているのが見られるそうです。写真は水門が上がっている状態です。
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八阪神社(やさかじんじゃ)
江戸時代初期の寛永2年(1625年)、大正地区で最も早い神社として、当地の守護神として、素盞鳴尊を勧請したのが創始と伝えられる。大正区内には八坂神社が2箇所にあり、当社は下の宮と呼ばれる。
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近代紡績工業発祥の地(きんだいぼうせきこうぎょうはっしょうのち)
幕末までの紡績は、農家の副業による家内工業にすぎなかった。そのため綿糸の輸入は総輸入額の40%近くを占めていた。そうしたなかで、明治15年、当地で会社組織の紡績工場が発足した。明治19年には夜業用に民間でははじめて電灯を使用したが、3日間夜間工場を公開したところ「ひもランプ」と珍しがられ約5万人がおしかけたそうです。
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八坂神社(やさかじんじゃ)
大阪市大正区にある上の宮 八坂神社。大正区内には八坂神社が2箇所にあり、当神社は人者は上(かみ)のやさかさんと呼ばれている。当神社には三軒家村の開発者でもある功労者の中村勘助之碑も建立されているそうです。
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この後、大正駅まで歩きました。


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ご訪問していただきありがとうございました。



08.浪速区をあるく(大阪) [ウォーキング大阪24区]

「08.浪速区をあるく」に参加してきました。(20180911)

難波八阪神社 絵馬殿
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大阪の浪速区の歴史ある街並みを歩きました。

当日は曇り、最高気温28.9℃。少し蒸し暑かったですが、気持ち良いウォーキングになりました。

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集合場所湊町リバープレイスを出発して鉄眼寺、難波八阪神社、浪速神社、願泉寺、唯尊寺、大国主神社を経由して高岸公園まで歩きます。

集合場所の湊町リバープレイス
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港町リバープレイスを出発します。

鉄眼寺(てつげんじ)
正式名瑞龍寺(ずいりゅうじ)、通称鉄眼寺。
黄檗宗萬福寺末寺で薬師三尊を本尊としています。鉄眼和尚は、わが国に一切経の版木がないのを嘆き、全国行脚募財の末、一切経の木版6956巻32万頁を完成しました。その間洪水と飢饉に苦しむ人々を救うため、一切経の募財を救済に投じ、三度目に目的を遂げ「鉄眼は一生に三度一切経を刊行せり」といわれ、その徳の高さから一般に鉄眼寺といわれています。境内には「鉄眼禅師茶毘処地」の碑があるそうでます。
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難波八阪神社に向かいます。
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難波八阪神社(なんばやさかじんじゃ)
古来難波下の宮と称し、難波一帯の産土神(うぶすなのかみ)でした。もとは神仏混交でしたが、維新後、神仏分離により寺は廃絶し、明治5年(1872年)に郷社となりました。当社の祭神、素戔鳴尊(すさのおのみこと)が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治され、民の困苦を除かれた故事に基づき始められたという綱曳神事は、「摂津名所図絵」や「摂津名所図会大成」にも紹介されています。また、平成13年(2001年)度には、大阪市で初めての無形民俗文化財に指定されました。現在の社殿は、昭和49年(1974年)5月に改築され、都心部の社として近代的に生まれ変わり、絵馬殿は獅子頭をかたどった規模(高12m、幅11m、奥行10m)の大きなものだそうです。
冒頭の写真の絵馬殿など、外国人にも人気が高いそうです。
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浪速神社(なにわじんじゃ))
坐摩(ざま)神社の末社として、坐摩大神(いかすりのおおかみ)を祭神としているほか、猿田彦大神(さるたひこおおかみ)、白髭大神(しらひげおおかみ)も祀っています。大祭として、元旦祭、春祭、夏祭、秋祭があり、特に7月21日、22日の夏祭は布団太鼓の巡行がにぎやかに行われています。神社前公園には大阪大空襲(昭和 20年3月13日)による犠牲者の供養塔が昭和52年(1977年)に建てられ、再び戦争をしないとの願いと平和への祈りが込められています。昭和60年(1985年)には、無縁仏の供養のため五輪塔が建てられたそうです。
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願泉寺(がんせんじ)
小野妹子の八男、多嘉麿義持(法名:聖伝院永証)が創建し、はじめは無量寺院と称していました。建てられたのは四天王寺建立のすぐあとという古刹です。京都の作庭家相阿弥(そうあみ)の作と伝えられる枯山水の庭園は、大阪府名勝に指定されていて市内にあるとは思われない静寂な姿を今にとどめているそうです。
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唯尊寺(ゆいせんじ)
用明天皇の時代に天種子命(あめのたねこのみこと)の裔である迹見赤摂(とみいちひ)が、木津浦に草庵を構えたのが起こりと伝えられ、その後三十三世光重が蓮如上人の弟子となり明応7年(1498年)坊舎を建立、天正7年(1579年)唯専寺の号と安阿弥作の木像を授与されました。本願寺と織田信長との石山合戦の際の功績により、明治44年(1911年)に本山から由緒寺として認められました。境内には寛永14年(1637年)鋳造の梵鐘(ぼんしょう)や木津勘助の墓があるそうです。
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大国主神社(おおくにぬしじんじゃ)
社伝によれば、神功皇后が三韓を平定されて住吉大社に凱旋報告のため、敷津浦を航海されたとき、敷津浜に荒い波がうちよせられるのを見られ、『これから汐が満ちてはいけません』と松の木を渚に三本植え、素戔鳴尊(すさのおのみこと)をお祀りになり航海の安全を祈られたことから「松之宮」と呼ばれたとあります。敷津松之宮と“木津の大国さん”で知られる大国主神社とが相殿となっています。境内には木津勘助の銅像と折口信夫の歌碑があります。毎年1月9日から 11日には大国まつりが行なわれ、にぎわうそうです。
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木津卸売市場に着きました。
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近くにある高岸公園で昼食休憩になりました。
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昼食休憩後、廣田神社、今宮戎神社、浪速寺、通天閣、合邦辻閻魔堂、天王寺村鋳銭所跡、大乗坊を経由して南海難波駅まで歩きました。

廣田神社(ひろたじんじゃ)
もと天王寺の鎮守で今宮村の産土神(うぶすなのかみ)ですが創建年代は不詳です。古い由緒を持つとともに江戸時代には廣田の杜といわれ、うっそうとした森のなかに社がありました。当時は境内も広く、紅白二種の萩を植えた茶店があって、萩の茶屋と呼ばれていたといわれています。桜の木も多く美しい社であったとのことです。無病息災・痔疾をはじめ難病治癒にご利益があり、アカエイ(関西ではアカエ)を神使とするユニークな神社で、叡知の“エイ”に通じることから合格・必勝の祈願をかなえるといわれ、広く信仰されているそうです。
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今宮戎神社(いまみやえびすじんじゃ)
商売繁盛の神様で「十日えびす(えべっさん)」(毎年1月9日~11日)は「商売繁盛笹持ってこい」の掛け声もにぎやかに福笹をもとめる参拝者が100万人を超え、新春早々のまつりとしてにぎわいます。事代主命(ことしろぬしのみこと)・(えびすがみ)は、もともと漁労民の信仰に始まり、中世に入って市神様として祀られ、大阪の商工業の発展とともに商売繁盛の守神として信仰されてきました。元禄時代には今日と同じような祭礼が始まりました。正面で参拝後社殿の裏へ回ってドラを打ち、再度お願いする習慣があるそうです。
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浪速寺(なにわじ)
当山の創建は明治年間で、摂津八十八ヶ所霊場の中では新しい寺院に属する。1945年(昭和20年)の戦災で焼失し、現在の本堂は戦後1950年(昭和25年)の再建になる。今宮戎神社の「10日戎」と同じ1月9-11日に行われる福寅授与と開運護摩供には大勢の人々が参拝するそうです。
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通天閣(つうてんかく)
明治45年(1912年)パリのエッフェル塔をモデルに建設され、全国的にもその名が知られている大阪のシンボル通天閣は、「天に通ずる塔」という意味で現在の通天閣は2代目。初代通天閣は、産業振興の目的で開かれた内国勧業博覧会の会場跡地を利用してルナパークと共に造られました。通天閣とルナパークはロープウェーで結ばれ一大娯楽場としてデビューし、市民の憩いの場として親しまれました。昭和18年に解体されましたが、地元の人々の努力により昭和31年(1956年)に再建され、再び大阪のシンボルとしてよみがえり、今も市民から愛され、親しまれています。現在の通天閣は高さ103mで、91mの展望台から晴れの日には淡路島や和歌山まで見渡せるそうです。
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合邦辻閻魔堂(がっぽうがつじえんまどう)
古伝によれば合邦辻は合法辻とも言われ、「えんま堂」は聖徳太子の開基と伝えられています。当時の大伽藍は消失して辻堂となり、明治の中頃に今の融通念仏宗西方寺の境内に移されました。浄瑠璃「摂州合法辻」の舞台となる「えんま堂」もここのことで、俊徳丸の難病がなおるという浄瑠璃のくだりからその故事に因縁をもとめ病気平癒を祈願する人が訪れているそうです。
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天王寺村鋳銭所跡(てんのうじむらちゅうせんじょあと)
元文5年(1740年)、銀座年寄が幕府の許可を得てこの地に鋳銭所を建設。鋳造高は年間20万貫に達した。延享2年(1745年)に廃止。跡地は幕府米蔵である天王寺御蔵となったそうです。
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大乗坊(だいじょうぼう)
当山は元は四天王寺の東北方、牛崎と云う所に在った寶満寺37坊の1つ。織田信長の石山本願寺攻めの合戦(1570~1580年)に巻き込まれ、再三にわたる兵火の難を逃れるため、当時の住職の秀言律師は本尊の毘沙門天の仏頭を奉じ、ここ難波村(現在の日本橋筋)に草庵を起こし、大乗坊を再興したそうです。
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この後、南海難波駅まで歩きました。

ご訪問していただきありがとうございました。



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07.天王寺区をあるく(大阪) [ウォーキング大阪24区]

「07.天王寺区をあるく」に参加してきました。(20180828)

生國魂神社
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大阪天王寺区の歴史的な街並みを歩いてきました。

当日は曇り、最高気温33.0℃。暑かったですが、気持ち良いウォーキングになりました。

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集合場所天王寺駅近くのてんしば(公園)を出発して、一心寺、愛染堂、生國魂神社を経由して上汐公園まで歩きます。

てんしば
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天王寺駅近くのてんしば(公園)を出発します。
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茶臼山を通過します。
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一心寺(いっしんじ)
骨仏の寺として有名な一心寺(いっしんじ)は大阪市天王寺区にある浄土宗の寺。嘉永4年から納骨された5万体のお骨で、明治20年に初めて造立されたお骨佛。以来10年毎に造像され、第14期目を迎えます。平成19年から28年までに納められた22万体の諸霊が阿弥陀如来のお姿に練りこまれ、「お骨佛」として生まれ変わりました。新お骨佛は、本堂正面にお祀りし6月1日から30日まで「境内出開帳」として自由にご参拝ができるそうです。当日も多くの人が参拝に来られていました。
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安居神社を通過します。
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愛染堂(あいせんどう)
愛染堂(勝鬘院(しょうまんいん))は聖徳太子が開いた施薬院に始まり、鎌倉時代には鎌倉幕府5代執権・北条時頼から寺領を寄進されたといわれているそうです。毎年6月30日から7月2日は大阪三大夏祭りのひとつの愛染まつりが催されるそうです
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吉祥寺を通過します。

吉祥寺(きっしょうじ)
吉祥寺は万松山と号し、1630年(寛永7年))創建の曹洞宗の寺院。創建当時の住職縦鎌師が赤穂藩主浅野主匠頭長矩(あさの たくみのかみ ながのり)と親しい間柄で、この寺は大坂における浅野家の菩提寺であった。長矩候は参勤交代の折には必ずこの寺院に立寄ったという。義士討ち入りの翌年2月、大石内蔵助をはじめとする46士は切腹したが、足軽の寺坂吉右衛門が46士の遺髪、遺爪、鎖かたびら等に銀10両を添えて義士の冥福を祈る碑を建ててくれるよう吉祥寺に依頼したもので、浅野本家広島藩の意向もあり、江戸や赤穂よりも先がけ、1739年(元文4年)建立されたそうです。
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生國魂神社(いくたまじんじゃ)
神武東征に際し天皇みずから石山碕(現在の大阪城を含む一帯)に日本国土の御神霊、すなわち八十島神である生島大神・足島大神を祀られ、国土平安を祈請された事に始まる大阪最古にして日本総鎮守の神社だそうです。
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上汐公園で昼食休憩になりました。
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昼食休憩後、五條宮、産湯稲荷神社、真田山公園、三光神社を経由して玉造駅まで歩きました。

上汐公園を出発します。
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五條宮(ごじょうのみや)
橘氏の祖神を祀る全国唯一の神社として亦鬼門除の神、火難除の神としても遠近の信仰厚く、この地支那の唐制による我邦最古の都難波京の五條筋にあたり、祭神皇太子時代の御住居跡とも伝えられ古今を通して大阪の中心である当地に御鎮座。広く崇敬者が多いそうです。
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五条公園を通過します。
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産湯稲荷神社(うぶゆいなりじんじゃ)
当社は比売許曽神社の旧社地にあり、現在は御旅所で末社となっている。現地に掲げられていた社記によると「当地の開拓神である大小橋命(おおおばせのみこと)は天児屋根命の十三世の後胤で、13代成務天皇の御代(4世紀頃)、ここ味原郷に誕生した。その時、境内の玉の井の水を汲んで産湯に用いたので、この地を「産湯」という。 父は神功皇后の近臣中臣雷大臣、母は紀氏清夫と言い、3人兄弟の長男である」としている。すなわち、大化の改新で活躍した藤原家の祖、中臣鎌足の先祖に当る人である。 この誕生のときの胞衣を埋めたと伝わる胞衣塚が比売許曽神社の近くにある。また、一説では生野区にある御勝山は大小橋命の墓であるとも言われ、この地には大小橋命に関わる伝承は多いそうです。
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真田山公園に着きました。
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三光神社(さんこうじんじゃ)
仁徳天皇・天照大神・月読命・素盞嗚命を祀る三光神社。社伝によれば、寛文元年(1661)に当社は南東方向にある鎌八幡の隣に移転されたが、その後宝永3年(1706)に再び現在地に戻り、古くは「日月山神社」とも、「姫山神社」とも呼ばれたらしい。明治11年(1908)に陸奥国青麻の三光宮の分霊を勧請・合祀したことから「三光神社」と呼ばれている。大坂の陣の際、真田幸村が大阪城からの抜け穴(地下道)を設けたことで有名な神社。境内には抜け穴跡の史跡や幸村像が残されているそうです。
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この後、玉造駅まで歩きました。


Niceボタンをクローズさせていただきました。


ご訪問していただきありがとうございました。



12.生野区をあるく(大阪) [ウォーキング大阪24区]

「12.生野区をあるく」に参加してきました。(20180814)

舎利尊勝寺
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大阪生野区の歴史的な街並みを歩いてきました。

当日は晴れ、最高気温36.7℃。暑かったですが、気持ちの良いウォーキングになりました。

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集合場所桃谷駅近くの桃谷公園を出発して弥栄神社、御幸森神社、清見原神社 を経由して巽公園まで歩きます。

桃谷駅近くの桃谷公園
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桃谷公園を出発します。
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弥栄神社(やえじんじゃ)
神祖素盞嗚命(すさのおのみこと)を文録年間に熊野巫神社(旧出雲国意宇郡)より分霊奉還したのがはじまりと旧記にあります。 その当時は牛頭(ごず)天王社と呼ばれ、創立以来旧木野(この)村の鎮守として崇敬厚く宮座(みやざ)を設けて奉仕し、明治5(1872)年村社に列せられ、社号もこの時に彌栄神社と改められました。明治43(1910)年、氏子協議のうえ大字岡村(現勝山北4丁目)の御館(みたて)神社を合祀。その御館神社は、旧岡村の生土神(うぶすながみ)でいばらの神と呼ばれ、仁徳天皇の的殿(まとどの)の旧跡で、現在は彌栄神社の御旅所(おたびしょ)となっているそうです。
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御幸森神社(みゆきのもりじんじゃ)
仁徳天皇・少彦名命(すくなひこなのみこと)・押坂彦命(おさかひこのみこと)を主祭神としています。江戸時代には『御幸宮』または『天皇天神社』と称していました。社頭に立てられた由来碑によると、仁徳天皇のとき百済野の北端にあった小丘に鷹を放って天皇がそれをご覧になったところから御幸森の名が起こったそうです。
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清見原神社に向かいます。
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清見原神社に着きました。

清見原神社(きよみはらじんじゃ)
天武(てんむ)天皇を祭る。はじめ天武天皇宮、あるいは、小路村の氏神として小路神社ともいわれていた。天武天皇が大和飛鳥浄御原(あすかきよみはら)に皇居を定めていたことにちなみ、現神社名になった。なおこの辺りに吉野見(よしのみ)の地名が残っているが、伝えによると天武天皇が難波に行幸のとき、ここで休憩され、吉野をしのびふりかえられてからだという。また当地には、北八尾街道・中高野街道・俊徳(しゅんとく)街道の3つが集中しており、屈曲した道と街道らしい町のたたずまいがみられるそうです。
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巽公園に着きました。
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巽公園で昼食休憩になりました。


昼食休憩後、難波寺、御勝山古墳、舎利尊勝寺、生野神社、八坂神社、成恩寺、源ケ橋温泉 を経由して天王寺駅まで歩きました。

巽公園を出発します。
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難波寺(なにわでら)
もとは近鉄上本町駅近くにあり、「野中の観音」として親しまれていた。大正13年当地へ移転。本尊は行墓作、平景清(かげきよ)(悪七兵衛景清(あくしちべえかげきよ)、源平屋島の合戦で奮闘、戦後源頼朝暗殺を図るが失敗)の念持仏と伝えられている。境内に墨掛(すみかけ)地蔵があり、願がかなうと、それに墨をかける奇習がある。元禄2年(1689)両替商の使用人長吉が殺され金を奪われる事件があり、その菩提を弔うための地蔵であったが、いつのころからか、願掛け地蔵になったそうです。
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御勝山古墳(おかちやまこふん)
もとは岡山と呼ばれ、元和元(1615)年夏の陣の大坂落城のとき、徳川秀忠がここで戦勝の宴を催したことから御勝山の名で知られるようになりました。南北112m、東西55m、高さ約8mの前方後円墳で現在は前方部が道路(勝山通)と勝山南公園になっており、後円部を残すのみです。市内では、茶臼山古墳(天王寺区)と帝塚山古墳(住吉区)と並んで重要な史跡の一つです。中臣氏の祖『大小橋命(おおおはせのみこと)』の墓であるといわれていますが明らかではないそうです。
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舎利勝尊寺に着きました。

舎利尊勝寺(しゃりそんしょうじ)
正しくは、南岳山舎利尊勝寺と呼ばれ禅宗の一派に属し、本尊は釈迦如来です。約1400年前、用明天皇のころ、生野長者と呼ばれる長者に言葉の不自由な子が生まれました。長者が、四天王寺伽藍を設立するために来ていた聖徳太子にすがると、太子はその子に向かい「わたしが前世に預けた3つの仏舎利を返しなさい」といいました。すると3つの仏舎利を吐き出し、それからは普通に話せるようになりました。太子はそのうち、ひとつを法隆寺に、ひとつを四天王寺に、残った一つを長者に渡しました。長者が、お堂を建てて、この仏舎利を奉ったのが、舎利寺の起源と言われているそうです。
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生野神社(いくのじんじゃ)
木瓜(もっこう)を神紋とする生野神社の古名は、牛頭(ごず)天王宮という神号を用い、明治5(1872)年村社、明治42(1909)年素盞嗚尊(すさのおのみこと)神社を経て、戦後の昭和22(1947)年に生野神社と改称。 神社の鳥居は小振りながら宝永7(1710)年の刻銘があり、区内では最も古い貴重なもので、鳥居より背の高い大きな歌碑と榎・いちょうの古木が景観を添えています。また、拝殿前の一対の狛犬は天保4(1833)年のもので、お伊勢参りが大流行した江戸期の貴重な記念物です。これは村の氏神さんへの崇敬を疎かにしなかった証拠品となっているそうです。
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八坂神社(やさかじんじゃ)
東成郡誌第三編、生野村第四神社の項に『素盞嗚尊(すさのおのみこと)神社、大字林寺字林に鎮座せり…』とあり、その創祀は諸書に『元禄二巳(1689)年勧請』とありますが、他にも説があって定かではありません。東成郡林寺村(旧地名)の氏神様として崇敬されていましたが、明治41(1908)年に天王寺区の河堀稲生神社に合祀され、境内地も『河堀稲生神社御旅所(おたびしょ)』となりました。その後、氏子有志の熱誠なる努力によって復興造営が完成し、昭和30(1955)年御神霊の還御を仰ぎ『生野八坂神社』の認証を受け、『生野の祇園様』として今日に至っているそうです。
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成恩寺に着きました。

成恩寺(じょうおんじ)
関白一条実経公が弘安2年(1278)山崎邑に創建し、臨済宗東福寺開山聖一国師の弟子奇山円然禅師を招して開山とし、宝興山成恩寺と名づけられました。その後梅田に移築しましたが、大阪駅の拡張により、現在の林寺の地に移転、東福寺大阪別院と改名し、また、昭和61(1986)年6月本山の命により元の寺号である宝興山成恩寺となりました。東福寺派の準別格として高い寺格をもっています。境内には福徳弁財天像・生野天神・釈迦涅槃石像・延命地蔵尊・相撲力士墓があり、大阪場所ごとに北の湖部屋の宿舎となっているそうです。
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少し休憩になりました。

この後、源ケ橋温泉を経由して天王寺駅まで歩きました。

源ケ橋温泉(げんがはしおんせん)
大阪市生野区にある公衆浴場(風呂屋)。建物は1937年(昭和12年)の建築(木造2階建て)で、外観・内装とも昭和モダニズムの面影を残す貴重な建造物。風呂屋および銭湯の建造物としては、初めて1998年に国の登録有形文化財に登録されたそうです。 建物の上部には完成当初から「入浴」と「ニューヨーク」をかけて温泉マークを持った自由の女神像が一対あり、さらにその上の屋根には鯱瓦も乗っている。浴場の設備としては深・浅の主浴槽の他、電気風呂、オパール原石風呂、スチームサウナ、水風呂、ジェット付きの座湯がある。開業当初は建物の2階部分にダンスホールやビリヤード場があったそうです。
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ご訪問していただきありがとうございました。



11.東成区をあるく(大阪) [ウォーキング大阪24区]

「11.東成区をあるく」に参加してきました。(20180731)

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大阪東成区の歴史的な街並みを歩いてきました。

当日は晴れ、最高気温36.2℃。暑いために途中でコース変更になりましたが、気持良いウォークになりました。

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東成区
東成区は大阪市の東部に位置し、北は城東区、東は東大阪市、南は生野区、西は中央区・天王寺区と接している。区域面積は4.54k㎡、市内の24区中23位。人口は昭和35年をピークに年々減少しているが、平成11年を最低に、近年は微増傾向。一方、平成30年2月1日推計人口では65歳以上の年齢層が全人口の26%、市内第14位の高齢化率となっているそうです。(東成区HP参照)


集合場所森ノ宮駅近くの大阪城公園を出発して、鵲森宮、玉造稲荷神社、八阪神社、八王子神社、八王子神社御旅所、熊野大神宮御旅所を経由して東深江公園まで歩きます。

集合場所森ノ宮駅近くの大阪城公園
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大阪城公園を出発して鵲森宮、玉造稲荷神社に向かいます。


鵲森宮(かささぎもりのみや)
鵲森宮は通称を森之宮神社(もりのみやじんじゃ)といい、周辺の地名である森之宮の由来となっているそうです。
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玉造稲荷神社(たまつくりいなりじんじゃ)
紀元前12年の秋に創祀されたと伝えられる由緒ある神社。豊臣秀頼奉納の鳥居や千利休の顕彰碑などが並ぶ豊臣家ゆかりの神社でもあるそうです。
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八阪神社に向かいます。
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八阪神社(やさかじんじゃ)
素盞鳴尊(すさのおのみこと)ほか一柱を奉斉する旧中道村の氏神で、藤原道長がこの地に別業(別邸)を設け祀っていたのを、仁安元年(1166年)里人(さとびと)が社殿を再興し、天正12年(1584年)現在地に移転したと伝え、もと牛頭天王白山権現(ごずてんのうはくさんごんげん)と称しましたが、明治5年(1872年)八阪神社と改称したそうです。
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八王子神社に向かいます。
青い空、白い雲が綺麗でした。
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八王子神社(はちおうじじんじゃ)
八王子大神ほか四柱を奉斉する旧本庄村の氏神で、応神天皇3年の創建と伝え、孝徳天皇より高麗狗(こまいぬ)一対の献納があったと伝えられ、八王子稲荷社として、また“椿の宮”として知られました。明治5年(1872年)百済神社と改称、明治42年(1909年)旧西今里村の氏神八剣神社を合祀し八王子神社と改めたそうです。
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八王子神社御旅所(はちおうじじんじゃおたびしょ)
当社の創建年代は大変古く、仁徳天皇が高津宮の皇居守護神としてお祀りされたと伝えられています。仁寿2年9月に里人産土神として社殿を修営し、文保2年6月に改装を行ったと記録があり、 大阪夏の陣の兵火にあったのち、寛永二年に再建されたといいます。江戸時代には八劔大明神と称し、明治5年に村社となり八劔神社と改称、この村の氏神さまとして崇敬を集めていました。明治42年11月に東成区中本の八王子神社へ合祀し、 現在は八王子神社御旅所となっているそうです。
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しんみち商店街を歩きます。
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熊野大神宮御旅所(くまのだいじんぐうおたびしょ)
元々「八劒神社」のあった場所でしたが、1911年に熊野大神宮に合祀された後、御旅所となったそうです。
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東深江公園に着きました。
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東深江公園 で昼食休憩になりました。

昼食休憩後、安堵の辻、深江稲荷神社、法明寺を経由して新深江駅まで歩きました。

安堵の辻(あんどのつじ)
深江の法明寺に残されている安堵の御影縁起(法明上人の弟の西願が、沙弥教信と法明上人がお話しされているところを描いた図)によると、貞和4年(1348年)の春突如として空中に紫の雲が現れ、その雲から尊い僧、沙弥教信が姿を現わし、法明上人に向って「あなたは永年念仏を唱えながら、人々を助けてこられました。おかげで来年の6月16日の朝、極楽へ安らかに旅立つことが出来るでしょう」と。上人はよいお告げを聞いたと喜び、お告げ通りに、その日に亡くなりました。その尊い僧に法明上人が出会ったところが辻だったので、この辻を“安堵(安心)の辻”と呼ぶようになったそうです。
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深江稲荷神社(ふかえいなりじんじゃ)
宇賀御魂神(うがのみたまのかみ)ほか二柱を奉斉する旧深江村の氏神で、和銅年間(8世紀前期)の創建といわれ、慶長8年(1603年)豊臣秀頼が社殿を改造したとも伝えられます。笠縫部(かさぬいべ)との関係が深く、現在境内が「笠縫邑跡(かさぬいむらあと)」「深江菅笠ゆかりの地」として大阪府、大阪市から史跡に指定されているそうです。
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法明寺(ほうみょうじ)
文保2年(1318年)融通大念仏宗(ゆうづうだいねんぶつしゅう)の中興の祖、法明上人(ほうみょうしょうにん)の開基で、境内に「雁塚(かりつか)」と呼ばれる二基の石塔があることで有名だそうです。
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この後、気温が高いために新深江駅がゴールになりました。

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ご訪問していただきありがとうございました。



24.中央区をあるく大阪) [ウォーキング大阪24区]

「24.中央区をあるく」に参加してきました。(20180710)

法円坂遺跡
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大阪中央区の歴史的な街並み及び新しい街並みを歩いてきました。

当日は晴れ、最高気温32.2℃。暑かったですが、気持ち良いウォーキングになりました。


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集合場所湊町リバープレイスを出発して法善寺、法案寺、国立文楽劇場、高津宮、住友銅吹所、難波宮跡を経由して法円坂遺跡まで歩きます。

集合場所の湊町リバープレイス
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湊町リバープレイスを出発して、道頓堀川沿いを歩きます。
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法善寺に着きました。
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法善寺(ほうぜんじ)
山号は天龍山。本尊は阿弥陀如来。そのほか水掛不動(西向不動尊)や金毘羅堂などがあり、特に水掛不動は有名。当寺院は千日念仏を行ったことから俗に千日寺と呼ばれ、千日前は当寺院の門前に由来するそうです。
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水掛不動
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道頓堀を歩き、法案寺から国立文楽劇場に向かいます。
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法案寺(ほうあんじ)
法案寺は大阪府大阪市中央区にある仏教寺院。詳名は法案寺南坊。 通称・日本橋聖天。山号は志宜山。高野山真言宗・準別格本山。 本尊・薬師如来。現在、仮本堂には聖観音・歓喜天・不動明王・弘法大師などを祀り、境内には弁財天・不動明王・地蔵菩薩などが祀られているそうです。
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国立文楽劇場(こくりつぶんらくげきじょう)
人形浄瑠璃「文楽」上演のための舞台機構を備えた劇場。昭和59年4月に開場記念公演が行われた。日本を代表する伝統芸能のひとつである人形浄瑠璃文楽を中心に、上方の伝統芸能の公開・保存・継承の拠点となっているそうです。
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今回、国立文楽劇場の展示室を見学させていただきました。
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少し休憩後、高津宮に向かいます。

高津宮(こうづぐう)
貞観8年(866)、清和天皇の勅令によって難波高津宮の遺跡が探され、あったと定められた地に仁徳天皇を祀る社が建立されたのが始まりとされている。700年後、正親町天皇の天正11年(1583)、豊臣秀吉が大坂城を築城した際にご神体を現在地に移したが、第2次世界大戦時の大阪大空襲で神社は悉く全焼。現在の社殿は、戦後に再建されたもの。古典落語「高津の富」「高倉狐」「祟徳院」の舞台として知られ、古くから大坂町人の文化の中心地として賑わっていたそうです。
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空堀商店街を通過して住友銅吹所に向かいます。
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住友銅吹所(すみともどうふきしょ)
寛永年間(1640ころ)住友家2代、友以(とももち)によって開かれた銅精練所跡。当時大坂は銅精練業の中心地で、両横堀・長堀など川沿いの舟運の便利な場所に多くの銅吹所があった。輸出用の銅はすべて大坂でつくられ長崎へ送られた。そのうち、住友銅吹所が最も有名であった。近年の発掘調査により、金銀を収納する地下金庫・約80基に及ぶ炉跡や、住居跡からは当時の生活を偲ばせる、中国陶器片が多数見つかっている。この銅吹所は明治6年ごろまで続き、その後は住友家の居宅となった。当時木造の洋館は珍しがられたが、戦災で焼失したそうです。
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松屋町界隈を通過します。
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難波宮跡に着きました。

難波宮跡(なにわのみやあと)
大阪市中央区法円坂の一帯に広がっている史跡公園。昭和36年(1961)、飛鳥から奈良時代にかけて前後2期の難波宮跡が確認された。現在では、宮殿の中心部とされる約9万平方メートル余りの範囲が国の史跡に指定され、史跡公園として整備がすすめられているそうです。
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法円坂遺跡(ほうえんざかいせき)
法円坂遺跡のある上町台地北端部(中央区法円坂付近)は古墳時代から大変重要な地域で、 5世紀に建設された巨大な高床式倉庫群があり、そのうちの1棟が、大阪歴史博物館・NHK大阪放送局の南側の史跡公園に復元されています。 また、最近発見された5世紀の須恵器窯跡「上町谷窯」からもこの地域の重要性が裏付けられたそうです。

冒頭の写真のところです。

法円坂遺跡で昼食休憩になりました。

横にはNHK大阪放送会館(左側)、大阪歴史博物館(右側)があります。
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昼食休憩後、曲り淵地蔵、大阪商工会議所、里程元標跡、天神橋筋商店街を経由して天満駅まで歩きました。

法円坂遺跡を出発します。
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曲り淵地蔵(まがりぶちじぞう)
曲り淵地蔵の由来は太閤の時代にさかのぼり、太閤が東横堀を掘り割った当時この地にあった浄国寺をさけ、川筋を曲げたため、俗称曲がりが発生した。この曲がりのため流水は岸にあたり渦をなし、年々入水する者が絶えなかったという。ここに町民相謀り、水難除けの地蔵尊を祀り、供養したのが始まりと言われるそうです。
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大阪商工会議所の前を通過します。
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里程元標跡(りていげんぴょうあと)
江戸時代の里程計算の起点は、高麗橋の東詰にあった。ここが京街道・中国街道・紀州街道など諸国への道のり、車馬賃の基点。明治9年道路の制度公布によりひきつづき里程計算の起点となり、高麗橋の東南詰に元標がたてられた。現在は道路元標として梅田新道交差点西北角に移されている。また高麗橋は、江戸時代から公儀橋のなかでも重視され、西詰には町奉行所の制札場があった。なお高麗橋は大阪で最初の鉄橋(明治3年)だそうです。
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天神橋を渡ります。

天満橋方面の景色です。
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天神橋筋商店街(てんじんばしすじしょうてんがい)
天神橋筋商店街は南北約2.6kmと直線では日本一の長さ。天神橋筋1丁目から7丁目までの間に古き良き専門店から、飲食店まで多彩なお店が約600店、2丁目には天満天神繁昌亭、大阪天満宮などがあり年中にぎわっています。
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この後、ウォーキング開催のお世話をして頂いているスポーツ店を経由して天満駅まで歩きました。

天満駅
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ご訪問していただきありがとうございました。



04.西区をあるく(大阪) [ウォーキング大阪24区]

「04.西区をあるく」に参加してきました。(20180626)

靭公園
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大阪西区の歴史ある街並みを歩いてきました。

当日は晴れ、最高気温31.6℃。暑かったですが、気持ち良いウォーキングになりました。

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集合場所京セラドームを出発して天満宮行宮、土佐稲荷神社、竹林寺、大阪府庁跡、川口居留地跡を経由して靭公園まで歩きます。

集合場所の京セラドーム
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集合場所を出発して京セラドームをほぼ一周します。
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途中で少し休憩を挟んだ後、天満宮行宮、土佐稲荷神社に向かいます。

天満宮行宮(てんまんぐうあんぐう)
大阪天満宮の行宮(御旅所)。寛永年間(1624~1645年)、後の雑喉場となる京町堀川に設置、その後、寛文年間(1661~1672年)に戎島(西区本田)、1871年に松島(西区千代崎)へと移転したそうです。
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土佐稲荷神社(とさいなりじんじゃ)
かつての土佐藩の大阪蔵屋敷といわれる土佐藩邸。毎年3月下旬より『夜ざくら行事』が10日間開催され、夜桜の名所として親しまれる神社。三菱グループ発祥の地だそうです。
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松島公園に向かいます。

松島公園に着きました。
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松島公園の横に竹林寺がありました。

竹林寺(ちくりんじ)
香西哲雲(こうさいしょううん)が建立。浄土宗の寺院で、九条開発の時、自然に生じた「三股の竹」から阿弥陀如来の小像が現れた事から「竹林寺」と名付けたと伝えられたそうです。
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松島公園で少し休憩後、大阪府庁跡、川口居留地跡に向かいます。

松島橋の北側の木津川沿いが綺麗に整備されていました
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大阪府庁跡(おおさかふちょうあと)
大正15年11月に移転、その後半世紀に渡ってこの地で大阪府政が行われていたそうです。
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川口居留地跡(かわぐちきょりゅうちあと)
明治元年大阪開港と同時に、この付近約26,000平方メートルに外国人居留地が設けられ、諸外国に競売された。そこには街路樹が植えられ、石油ランプの街灯、舗装道路に沿ってバンガロー風の洋館が並んだ。この一角は治外法権を有し特権をふるったが、付近は大阪人には新奇さに満ちた名所であった。明治32年条約改正により居留地は廃止され、大阪市にひきつがれた。川口の港の機能低下により、居留民は神戸へと離れて行ったが、あとへはキリスト教関係者が定住、病院・学校(特に女子教育)の経営に力が注がれたそうです。
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この後、靭公園に向かいます。

安治川沿いの倉庫横を歩きます。
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西区のビルの谷間を歩きます。
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靭公園に着きました。
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靭公園で昼食休憩になりました。

昼食休憩後、サムハラ神社、四ツ橋遺跡、和光寺を経由して湊町リバープレイスまで歩きました。

靭公園を出発します。
右側はテニスコートです。
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サムハラ神社(さむはらじんじゃ)
サムハラという言葉の語源はチベットで古くから使われている「シャンバラ」という言葉が元になっているとされ、幸福についての維持や収集、平和といった言葉が秘められている。また特別な気のエネルギーを感じられるとされており、合気道の守護神としても崇められているそうです。
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オリックス劇場の前を通過します。
旧大阪厚生年金会館です。
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四ツ橋遺跡
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和光寺(わこうじ)
1698年堀江新地開発のとき、幕府の命により、境内1800坪を永代寺地に定められ、智善上人が長野の善光寺本尊出現の霊地として寺堂を建立し、「蓮池山智善院和光寺」と称したのに始まる。江戸時代には本堂のほかに、観音堂、閻魔堂、愛染堂、薬師堂、金毘羅権現など10以上の諸堂を数え、境内には店屋が軒を連ね、門前には芝居が興行され、大いに賑わった。1945年3月の空襲で、本堂を始め、諸堂、庫裡が全焼した。戦後の区画整理のため、境内地は随分と削られたが、1947年には仮堂を建立、その後、放光閣、庫裡と再建し、1961年には本堂の再建が成ったそうです。
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この後、湊町リバープレイスまで歩きました。
湊町リバープレイス
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ご訪問していただきありがとうございました。



05.港区をあるく(大阪) [ウォーキング大阪24区]

「05.港区をあるく」に参加してきました。(20180612)

大阪港天保山埠頭
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大阪港区の歴史的な街並みを歩いてきました。

当日は曇り、最高気温25.7℃。曇り空の中、少し雨がぱらつくこともありましたが、気持ち良いウォーキングになりました。

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集合場所弁天町駅を出発して福崎住吉神社、赤レンガ倉庫、港住吉神社、釈迦院、マーメイド像を経由して天保山公園まで歩きます。

集合場所の弁天町駅
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弁天町近くの公園を出発して福崎住吉神社に向かいます。
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福崎住吉神社に着きました。

福崎住吉神社(ふくさきすみよしじんじゃ)
福崎住吉神社は、もと北福崎新田(現福崎1丁目)にありました。天保6年この地が漁村であったころ、海の守護神として創建されたものですが、大正4年9月尻無川改修にあたり現在の地に移転したそうです。
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福崎住吉神社から三十三間堀川を渡って赤レンガ倉庫に向かいます。

三十三間堀川を渡ります。
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港大橋を臨みます。
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赤レンガ倉庫に着きました。

赤レンガ倉庫(あかれんがそうこ)
大正12年築の旧住友倉庫。大阪市都市景観資源の1つ。空襲にも焼け残った数少ないレンガ建築で、平成23年7月1日に大阪市の都市景観資源に登録されました。現在は、その古き良き建造物を活かしたクラシックカーミュージアム別ウィンドウで開くに生まれ変わっているそうです。
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更に、港住吉神社、釈迦院に向かいます。

港住吉神社(みなとすみよしじんじゃ)
旧官幣大社住吉神社の末社です。航海や漁労の安全を祈り、天保13年3月に住吉大社を勧請し、分霊を祭ったのが起源です。社殿は天保山の上に建てらましたが、元治元年、砲台が築かれ、船溜場の南岸に移転しました。しかしその社域も天保山運河の敷地にあたり、大正6年7月、現地に移転しました。その後戦災により焼失したため、昭和24年7月に仮社殿を復旧し、昭和36年11月に新しい社殿が完成したそうです。
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釈迦院(しゃかいん)
南河内郡河南町の弘川町の塔頭(たっちゅう)・釈迦院がここに移ってきたもので、本尊は弘法大師です。創建は明治43年9月で、弘法大師入唐の船出の旧跡としてこの地が選ばれました。旧寺院は戦災により焼失しましたが、創建当時は、本堂・茶堂・歓喜天堂・納骨堂・仁王門など24,000㎡の雄大な規模で西大阪の大師信仰の中心道場でした。現在の本堂は戦後堺市から移築したものであり、敷地も、区画整理により現在地となっています。また境内には「古代の舟発掘の碑」や「浪曲塔」などの石碑が建っているそうです。
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大阪港に着きました。
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マーメイド像(まーめいどぞう)
海遊館西側のサンセット広場に、デンマークで最も有名な観光名所のひとつとして知られているマーメイド像の複製があります。大阪港開港150年記念事業として、平成29年度にマーメイド広場から移設されました。夜間にはこれまでにない幻想的な魅力を演出しているそうです。
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天保山公園に着きました。

天保山公園(てんぽうざんこうえん)
海遊館や観覧車のすぐそばにある公園。公園内には、港に関する歴史スポット(明治天皇観艦記念碑や西村捨三翁の像)のほか、日本一低い山、天保山があるそうです。
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天保山公園で昼食休憩になりました。

昼食休憩後、大阪市中央体育館、池除山跡、安治川大水門を経由して弁天町駅まで歩きました。

天保山公園を出発します。
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八幡屋公園に着きました。

八幡屋公園(やはたやこうえん)
区内最大の公園。公園内には大阪市立体育館や大阪プールがあり、スポーツの世界大会やコンサートが開催されています。遊具などがある芝生広場のほか、大阪市立体育館の上部が緑化されており、子どもたちの遠足などにもよく利用していて、頂上から見る景色は最高だそうです。
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頂上からの景色の綺麗な景色
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八幡屋公園あるジャカランダ通りのジャカランダも見頃でした。
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弁天埠頭に向かいます。

弁天埠頭を歩きます。
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波除山跡に着きました。

波除山跡(なみよけやまあと)
弁天東公園の西端の小高い丘。幕府管理の松が茂る高台だったそうです。
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安治川水門を通過します。

安治川水門(あじがわすいもん)
安治川河口に設置されているアーチ型水門。ジェーン台風や第2室戸台風など高潮による大きな被害を受けてきたことから、その対策として、昭和45年(1970年)に建設されました。耐震、耐風の安全性や、船舶航行時の必要から、日本で最初にできたアーチ型水門だそうです。
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この後、弁天町駅まで歩きました。


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ご訪問していただきありがとうございました。



03.此花区をあるく(大阪) [ウォーキング大阪24区]

「此花区をあるく」に参加してきました。(20180522)

舞洲緑道から見た六甲方面の景色
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大阪此花区の街並みを歩いてきました。

当日は晴れ、最高気温29.3℃。気持ち良いウォーキングになりました。

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集合場所桜島駅を出発して環境局舞洲工場、セレッソ、オリックス、新夕陽ケ丘を経由して舞洲緑道まで歩きます。

集合場所の桜島駅
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桜島駅を出発します。
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暫く歩いた後、此花大橋を渡ります。
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環境局舞洲工場が見えてきました。

環境局舞洲工場(かんきょうきょくまいしまこうじょう)
ごみの焼却施設と粗大ごみの破砕施設を併設した大阪市の清掃工場。遠方からも一目でわかる斬新でカラフルな建物の設計は環境保護建築でも有名なオーストリアの芸術家、フリーデンスライヒ・フンデルトヴァッサー氏によるもの。屋根や窓付近、建物周辺にも植物が枝葉を伸ばし、建物全体が緑と一体になっているそうです。
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ここで少し休憩後、舞洲の中を歩きます。

セレッソに着きました。
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オリックスの前を通過します。
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舞洲緑地を通過して、夢洲との間の海岸沿いを歩きます。
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新夕陽ケ丘に着きました。
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新夕陽ケ丘(しんゆうひがおか)
日本夕陽百景に選定されているそうです。
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舞洲緑道(まいしまりょくどう)
此花区舞洲の北側、約1kmにわたって整備されている道。徒歩やサイクリングで大阪湾の風景を楽しむことができるそうです。

舞洲緑道の休憩所付近で昼食休憩になりました。
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昼食休憩後、舞洲スラッジセンター、北港ヨットハーバー、産土神社を経由して安治川口駅まで歩きました。

舞洲緑道を出発します。

舞洲スラッジセンターが見えてきました。
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舞洲スラッジセンター(まいしますらっじせんたー)
敷地面積約33,900平方メートル、地上6階、地下1階。メルヘンチックな外観は環境保護芸術家として世界的に有名なオーストリアの故フリーデンスライヒ・フンデルトヴァッサー氏がデザインしたもの。下水処理のしくみを見学できるほか、エントランスホールや、遊歩道なども一般に開放しているそうです。
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常吉大橋を渡ります。
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北港ヨットハーバーが見えました。
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常吉風向風速観測所(つねよしふうこうふうそくかんそくしょ)を通過します。
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淀川堤防を歩きます。
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淀川距離標左岸0.0K地点を通過します。
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産土神社に着きました。

産土神社(うぶすなじんじゃ)
宝暦12年(1762年)大坂の島屋(浅田市兵衛)が正蓮寺川左岸の一角(現住友電工内)に新田の鎮守神として創建。昭和9年の風水害により被災し、昭和13年に現在の地に移転したそうです。
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この後、安治川口駅まで歩きました。


Niceボタンをクローズさせていただきました。


ご訪問していただきありがとうございました。



02.福島区をあるく(大阪) [ウォーキング大阪24区]

「福島区をあるく」に参加してきました。(20180508)

中央卸売市場
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大阪福島区の歴史的な街並みを歩いてきました。

当日は曇り、最高気温19.5℃。気持ち良いウォーキングになりました。

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集合場所福島駅近くの公園を出発して福島天満宮、下福島公園、恵比須神社、中央卸売市場、西九條神社、昇陽高校を経由して高見公園まで歩きます。

福島駅近くの公園
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公園を出発して直ぐに福島天満宮に着きました。

福島天満宮(ふくしまてんまんぐう)
907年(延喜7年)の創始と伝わるが、その縁起は、菅原道真が左遷のため太宰府に赴任の途中、河内道明寺の叔母覚寿尼を訪ねた後、いよいよ瀬戸内海を船で下ることになり、当地で風待ちのために滞在した。その時、土地の人達が失意の道真一行を丁重に迎え、親切にもてなした。道真はこれに感謝して、御礼に布地に自分の姿を描いた絵を残し、傍らの梅の小枝を一枝折り、『行く水の中の小島の梅さかば さぞ川浪も 香に匂ふらむ』と詠み、梅の枝に添え、松の小枝と共に地面に突き刺した。不思議なことにこれが1本となって根を下ろし大木となり、元禄年間(1688~1704年)の頃まであったといわれているそうです。
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下福島公園に向かいます。
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下福島公園
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少し休憩後恵比須神社、中央卸売市場に向かいます。

恵比須神社(えびすじんじゃ)
野田恵比須神社の創建の詳細不明。神社に保存されている御影石の建石の表面に「ゑみすのみや」、側面に「永久三乙未年三月」と刻まれていて、永久三年は平安朝の末期、西紀1115年になるそうです。
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中央卸売市場南側の安治川沿いを歩きます。
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野田緑道を歩いて、西九條神社に向かいます。
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西九條神社(にしくじょうじんじゃ)
1680年(貞享年間)頃の創建と伝わる古社。たくさんの川にはさまれ、海も近いことから海上安全の守護神としての神社の意味合いが強いそうです。
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高見公園に向かいます。

昇陽高校の前を通過します。
卓球の伊藤美誠選手の通う学校だそうです。
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高見公園に着きました。
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高見公園で昼食休憩になりました。


昼食休憩後、八坂神社、大開公園を経由して野田駅まで歩きました。

淀川堤防を歩いて八坂神社に向かいます。

八坂神社(やさかじんじゃ)
東喜連村の氏神で素盞鳴尊を祀り、八坂神社と称していたが、嘉永年間に忍坂大中姫命(允恭天皇の皇后)を祀る媛天神を合祀して東西神社となった。改称は、合祀により氏子が東西喜連村にまたがることになったので、東西の二字をとった。明治42年12月、天神・東西・春日の三社は現在の楯原神社に合祀されていたが、氏子の決議にもとづき再び八坂神社とした。昭和26年7月、東喜連氏子の要望により、東西社・春日社を元の東喜連に分離移転し、同時に地域の氏子も別れることとなったそうです。
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石畳の路地を歩きます。
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大開公園
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この後、野田駅まで歩きました。

少し雨が降ってきました。

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Niceボタンをクローズさせていただきました。


ご訪問していただきありがとうございました。



23.北区をあるく(大阪) [ウォーキング大阪24区]

「北区をあるく」に参加してきました。(20180424)

淀川堤防
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大阪北区の歴史的な街並みを歩いてきました。

当日は曇り、雨、最高気温21.9℃。途中から雨が降り出し、予定されていたコースが変更になりました。

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集合場所扇町公園を出発して道引地蔵尊、関西卓球アカデミー、本庄公園、富島神社を経由して新梅田シティまで歩きます。

集合場所の扇町公園
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扇町公園を出発します。
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お洒落な街並み、中崎町を通過します。
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道引地蔵尊
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ピンぼけになりましたので、ネットから引用させていただきました。
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関西卓球アカデミー
世界のトップを目指す為の全国初の民間卓球エリート塾。大阪を拠点に2012年開設したそうです。
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伊藤美誠選手の活躍は素晴らしいですね。
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本庄公園
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淀川堤防を歩きます。
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富島神社(とみしまじんじゃ)
当社の創立年代は不詳。社伝によると足利時代既に存在。明治元年の神仏習合禁令により神号に牛頭天王の使用が禁止されたので、明治2年浪速八十島の中の利島にちなみ、利島神社と改称。明治43年には昔この辺りを富島の荘と呼んでいたことから富島神社と改称して現在に至る。昭和20年6月1日の大阪空襲により、美津神社と神具庫をのこして建物はことごとく焼失したが、御霊代は別所に奉安してご安泰であつた。昭和30年7月拝殿を新築したそうです。
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中津商店街を歩きます。
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中津駅近くのガード下を歩きます。
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新梅田シティに向かいます。
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新梅田シティで昼食休憩。この後、大阪駅まで歩きました。


Niceボタンをクローズさせていただきました。


ご訪問していただきありがとうございました。



01.都島区_大阪城をあるく(大阪) [ウォーキング大阪24区]

「都島区・大阪城をあるく」に参加してきました。(20180410)

大阪城
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大阪都島区の街並みと大阪城の中をぐるぐる歩いてきました。

当日は晴れ、最高気温21.7℃。気持ち良いウォーキングになりました。

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集合場所桜ノ宮公園を出発して桜宮神社、藤田邸跡公園を経由して大阪城西の丸庭園まで歩きます。

桜ノ宮公園
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桜ノ宮公園を出発します。
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桜宮神社(さくらのみやじんじゃ)
旧東生郡野田村「小橋」桜の馬場字「宮田」が創祀の地で、氏神として祀られていたが、1613年造営の社殿が1620年大和川の洪水で流出し、中野村(現JR環状線「桜ノ宮駅」直下の地)に漂着、この地で再建し祀られることになった。しかし、この地は低地であったため、その後1666年、1674年に水禍に罹り、1756年現在地(中野村字厨)に遷座したといわれているそうです。
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大川沿いを歩きます。

向こう岸に見える造幣局の桜の通り抜けの前日でした。(今年の桜の通り抜け(4/11-17))
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大阪城京橋口に着きました。
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大阪城の中を色々と歩きます。

大阪城内の内容は後半にまとめました。


大阪城(おおさかじょう)
大阪城は大阪上町台地の北端に位置。当地には戦国時代末期から安土桃山時代初期にかけて石山本願寺があったが、1580年の石山合戦で焼失した後、豊臣秀吉によって大坂城が築かれたそうです。
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豊国神社(ほうこくじんじゃ)
大阪城内桜門の正面に鎮座。「豊臣秀吉公」「豊臣秀頼公」「豊臣秀長卿」を 奉祀する神社。農民から天下人になられた秀吉公に肖り出世開運の神として信仰を集めているそうです。
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大阪城西の丸庭園に着きました。
西の丸庭園
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大阪城西の丸庭園で昼食休憩になりました。


休憩後、大阪城公園、OBPを経由して京橋駅まで歩きました。


大阪城大手門を出ます。
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大阪城公園を歩きます。
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JO-TERRACE OSAKA(城テラス大阪)を通過します。
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OBP
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この後、京橋駅まで歩きました。
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大阪城めぐり

今回初めて大阪城の中をぐるぐる歩いてきました。

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大阪城(おおさかじょう)
大阪城は大阪上町台地の北端に位置。当地には戦国時代末期から安土桃山時代初期にかけて石山本願寺があったが、1580年の石山合戦で焼失した後、豊臣秀吉によって大坂城が築かれたそうです。

大阪城には10か所の重要文化財があるそうです。金明水井戸屋形、大手門、多聞櫓、千貫櫓、乾櫓、一番櫓、六番櫓、焔硝蔵、金蔵、桜門の10箇所。今回は金明水井戸屋形以外の9カ所巡ってきました

金明水井戸屋形(きんめいすいいどやかた)
大阪城の小天守台にある井戸の建物。水面まで約33m。井筒は一戸の石をくり抜いて作られています。豊臣秀吉が水の毒気を抜くために黄金を沈めたという伝説があったが、学術調査の結果、この井戸は徳川幕府が大坂城再築に伴い、1624年(寛永元年)に新たに彫られた井戸であり、屋形(屋根)は1626年(寛永3年)に創建された当時のものということがわかりました。1665年(寛文5年)に落雷により天守閣は焼失しますが、この「金明水井戸屋形」は残り続けました。江戸時代までは黄金水(おうごんすい)と呼ばれていましたが、本来の金明水(金水)は、天守の東側、現在の配水池あたりにあったそうです。
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金明水井戸屋形は今回訪門しなかったので写真はネットから引用させていただきました。
  

京橋口から大阪城に入ります。

京橋口(きょうばしぐち)
京橋口という名前は門外を通る京街道に架けられた「京橋」に由来。現在の京阪電鉄とJRの京橋駅の名称も、この橋の名前からきたものである。京橋口は元和六年(1620)の徳川幕府の大坂城再建工事の第一期につくられたもので典型的な内枡形の門となっている。京橋口枡形は戊辰戦争時の火災を免れ戦前は高麗門と壮大なコ型の多聞櫓の勇姿が大阪城名物の一つとなっていたが昭和20年(1945)、太平洋戦争末期の空襲で伏見櫓ともども焼失しているそうです。
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伏見櫓跡に向かいます。
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伏見櫓跡(ふしみやぐらあと)
徳川大坂城の二の丸に建っていた櫓の内、唯一3階だった櫓で(他の櫓は全て2層)、伏見城からの移築と伝える。付近の街道からのぞむ優美な姿が江戸時代以来親しまれ、明治維新の大火でも類焼をまぬがれたが、昭和20年(1945)の空襲で全焼したそうです。
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極楽橋を渡ります。
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御座船も気持ちよさそうです。
この日は天気も良くて御座船の乗船は2時間待ちだったようです。
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青屋門を臨みます。
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秀頼淀殿ら自刃の地の碑(ひでよりよどどのらじはのちのひ)
慶長20年(元和元年、1615年)の大坂夏の陣では、旧暦の5月8日、徳川軍に追い詰められた豊臣秀頼とその母淀殿が、山里丸にあった櫓にひそみ、自害したと多くの記録が伝えている。それにちなんで平成9年(1997年)、現在の山里丸の一角に大阪市の手により、この記念碑が建てられたそうです。
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刻印石広場を通過します。

刻印石広場(こくいんせきひろば)
この広場は、大阪築城400年を記念し、その石垣を形成している刻印石を展示し紹介する為に新設。刻印石とは、大阪城の石垣築城に参加を命ぜられた諸大名の家臣や石工が、石集めや石積みの過程で、個々の石に必要に応じて、文字や文様を刻み込み、さらに出来上がった石垣の表面に担当大名の家紋などを刻み込んだもので、これまでに数万個も発見されています。ここに展示しているのは、昔の石置場、周辺の川筋などから出土したものや城内の石垣修理で撤去されたものを展示してます。大阪城の石垣は、豊臣時代のものが残っていると思われがちですが、実は現存している石垣はすべて元和・寛永年間(1620年~1629年)に、徳川幕府が西日本の69藩を動員して築かせたものです。無数の刻印石がその事実を証明しているそうです。
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山里丸石垣の機銃掃射痕
大阪城は明治時代以降、陸軍の第四師団司令部として昭和の第二次世界大戦まで利用されてきました。また、大阪城の東側には兵器工場「大阪砲兵工廠」もあったことから、終戦頃までに何度も攻撃されています。石垣の表面に残る傷は、第二次世界大戦末期の空襲による被害の痕跡。機銃掃射(きじゅうそうしゃ)によって付いたものと推定されているそうです。
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金蔵に向かいます。

金蔵(きんぞう) 【重要文化財】
江戸時代、幕府の金貨・銀貨を保管した建物で、幕府直営の金庫として役割を果たしました。「かねぐら」「かなぐら」とも読みます。1751年(宝暦元年)、この場所の南にあった長屋を切断・改造し、元々北西側にあった金蔵を元金蔵、この金蔵を「新金蔵」と呼んでいました。元金蔵は1892年(明治25年)に配水池建築の為に、この金蔵の東側に移築。のち1929年(昭和4年)に陸軍が高槻工兵隊の敷地内に移築しましたが、焼失しています。この金蔵は高さ5.8m、面積は93.11㎡あり、内部は大小の2室あります。手前の大きな部屋に通常の出納用の金銀、奥の小さな部屋に非常用の金銀を置きました。防災や防犯に工夫がこらされ、床下は石敷きで、入口は二重の土戸と鉄格子戸の三重構造に、小窓は土戸と鉄格子、床下の通気口にも鉄格子がはめられているそうです。
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天守閣の前を通過します。
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銀明水井戸の井筒(ぎんめいすいいどのいづつ)
この井筒は元来、本丸に建つ旧陸軍第四師団司令部【だいよんしだんしれいぶ】庁舎(旧大阪市立博物館)の裏手にある銀明水(銀水)井戸のものである。銀明水井戸は徳川幕府再築の大坂城本丸に設けられた5つの井戸のうちの一つで、本丸御殿【ほんまるごてん】台所の裏に位置し、本丸を警備する役人たちの飲料水として用いられたそうです。
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桜門を通ります。

桜門(さくらもん) 【重要文化財】
本丸の正門にあたる。重要文化財。1626年(寛永3年)、徳川幕府の大坂城再築工事で創建されたが、1868年(慶応4年=明治元年)に陸軍により再建し現在に至る。左右の門も再建時に新築されたが、戦後の台風により倒壊。1969年(昭和44年)に復元されている。桜門の名称は豊臣秀吉が築いた時からのもの。当時は二ノ丸の桜の馬場にあったため、近くの桜並木に因んで命名された。ただ、当時の桜門は、徳川再築の地家と構造が大きく異なる。当時の本丸入口は今よりも西側にあり、方向も違っていた。門の両脇にある石は「龍虎石(りゅうこいし)」と呼ばれ、江戸時代には右に龍が、左に虎が現れると言われていたそうです。
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一番櫓、六番櫓に向かいます。

一番櫓(いちばんやぐら) 【重要文化財】
二ノ丸南側の石垣には、二層二階建ての隅櫓(すみやぐら)が、東から西へ一番から七番まで建っていました。この櫓は最も東に位置するため「一番櫓」と呼ばれています。外側にあたる東面と南面に窓が16個あり、鉄砲や矢を放つための狭間(さま)も多数あり、玉造口に攻め入る敵を側面から一斉に攻撃できます。また東面には石落としも設けられています。創建は徳川幕府再築工事の最終段階である1628年(寛永5年)で、戦後の解体修復時にわかったことは、1658年~1661年(万治年間)、1668年(寛文8年)、1832年(天保3年)の3度だったと推定。特に1832年(天保3年)は解体も行うほど大規模だったようです。建物の下の栗石(ぐりいし)の間から当時の衣類が見つかっています。面積は1階が167.98㎡、2階が96.31㎡、高さは約14.3mあります。現存するのは一番櫓と六番櫓のみだそうです。
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六番櫓(ろくばんやぐら) 【重要文化財】
二ノ丸南側の石垣上に、二層二階でほぼ同規模の隅櫓が、東から西へ一番から七番まで建っています。この櫓は六番目にあることから「六番櫓」と言います。外側にあたる南面と西側に石落としを1か所ずつ設け、窓は外側を中心に26か所、鉄砲や矢を放つための狭間も多数あけられ、外敵に備えた堅固なつくりをしています。創建は徳川幕府の大坂城再築工事の最終段階にあたる1628年(寛永5年)で、上層の破風(はふ)を飾る東西の懸魚(げぎょ)の裏側に「寛永五暦辰拾月吉日」と書かれていました。面積は1階224.16㎡、2階133.43㎡、高さは15.4mあるそうです。
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西の丸庭園で昼食休憩になりました。
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西の丸庭園で昼食休憩した後、西の丸庭園内を巡ります。

桜の標準木(さくらのひょうんぼく)
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焔硝蔵、乾櫓に向かいます。

焔硝蔵(えんしょうぐら) 【重要文化財】
徳川幕府が鉄砲や大砲に使用する焔硝(火薬)を保管した蔵で、現在の焔硝蔵は貞享2年(1685年)に建造されたもの。焔硝蔵はそれより以前にも大阪城内に数か所ありましたが、青屋口にあった土蔵造りの焔硝蔵は万治3年(1660年)に落雷を受け、大爆発を起こしました。また、別の場所にあった半地下式の焔硝蔵も部材の腐食による立て直しが度々行われるなど、幕府は焔硝の有効な保管方法に苦慮していました。その課題を克服するべく、この焔硝蔵では耐火・耐久・防水に特に工夫がこらされ、床・壁・天井・梁(はり)をすべて花崗岩にし、石壁の厚さは約2.4m、屋根の下は土で固められています。面積は171.9㎡、高さは5.4mで、このような石造りの火薬庫は日本では例がありません。徳川時代の大坂城には、西日本の幕府の軍事拠点として、焔硝以外にも大量の兵糧や武器武具が備蓄されていたそうです。
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乾櫓(いぬいやぐら) 【重要文化財】
乾(戌亥)は西北を表す言葉で、西ノ丸の西北に位置することから乾櫓という名前になっています。大手口から京橋口までの広い範囲を見渡す重要な地点にあり、堀を隔てた城の外側の南・西・北のどの角度からも望めたことから「三方正門の櫓」とも呼ばれていました。戦後に解体修理を行い、「元和六年申ノ九月吉日 ふかくさ 三十郎」と書かれた瓦が見つかっています。このことから創建が1620年(元和6年)の徳川幕府時代だとわかりました。すなわち乾櫓は千貫櫓と同じく、大坂城再築工事に築かれたもので、最も古い構造物の一つ。高さ10.3m、2層2階建て、186.23㎡、L字型の総2階造りという珍しい構造。この櫓の工事責任者は茶人でも有名は小堀遠州(こぼりえんしゅう)だそうです。
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千貫櫓に向かいます。

千貫櫓(せんがんやぐら) 【重要文化財】
千貫櫓は大阪城の大手口を守る重要な隅櫓の一つ。西側と南側は堀に面し、大手門に向かう敵を側面から攻撃できます。創建は徳川幕府により大坂城再築工事が開始された1620年(元和6年)。戦後の解体修理の時に、墨書で「元和六年九月十三日御柱立つ」と記された部材が見つかりました。二ノ丸の北西部に位置する乾櫓と同様に大阪城最古の建造物で、どちらも工事責任者は茶人で有名な小堀遠州(こぼりえんしゅう)です。面積は1階217.26㎡、2階162.95㎡、高さは13.2m。具体的な場所は不明ですが豊臣秀吉築造の大坂城にも千貫櫓はあり、またそれ以前の織田信長が大坂を領していた頃にも千貫櫓はありました。織田信長がこの地にあった大坂(石山)本願寺を攻めた時に、一つの隅櫓からの横矢に悩まされ「千貫文の銭を出しても奪い取りたい櫓だ」と兵士たちの間で噂されたという逸話が残っているそうです。
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大阪迎賓館
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西の丸庭園を出て、多聞櫓、大手門に向かいます。

多聞櫓(たもんやぐら) 【重要文化財】
大手口枡形の石垣の上に建つ櫓で、大門の上をまたぐ渡櫓とその右に直角に折れて接続する続櫓によって構成されています。徳川幕府の大坂城再築工事により1628年(寛永5年)に創建されましたが、1783年(天明3年)の落雷で全焼。1848年(嘉永元年)に再築されています。土塁や石垣上に築かれた長屋状の建物を一般に多聞(多門)と呼びますが、その名称は戦国時代の武将、松永長秀が大和国(奈良県)の多聞城でこの形式の櫓を築いたことに由来します。現存する多聞櫓の中でも、大坂城の多聞櫓は最大規模で、高さは14.7m、建築総面積は710.25㎡あります。渡櫓内部には70畳敷を最大とする部屋が4室、続櫓内部には廊下の他に9畳、12畳、15畳の部屋が合計6室あり、多数の兵や武器を真上から攻撃できます。「槍落し」が設けられるなど、高い防御能力を備えています。大阪城の二の丸には京橋口、玉造口にも多聞櫓がありましたが、現存するのはここだけだそうです。
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大手門(おおてもん) 【重要文化財】
城の正面を大手(追手[おって])と言い、その入り口を大手口(追手口)、設けられた門を大手門(追手門)と言います。現存する大阪城の大手門は、1628年(寛永5年)に徳川幕府により大坂城再築工事の時に創建されました。正面左右の親柱の間に屋根を乗せ、親柱のそれぞれ背後に立つ控え柱との間にも屋根を乗せた高麗門形式。屋根は本瓦葺で、扉や親柱を黒塗総鉄板張にしています。開口部の幅は5.5m、高さ7.1m。親柱・控柱の下部はその後、腐食してしまったために、根継がほどこされています。特に正面右側の控柱の継手は一見不可能にしか見えない技法が使われています。門の左右に接続する大手門北方堀・大手門南方堀も重要文化財に指定されているそうです。
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この後、大阪城公園から京橋まで歩きました。


ご訪問していただきありがとうございました。




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13.旭区をあるく(大阪) [ウォーキング大阪24区]

「旭区を歩く」に参加してきました。(20180327)

太子橋中公園
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大阪旭区の歴史的な街並みなどを歩いてきました。

当日は曇り、晴れ、最高気温21.8℃。気持ち良いウォーキングになりました。

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集合場所新森中央公園を出発して八幡大神宮、千林商店街発祥の地、賽龍寺、太子橋中公園を経由して城北公園まで歩きます。

集合場所の新森中央公園
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新森中央公園を出発して八幡大神宮に向かいます。
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八幡大神宮に着きました。

八幡大神宮(はちまんだいじんぐう)
創建は不詳だが、洪水により応神天皇の像と白羽矢がこの地に流れ着き、それを祀ったのが起こりという。江戸時代初期の高槻城主・松平家信は、社領を寄進するほど厚く敬い、その後も高槻城の守護神として歴代城主の信仰が厚かった。戦国期にはキリシタンの高山氏の兵火で焼失したこともあるそうです。
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少し休憩後、太子橋中公園に向かいます。

千林商店街発祥の地を通過します。
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寶龍寺を通過します。

寶龍寺(ほうりゅうじ)
寶龍寺のクスの大木4本は天然記念物に指定。このクスは、聖楠大龍尊神である白龍尊が棲むということで、御神木として大切に保護されているそうです。
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高速道路の高架下を歩きます。
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太子橋中公園に着きました。
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桜が満開でした。(冒頭の写真)


淀川堤防を歩きます。
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大阪工業大学の前を通過します。
正門は大阪中央公会堂をモチーフにしているそうです。
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城北公園に着きました。
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城北公園で昼食休憩になりました。


昼食休憩後、常宣寺、日吉神社、城北緑道、大宮神社、関目神社を経由して関目高殿駅まで歩きました。

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常宣寺(じようせんじ)
天台教学の学僧、智正法師により応永4年(1397年)に創建。室町時代中期には本願寺法主第8代蓮如上人が、京都から淀川を経由して、当寺に寄り、周辺地域に教化伝道したという言い伝えがある。石山合戦の際は砦が周囲にあり、石山本願寺の支城の一つとして織田軍と対峙したとされる。境内には樹齢約370年の銀杏の木がある。これは正保元年(1644年)に、本堂を再建し、山門を拡充した際に植樹された。土蔵は文政2年(1820年)、太鼓楼は安政3年(1857年)に建造、客殿等も建築された。平成にも、平成の大改修として本堂の修復や、山門を整備したそうです。
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再び、淀川堤防を歩きます。
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日吉神社に着きました。

日吉神社(ひよしじんじゃ)
比叡山の日吉大社から分霊された祭神を祀っているそうです。
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淀川ワンド付近を歩きます。

赤川鉄橋の下を通過します。
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城北緑道を歩き、大宮神社、関目神社に向かいます。

城北緑道
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大宮神社(おおみやじんじゃ)
源義経にまつわる伝承を持つ神社。創建は1185年(文治元年)だそうです。
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関目神社(せきめじんじゃ)
祭神は素盞嗚(すさのお)命。創建不詳。豊臣秀吉が大坂城築城のとき、鬼門の治めとして、小さな社を建てたのがはじまりという。秀吉はこの付近を防衛線の一部として重視し、ここで街道(京街道)をわざと屈曲させ、軍兵の勢いをそいだという「七曲がり」が残っているそうです。
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この後、関目高殿駅まで歩きました。


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ご訪問していただきありがとうございました。



14.城東区をあるく(大阪) [ウォーキング大阪24区]

「城東区をあるく」に参加してきました。(20180313)

蒲生公園
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大阪城東区の歴史的な街並みなどを歩いてきました。

当日は晴れ、最高気温19.2℃。気持ち良いウォーキングになりました。

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集合場所京橋駅を出発して野江水神社、蒲生公園、若宮八幡大神宮、栄照寺、皇大神宮、八剱神社、八坂神社を経由して左専道公園まで歩きます。

集合場所の京橋駅
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近くの公園に移動。 コースの説明を受けた後、準備体操を行います。
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近くの公園を出発して野江水神社、蒲生公園に向かいます。


野江水神社(のえすいじんじゃ)
1548年、榎並城の城主であった三好宗三が戦いにそなえて城の近くにとりでをつくっていたとき、幾度か水害に悩まされたので、榎並城内に水難の守り神をおまつりしたのが水神社であるといわれています。のちに、豊臣秀吉が大阪城をたてるときも水害のために城づくりがさまたげられないように水神社を建直し祈願をしたそうです。
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蒲生公園(がもうこうえん)

冒頭の写真のところです。


少し休憩後、若宮八幡大神宮に向かいます。
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若宮八幡大神宮(わかみやはちまんだいじんぐう)
若宮八幡大神≪仁徳天皇≫を祭神とする神社で、創建年月は定かではありません。社地は、昔から村内の小さな丘にあって、楠や榎などの大木がうっそうと繁り、昼なお暗い感があったと伝えられています。中でも楠の老大樹は、明治18年(1885年)まで神木として崇敬されていました。境内にあるクスノキやムクノキなど11本の樹木が、平成9年10月31日大阪市保存樹林に指定されました。大坂冬の陣のとき、徳川方の佐竹義宣が境内に陣を張り、戦勝祈願したといわれているそうです。
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近くの栄照寺、皇大神宮に向かいます。

栄照寺(えいしょうじ)
鐘の位置が本堂の屋根の横に設置されていました。
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皇大神宮(こうたいじんぐう)
天照皇大神(あまてらすおおみかみ)を祭神として、伝承によると伊勢神宮に納める神税の御蔵跡地であることから、神宮様と称して広く崇敬され栄えてきた由緒ある神社。創建年代の詳細は不明で、平安時代末期に摂津国今福村が開発されたときに建てられたと伝えられているそうです。現在の社殿は、享保2年(1742年)・天保13年(1842年)に改修され、昭和7年に改築された桃山様式の風雅な流れ造の建物。今でこそ町の中に位置していますが、昔は小高い丘に鎮座し、榎並荘一帯の氏神として崇敬されていたそうです。
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さらに、南に進みます。

八剱神社(やつるぎじんじゃ)
応永3年(1396年)の創祀と伝えられ、速素盞鳴尊(はやすさのおのみこと)・水波能売神(みずはのめのかみ)を祭神としています。宝暦年間に京都下鴨の神主が記録した社記によれば、応永のはじめのある夜、鴫野村住民の夢の中に一人の老翁が現れ、「吾は熱田の神なり、跡を此の地に垂れんと欲す。明日汝等出て来て吾を淀川の辺に迎えよ」とのお告げがあったので、翌日、村民十数人を呼んで河辺に来ると小蛇が陸に上がって行ったそうです。その姿は大変悠々としていて、一同がこれに従って行くと、小蛇は川を越えて当地に入り、その留まったところに小さな祠を建てて祀ったのが当社の始まりとされているそうです。また、八劔神社は、宮相撲が盛んで、境内に昭和36年に建てられた「郷土宮相撲米川部屋頭取碑」があり、面白い四股名が刻まれています。さらに、当社には、鴫野村の検地帳が保存され、近世の研究史料となっているそうです。
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八坂神社(やさかじんじゃ)
京都の八坂神社の分社で素戔鳴尊(すさのおのみこと)をお祀りしています。大正2年(1913年)10月14日に永田村の水神社(現在永田4丁目蓮乗寺の一部)とともに八劔神社に合祀されるまで、天王田の氏神様でした。合祀されたあと神社の跡地は長い間(約70年間)荒れ放題で狛犬だけが転がっていたとのことです。昭和55年(1980年)に天王田地区の人々の強い懇願と協力により元の場所に再建されました。当社の縁起によると、昔、村の側を流れていた楠根川の上流から金色に光るものが流れてくるのを当地の庄屋さんが網ですくい上げ、家に持ち帰ってみると牛頭天王と墨書された木簡でありこれをお祀りしたことに始まるそうです。
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第二寝屋川を渡ります。
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左専道公園に着きました。
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左専道公園 で昼食休憩になりました。


昼食休憩後、不動寺、諏訪神社、東中浜公園、白山神社を経由して森ノ宮駅まで歩きました。

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不動寺(ふどうじ)
真言宗の寺院。本尊は不動明王。豊臣秀吉が大坂城を築城した時、現在の生玉神社のあたりにあった不動堂は取り壊され、慶長7年(1602年)東成郡木野村に再建されましたが、その後たびたび水害に見舞われたので、宝暦9年(1759年)に現在の場所に移されました。大阪四不動尊詣のひとつとして、東方を担っています。江戸時代には広く信者を集め、参詣の列が絶えないほどの賑わいでしたが、明治の廃仏毀釈の影響で、当時のにぎわいはほとんど失われたそうです。
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諏訪神社(すわじんじゃ)
長野県にある諏訪大社の全国に5千ある分社にひとつ。創建の年代は不明。境内に現存する古い石灯籠に『承和3年(836年)4月寄進』と刻まれているところから、今から1200年ほど前の平安時代に創建されたと考えられ、祭神は、建御名方刀美命(たけみなかとみのみこと)・八坂刀売命(やさかとめのみこと)だそうです。
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東中浜公園を経由して白山神社に向かいます。
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白山神社(しらやまじんじゃ)
白山神社は、菊理媛神(くくりひめのかみ)を祭神としています。創建年月は不詳ですが、明治5年(1872年)までは、白山権現と称していました。応永(15世紀初頭)の頃までは中浜・鴫野・森の諸村の氏神でした。天正4年(1576年)織田信長が石山本願寺を攻撃した時、社殿を焼失しましたが、慶長8年(1603年)豊臣秀頼により再建されました。しかし、同19年(1614年)大坂冬の陣による兵火で再び焼失しました。元和3年(1617年)再建されますが、その後も幾度かの改築・修理が加えられ現在に至っています。また、神社の境内にある「イチョウ」の木は、大阪府の天然記念物に指定されているそうです。
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この後、森ノ宮駅まで歩きました。


Niceボタンをクローズさせていただきました。


ご訪問していただきありがとうございました。



20.鶴見区をあるく(大阪) [ウォーキング大阪24区]

「鶴見区をあるく」に参加してきました。(20180227)

鶴見緑地風車の丘
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大阪鶴見区の歴史的な街並みなどを歩いてきました。

当日は晴れ、最高気温14.5℃。気持ち良いウォーキングになりました。

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集合場所守口駅を出発して大枝神社、高瀬神社、八幡大神宮、喜左衛門記念碑を経由して鶴見緑地風車の丘まで歩きます。

集合場所の守口駅
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守口駅を出発します。

直ぐに大枝神社に着きました。

大枝神社(おおえだじんじゃ)
創建年代は不詳。石造物や樹木から約300年前だと推測されています。明治の初めの頃は、辺りは篠竹に覆われ、社殿も小さく雰囲気のある場所だったそうです。
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大枝神社から高瀬神社に向かいます。

高瀬神社に着きました。

高瀬神社(たかせじんじゃ)
905-927年に作成された延喜式神名帳に記載されている由緒ある古社。平安時代、この付近に高瀬川が流れており、この高瀬川は古歌に数多く歌われ、特に「高瀬の里」「高瀬の淀」は有名な歌枕となっているそうです。
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高瀬公園で休憩になりました。
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八幡大神宮に向かいます。

八幡大神宮(はちまんだいじんぐう)
創建は不詳だが、洪水により応神天皇の像と白羽矢がこの地に流れ着き、それを祀ったのが起こりという。江戸時代初期の高槻城主・松平家信は、社領を寄進するほど厚く敬い、その後も高槻城の守護神として歴代城主の信仰が厚かった。戦国期にはキリシタンの高山氏の兵火で焼失したこともあるそうです。
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喜左衛門記念碑から鶴見緑地公園に向かいます。
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喜左衛門記念碑(きざえもんきねんひ)
喜左衛門は江戸初期、旧寺方一帯12ヶ村の庄屋でその行いにより義民と称えられる。かっての当地は現守口市域の中でも最低湿地で、排水の便が悪く常に悪水に悩まされ、農作被害にあっていた。その原因は用排水路(中川)の樋の位置にあったので、村民は新たな樋を設けることを度々幕府に願い出たが、認められなかった。庄屋の喜左衛門は意を決し、1634年(寛永11年)許可なく上流の樋の撤去し、自己所有地に樋を築いた。そのため、喜左衛門は幕府を無視したとして捕えられ、翌年処刑された。しかし、幕府は彼の行為はこの地の事情からやむを得ないものとし、敷設した樋はそのまま置かれ「喜左衛門樋」と呼ばれ存続した。喜左衛門を慕って12村の関係者有志により、1882年(明治15年)この地に記念碑を建てられているそうです。
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鶴見緑地公園に着きました。
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鶴見緑地風車の丘 で昼食休憩になりました。
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昼食休憩後、 鶴見神社、正因寺、阿遅速雄神社を経由して放出駅まで歩きました。


鶴見神社( つるみじんじゃ)
1158~1179年に比叡山峯八王子社の分霊を勧請したのが起源。当初は、八王子社と称し、鶴見神社になった由来は、1190年源頼朝が上洛する際に鶴ガ池(静岡県磐田市)で放った千羽の鶴が、この地に飛来したことから。首に鎌倉幕府の証である金の短冊を付けていたそうです。その鶴を見に来る人が集まったので「鶴見」という地名の由来でもあるそうです。
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正因寺(しょういんじ)
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阿遅速雄神社(あちはやおじんじゃ)
放出の由来にもなっているといわれている神社です。天智天皇7年(668)、熱田(あつた)神宮に祭る草薙剣(くさなぎのつるぎ)を盗んだ僧・道行が、当地で大嵐にあい、神の恐れを感じてそのまま放り出して逃走、地名・放出(はなてん)の由来にもなっているそうです。草薙剣は土地の人が当社に祭り、その後熱田神宮に奉還したそうです。
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この後、放出駅まで歩きました。


ご訪問していただきありがとうございました。



10.東淀川区をあるく(大阪) [ウォーキング大阪24区]

「東淀川区をあるく」に参加してきました。(20180213)

淀川河川公園
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大阪東淀川区の歴史的な街並みなどを歩いてきました。

当日は晴れ、最高気温6.5℃。気持ち良いウォーキングになりました。

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集合場所淡路駅近くの公園を出発して永春寺、崇禅寺、中島惣社、新大阪駅、須賀森公園、菅原天満宮、定専寺を経由して豊里中央公園まで歩きます。

淡路駅近くの公園
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公園を出発して、新大阪駅までに永春寺、崇禅寺、中島惣社を訪れます。

永春寺(えいしゆんじ)
延宝3年(1675年)に建立、明治11年(1878年)に来(らい)一族の居住跡であった萬年山春明庵と合併して、現在地へ移転。来一族は、京都で刀剣師として暮らしていましたが、南北朝の戦乱を避けるため、元徳3年(1331年)に来国安(くにやす)・国長(くになが)・国次(くにつぎ)らが淡路へ来て、淡路庄や中島庄に門人たちと住んでいたといわれているそうです。
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崇禅寺(そうぜんじ)
崇禅寺は、織物の街桐生の西の山間、小倉の里に元久二年(1205)法然上人の弟子智明上人(桐生小倉の人、園田太郎成家)により開創され、その後南北朝の中頃、応安三年(1370)には、鎌倉大本山建長寺第四十五世東伝士啓禅師により、臨済宗の禅寺として開山され、その長い歴史と法灯を今日に伝えていて、この地方では「阿弥陀様の寺」として知られる古利だそうです。
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中島惣社(なかじまそうしゃ)
中島惣社は、孝徳天皇の白雉2年(651年)難波長柄豊碕に遷都されたころ、五穀豊饒を祈るために多くの神領を得て創建されたといわれているそうです。
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新大阪駅を通過します。
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須賀森公園で休憩になりました。
巨木として有名な楠は大阪府天然記念物指定。樹齢630年以上で、幹の直径は2mほどあり、今も健在だそうです。
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菅原天満宮(すがわらてんまんぐう)
菅原道真公を祭神とし境内には樹齢約400年といわれている楠の大樹(高さ23.9m、幹周り4.6m)があり、大阪市保存樹に指定されているそうです。
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休憩後、豊里中央公園に向かいます。

定専坊(じょうせんぼう)
定専坊は、行基(ぎょうき)の開いた横玉山西光寺(おうぎょくざんさいこうじ)というお寺楠木正成(くすのきまさしげ)の孫である正勝(まさかつ)が隠棲(いんせい)した寺として知られている。正勝の孫の掃部助(かもんのすけ)は出家して浄賢(じょうけん)と名乗り、それまで真言宗だった西光寺を浄土真宗に改め、寺名を定専坊とした。定専坊の名は、本願寺8世の蓮如(れんにょ)が命名したもの。大坂に石山本願寺を創建し、発展の基礎を築いた蓮如は、明応8年(1499年)85歳のときに山科本願寺へ戻るが、その途中の2月18日、「さんば(定専坊の建っている地名)の浄賢」のところに寄り、後継者である息子の実如(じつにょ)を呼んで、浄賢立会いのもとで遺言を伝えた。このことから、蓮如と浄賢には深いつながりがあり、定専坊が信頼できる場所であったということがわかる。山門の「蓮如上人遺跡」の石柱はこれらの故事を物語っているそうです。
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豊里中央公園に着きました。
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豊里中央公園で昼食休憩になりました。


昼食休憩後、 大宮神社、専超寺、大澤寺、大隅神社、寂光寺、淀川河川公園、 神崎川緑地を経由して井高野駅まで歩きました。

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大宮神社(おおみやじんじゃ)
大宮は第27代安閑(あんかん)天皇を主祭神として祀られた神社。安閑天皇はしばしばこの地を訪れ、放牧の適地として奨励されたので、牛を飼い牛乳を固めた酥(そ)というもの(チーズのようなもの)を献上するなど、この土地の発展に尽くされた徳を慕って祭祀された。そのことにちなんで明治の頃まで「乳牛牧(ちちうしまき・ちちゅうしまき)」という地名が残り、今の大隅東・大隅西小学校は大正15年(1926年)に改称するまで「乳牛牧尋常小学校」と称していた。また、この地は聖徳太子の伝承が多く、主祭神御神体の木像は聖徳太子の直作といわれているそうです。
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専超寺(せんちようじ)
専超寺は、本願寺住職の顕如上人(けんにょしょうにん)の弟子である宗円が私有地に一宇を創建し、天正年間(1570年ごろ)に織田信長との石山合戦に参加したのが始まり。本尊は阿弥陀如来で、承応3年(1654年)4月4日に西本願寺の良如(りょうにょ)上人から授かり、寺宝となっている。安永5年(1776年)2月に火災を被り全焼したが、同年7月に本堂庫裏(くり)が再建されたそうです。
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大澤寺(だいたくじ)
大澤寺は、正保(しょうほう)3年(1646年)に僧宗純(そうじゅん)が創建。宗純は当地の名家であった沢田家の出身で、俗名は沢田太郎左衛門といい、大坂本覚寺の日達上人(にったつしょうにん)に帰依(きえ)し、独力で法華宗の寺を建立したそうです。
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大隅神社へ向かいます。
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大隅神社(おおすみじんしゃ)
1700年ほど前、この大隅島に離宮を営んでおられた応神(おうじん)天皇(大隅宮:おおすみのみや)が崩御の後、里人が帝の御徳を慕い宮址に神祠(やしろ)を建立したのが起源。ある年に淀川が氾濫し賀茂(かもの)明神の御神体が漂着して霊光を放ち、里人はこれを迎えて産土神(うぶすなのかみ)に合祀し、社名を賀茂神祠と改め社殿を2つに分けました。3,000坪以上の境内には杉や松が繁り、社殿も壮麗でしたが、明治初年に周囲を民有地に払い下げ、応神天皇を主祭神とし、名も大隅神社と改められた。境内に狛犬や灯籠が多いのは、稲生(いなう)神社などを合祀したから。大隅神社は氏地が広いために、御祭神がお泊まりになる御旅所が、井高野と瑞光寺境内にある。本殿では初詣・成人祭・節分・春秋大祭・七五三詣・年2回の大祓(おおはらい)の行事があり、節分のときには参拝者全員にぜんざいをふるまい、寒さを和らげているそうです。
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寂光寺(じゃっこうじ)
そのむかし、仁安2年(1167年)の秋、歌人西行法師が天王寺へ参詣する途中、江口の里であいにくの時雨にあい、一軒の粗末な里家で雨宿りを乞うたのです。しかし、女家主の遊女妙(たえ)はその申し出を拒みました。そこで、西行が「世の中をいとふまでこそかたからめかりの宿りを惜しむきみかな」と歌を詠むと、「世をいとふ人としきけば仮の宿に心とむなと思ふばかりぞ」と見事に返歌しました。その即興の歌が縁となって後に妙は仏門に入り、余生を人びとの相談ごとにあてたそうです。妙(光相比丘尼:こうそうびくに)の亡き後、江口の人びとが、冥福を祈って建てたのが、江口の君堂だといわれているそうです。
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淀川堤防を歩き、淀川河川公園で休憩後、神崎川緑地を経由して井高野駅まで歩きました。

神崎川緑地
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Niceボタンをクローズさせていただきました。


ご訪問していただきありがとうございました。



19.淀川区をあるく(大阪) [ウォーキング大阪24区]

「淀川区をあるく」に参加してきました。(20180123)

淀川堤防から見た大阪市街
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大阪淀川区の歴史的な街並みを歩いてきました。

当日は曇り、最高気温10.9℃。気持ち良いウォーキングになりました。

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集合場所塚本駅近くの公園を出発して十三公園、神津神社、立森端神を経由して三国本町公園まで歩きます。

塚本駅近くの公園
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公園を出発して暫く歩くと大野川緑蔭道路を歩きます。
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十三公園に着きました。
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しばらく休憩後に淀川堤防、神津神社、立森端神、三国本町公園に向かいます。

淀川河川敷を歩きます。
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神津神社(かみつじんじゃ)
明治42年、旧七カ村の氏神を合祀した神社で、正面に八幡神社、両脇に十三戎神社、福永稲荷神社の社があります。土地の守護神、厄除の神、武神、殖産興業の神、学問の神様などが祀られているそうです。
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立森端神(たつもりずいじん)
立森瑞神は蛇を主神とする小さな神社で、地元では野中の巳さんと呼ばれ親しまれています。大正末ごろに何人かの村人が、夢で大きな蛇に「私をまつってくれれば水不足にならないようにしてあげる」と言われ、これは神のお告げだと思い、おまつりしたのが始まり。蛇は水に縁のあるところから河川の神、七福神の弁財天のお使いとされ、その財という字から商売繁盛の神様として信仰されています。また美しい女神でもあるので、それにあやかって美しくなりたい女性にも多く信仰されるようになったそうです。
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三国本町公園に着きました。
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三国本町公園で昼食休憩になりました。


昼食休憩後、 さいの木神社、法華寺、柴島神社を経由して淡路駅まで歩きました。

新大阪近くの操作場を通過します。
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さいの木神社(さいのきじんじゃ)
1678年4月、奉行所の役人たちが召し捕りにくる直前に当地で自害した中島水道開削工事の責任者の三庄屋の冥福を祈って建てられた社だそうです。
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法華寺(ほっけじ)
天平13年(741年)、聖武天皇は国家鎮護を目的とし、中央集権体制を推進するために、全国に国分と国分尼寺を置くように命じました。同年、法華寺はこの勅命により創建され、尼僧10人が常住し、「摂津法華滅罪之寺」と称したことから、摂津国分尼寺にあたるといわれています。室町時代に入ると、法華寺はいったん廃絶しましたが、応永13年(1406年)に僧了庵慧明(りょうあんえみょう)が再興、寛永16年(1639年)に篤信家であった吉田忠次が堂宇(神仏が祭ってある建物)を寄進し、曹洞宗の禅寺法華寺として知られるようになりました。当時、柴島浄水場付近に再建されましたが、大正3年(1914年)に浄水場建設のため、現在地に移転したそうです。
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柴島神社(くにじまじんじゃ)
柴島神社は社伝によると、貞永元年(1232年)9月の大洪水時に、「仲哀天皇の森」という名の高地に避難していた村人のところに、柴に乗った小祠が流れ着き、まもなく水が引き救われたため、以後、産土神として奉祀したのが起源。村社の社格を与えられ、神饌幣帛料供進社に指定されていたところ、明治34年(1901年)4月淀川大改修工事のため、仲哀天皇社とともに現在地に移されたそうです。
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この後、淡路駅まで歩きました。
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ご訪問していただきありがとうございました。



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09.西淀川区をあるく(大阪) [ウォーキング大阪24区]

「西淀川区をあるく」に参加してきました。(20180109)

姫島神社
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西淀川区の歴史的な街並みと尼崎市の七福神を訪れてきました。

当日は晴れ、10.4℃。気持良いウォーキングになりました。



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尼崎七福神
江戸時代初期、尼崎城築城の際に寺院を一箇所にまとめられ、今も都会に静かな佇まいを残す尼崎寺町。この近くにあって漁港・工業都市として中世から戦後に街の営みを支えた商店街。この地域のゆかりや伝説から寺町と商店街をつなぐ「尼崎寺町の七福神」が生まれた。地元漫画家・尼子騒兵衛さんが描いた七福神の色紙に、7つの寺社に置かれたスタンプを押し、幸せや縁起を呼べるように祈りながら楽しめるそうです

イラスト(ネットから引用させていただきました)
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尼崎七福神は以下の神様です。
尼崎えびす神社 恵比寿神 商売繁盛の福宝
本興寺       大黒天 財宝繁栄の福宝
長遠寺       毘沙門天 家門隆昌の福宝
大覚寺       弁才天  知恵・縁結びの福宝
法園寺       布袋尊 家庭円満子宝の福宝
常楽寺       寿老人 長寿・延命の福宝
貴布禰神社    福禄寿 開運出世の福宝


集合場所阪神尼崎駅を出発して尼崎七福神(尼崎戎神社、貴布禰神社、本興寺など)、桜井神社、初嶋大神宮、中島新橋を経由して中島公園まで歩きます。

阪神尼崎駅近くの広場
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広場を出発して商店街の中を歩くと直ぐに尼崎戎神社に着きました。

尼崎戎神社(あまがさきえびすじんじゃ)【恵比寿神】
尼崎えびす神社は平安時代の醍醐天皇以前。菅原道真が大宰府へ赴く途中、尼崎の海辺の神社に立ち並ぶ老松や砂浜の美しさに目を奪われて「ここは殊のほかよき浦なり 松は琴柱の並びたるがごとし」と歌を詠まれた。この歌にちなんで、尼崎は「琴の浦」と呼ばれるようになり、この古名の発祥は当神社だと言われているそうです。
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少し休憩の後、貴布禰神社から寺町を通り本興寺に向かいます。

貴布禰神社(きふねじんじゃ)【福禄寿】
貴布禰神社の発祥は、鴨社領長洲御厨と深い関係のある京都府の貴布禰総本宮貴船神社の分社である長洲貴布禰神社と伝えられ、中世尼崎町の発展とともに尼崎総社として分祀され、1326年(嘉暦元)現在の尼崎城三の丸跡に開創されたといわれています。1617年(元和3)尼崎藩主戸田氏鉄が尼崎城を築城する際に、現在の西桜木町に移転、さらに1715年(正徳5年)現在の西本町に移転されたそうです。
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長遠寺(ちょうおんじ)【毘沙門天】、大覚寺(だいかくじ)【弁才天】
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法園寺(ほうえんじ)【布袋尊】、常楽寺(じょうらくじ)【寿老人】 
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本興寺(ほんこうじ)【大黒天】
寺町の中心的寺院。室町時代1420年に創建。桃山期の華麗な開山堂・三光堂があり、11月3日の虫干会では寺宝を公開しています。境内には枯れたことのない霊水井戸があるそうです。
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桜井神社(さくらいじんじゃ)
尼崎城址に明治15年(1882年)建立。本殿及び拝殿は建立当時のもの。境内には最後の城主・忠興が設立に係わった博愛社(のちの日本赤十字社)の記念碑がある。また拝殿前左には尼崎城の棟瓦が飾られているそうです。
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この後、初嶋大神宮、中島公園へ向かいます。
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初嶋大神宮 (はつしまだいじんぐう)
創始は不詳。正和年間(14世紀)といわれていて、『尼崎志』には、近江坂本の日吉神社に属する一社が尼崎に祀られ、のち別所町と別所村に分社。別所町南浜(現東本町4丁目)の初嶋恵比寿が築地開発にともない寛文6年(1666)現在地に移築された。享保年間のころ初島恵比寿を初島大神宮と改称された記録もあるそうです。
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中島新橋を渡りました。
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中島公園に着きました。
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中島公園で昼食休憩になりました。


昼食休憩後は出来島水門、姫島神社、野里住吉神社、JR塚本駅歩きました。

出来島水門を通過します。
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姫島神社(ひめじまじんじゃ)
創建不明。当地は難波八十島の姫島の旧地で、『摂津風土記』に女神が新羅より遁れて来た比売島松原をこの地とする説があるそうです。
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野里住吉神社(のざとすみよしじんじゃ)
永徳2年(1382)、足利義満の創建と伝えられる神社。野里という町は、明治末期の新淀川開削で、旧中津川の右岸(現西淀川)に沿って開かれた昔からある村落。同社には、「一夜官女」(いちやかんにょ)という珍しい神事がある(府の無形文化財)ことで知られているそうです。
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この後、JR塚本駅まで歩きました。


ご訪問していただきありがとうございました。



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23.北区をあるく(大阪) [ウォーキング大阪24区]

「北区をあるく」に参加してきました。(20171212)

大阪駅北側
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大阪北区の歴史的な街並みを歩いてきました。

当日は晴れ、最高気温6.5℃。少し寒かったですが、気持ち良いウォーキングになりました。

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集合場所扇町公園を出発して堀川戎神社、大阪天満宮、泉布観を経由してOAPまで歩きます。

扇町公園
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扇町公園を出発します。

堀川戎神社(ほりかわえびすじんじゃ)
商売繁昌の神「蛭子大神(えびすの おおかみ)」を祀り、「堀川のえべっさん」と慕われるお宮。毎年1月9~11日に行なわれる 十日戎(とおかえびす)が有名で、当日は商売繁盛を願う数十万の人々で賑わうそうです。
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天神橋筋商店街を通って大阪天満宮に向かいます。
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大阪天満宮(おおさかてんまんぐう)
菅原道真公が祭られている大阪天満宮は大阪市民からは「天満(てんま)の天神さん」と呼ばれ親しまれています。 年末年始や受験、梅見のシーズンには、多くの参拝者で賑わい、境内北側の星合池(通称亀の池)周辺の梅林などに合計約100本の梅の木があるそうです。
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少し休憩後、OAPに向かいます。

南天満公園を歩きます。
綺麗な紅葉もすっかり落葉していました。
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泉布観(せんぷかん)
大阪市内に現存する最も古い洋風建築で国の重要文化財にも指定されています。泉布観は造幣寮(現在の造幣局)の応接所として明治4年(1871年)2月に落成。泉布観の「泉布」は「貨幣」、「観」は「館」を意味し、明治天皇が訪問した際に自ら命名されたものだそうです。
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OAP
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OAPで昼食休憩になりました。


昼食休憩後、鶴満寺、与謝蕪村生誕の碑・毛馬閘門、豊崎神社、富島神社を経由して大阪駅まで歩きました。

大川沿いを歩きます。
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鶴満寺(かくまんじ)
寺伝によると、円仁(慈覚大師)が河内の国に開き、長年廃れていたのを南方村の猟師瓦林鶴林が長年の殺生を悔いて同村に再興、その後また荒廃していたのを寛保3年(1743年)大坂の豪商上田宗右衛門広久が譲り受けて当地に移し、京都の上善寺の僧忍鎧を招いて宝暦3年(1753年)堂宇を完成させたそうです。
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毛馬閘門が見えてきました。

毛馬閘門(けまこうもん)
大川は旧淀川。現在の淀川は明治初期にオランダ人技師ヨハネス・デレーケたちが毛馬の閘門からまっすぐ大阪湾に流れるように改修したそうです。


ちょうど開門して砂利採取船が通っていました。
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与謝蕪村生誕の碑
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淀川堤防を歩きます。
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豊崎神社(とよさきじんじゃ)
由緒によれば、豊崎宮が廃されて、宮跡は松林となり、八本松と呼ばれていた。 正暦年間(990年~995年)藤原重治がこの地の開拓にあたり、この樹林に小祠を建立して孝徳天皇を祀ったのが起こりだそうです。
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富島神社(とみしまじんじゃ)
当社の創立年代は不詳。社伝によると足利時代既に存在しており、午頭天王社・?園社としていた。明治元年の神仏習合禁令により神号に牛頭天王の使用が禁止されたので、明治2年浪速八十島の中の利島にちなみ、利島神社と改称。明治43年には昔この辺りを富島の荘と呼んでいたことから富島神社と改称して現在に至る。昭和20年6月1日の大阪空襲により、美津神社と神具庫をのこして建物はことごとく焼失したが、御霊代は別所に奉安してご安泰であつた。昭和30年7月拝殿を新築したそうです。
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この後、大阪駅まで歩きました。


Niceボタンをクローズさせていただきました。


ご訪問していただきありがとうございました。



15.阿倍野区をあるく(大阪) [ウォーキング大阪24区]

「阿倍野区をあるく」に参加してきました。(20171114)

あべのハルカス
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大阪阿倍野区の歴史的な神社仏閣などを訪れてきました。

当日は雨、最高気温13.6℃。久しぶりに雨の中のウォーキングになりました。


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集合場所南田辺駅を出発して山阪神社、法楽寺、桃ケ池公園、安倍晴明神社、阿倍王子神社、北畠公園、阿部野神社、天神ノ森天満宮、聖天山公園、南霊園を経由して天王寺駅まで歩きました。

南田辺駅
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南田辺駅を出発して山阪神社、法楽寺から桃ケ池公園に向かいます。

山阪神社(やまさかじんじゃ)
神社創建の時期は不明ですが、主祭神は天穂日命(アマノホヒノミコト)。野見宿禰命(ノミノスクネノミコト)も祀っています。田辺氏と同系の土師氏の祖先神が野見宿禰命で、天穂日尊の子孫とされていることに因んでいるとも思われます。三代実録の「清和帝貞観(ジョウガン)4年(862)8月11日条田辺西神、田辺東神に従五位を授けた」ことが記録されており、田辺西神は当社を、東神は中井神社を示すものとされているそうです。
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法楽寺(ほうらくじ)
真言宗泉涌寺派大本山紫金山小松院法楽寺(田辺不動尊)が正しい名称で、昔から「田辺のお不動さん」の名で親しまれています。 「小松院」とあるように、平重盛(小松殿)の創建で、保元や平治の乱で戦死した兵士の霊を敵味方の区別なく葬りたいとする重盛の厚い信仰心から建造されたとする説と、この寺を基点として河内源氏の動静を重盛が探ったとする説とがあるそうです。
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桃ケ池公園
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あべのハルカスに雲がかかっていました。
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休憩後、安倍晴明神社、阿倍王子神社、北畠公園、阿部野神社、天神ノ森天満宮から聖天山公園に向かいます。

安倍晴明神社(あべせいめいじんじゃ)
阿倍王子神社が管理する末社で、創建は没後2年の寛弘4年(1007年)。現在の社殿は大正10年に晴明公の子孫と称する保田家が旧社地を寄進、大正14年に完成。阿倍野区阿倍野で生まれたといわれる平安時代の陰陽師・安倍晴明を祀る神社だそうです。
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阿倍王子神社(あべおうじじんじゃ)
阿倍王子神社は大阪府大阪市阿倍野区にある神社。かつては阿倍王子(あべのおうじ)といい熊野神社の分霊社である九十九王子のひとつであったそうです。
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北畠公園
北畠顕家墓ありました。
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路面電車の横を歩きます。
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阿部野神社(あべのじんじゃ)
阿部野神社は南北朝時代、北畠顕家(あきいえ)と足利軍が戦った古戦場跡地に1882年(明治15年)創建され、北畠親房(ちかふさ)、顕家父子が祀られているそうです。
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天神ノ森天満宮(てんじんのもりてんまんぐう)
天神ノ森天満宮の境内には、古くから安産の神として信仰を集める「子安石」があり、 豊臣秀吉が淀君の懐妊時に参詣され安産を祈願されたと伝えられているそうです。
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聖天山公園
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南霊園
大阪市営の霊園。五代友厚さんのお墓がありました。
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この後、天王寺駅まで歩きました。


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ご訪問していただきありがとうございました。



19.淀川区をあるく(大阪) [ウォーキング大阪24区]

「淀川区をあるく」に参加してきました。(20171010)

神崎川河川敷
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大阪淀川区の歴史的な街並みなどを歩いてきました。

当日は晴れ、28.5℃。気持の良いウォーキングになりました。


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集合場所塚本駅近くの公園を出発して家具波志神社、富光寺、神崎川河川敷を経由して新高中央公園まで歩きます。

塚本駅近くの公園
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公園を出発して家具波志神社、富光寺に向かいます。
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家具波志神社(かぐはしじんじゃ)
天徳3年(959年)創建の古い歴史を持つ神社です。中世から江戸時代は稲荷信仰の中心地で「加島稲荷」と呼ばれました。祭礼の神輿に西国大名が道を譲ったほど威勢があったそうです。加島には元文3年(1738年)銭座が置かれ、品質のよい銅銭が造られました。神社の境内にある「香文館」には、この銭座の記録や、松木淡淡(俳人)・上田秋成の遺墨など、すばらしい社宝が保存されています。他に「楠木正儀駒つなぎ楠」、三好長慶奉納鳥居沓石」などもあるそうです。
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富光寺(ふっこうじ)
大化年間(645~650年)に、インドから来日し数々の奇跡を見せた法道上人が、当地区付近から霊光が出るとして阿弥陀仏を自ら彫り、堂を建て安置したのが当寺の起こりだとの伝承があります。この仏像は藤原前期の作と思われる丈六の見事なもので荘厳なたたずまいがあふれています。また、ある尼が聖徳太子の夢告を受け、草むらから仏舎利を拾い、当寺に納めたとの話も広く知られています。鎌倉時代には将軍北条時頼も訪れた古樹の繁茂する壮大な寺院だそうです。
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少し休憩後、神崎川沿いに新高中央公園に向かいます。
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旧猪名川です。
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神崎川河川敷を歩きます。
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新高中央公園に着きました。
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ここで、昼食休憩になりました。


昼食休憩後、十八条中央公園、蒲田神社、長柄人柱厳氏碑を経由して新大阪駅まで歩きました。

再び、神崎川河川敷を歩きます。
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商店街の中を歩きます。
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十八条中央公園に着きました。
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蒲田神社(かまたじんじゃ)
室町時代(1338~1573年)に地元の有力者佛生院又三郎が、「室の明神」の分霊をいただいて、村の鎮守として創建した神社。この付近は、蒲の生い茂る田園情緒豊かな所でしたから、明治42年からこの社名になりました。今も境内には大きな楠があるそうです。
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長柄人柱厳氏碑(ながらひとばしらいわおしのひ)
仁徳天皇が413年に高津宮を開かれたとき、摂津国長柄江には、多くの大小の島や沼沢、湿地帯、そして流れの速い所があり、大雨ともなればたちまち氾濫するなど、大変な交通の難所でした。そこで、都から山陰、山陽へ行くためには、長柄橋を造ることが仁徳天皇から推古天皇に至る200年間の最大の政治課題でした。推古天皇は、長柄橋の建設にとりかかられましたが、いま一歩というところで風水害にあい工事の中止を余儀なくされました。そのとき、垂水(豊津付近)の長者巌氏は、一身を犠牲にして長柄橋を完成することができれば、日ごろの報恩の精神に達することができると、人柱になることを献言しました。こうして、巌氏は白装束に身を包み、合掌し法華経を唱えつつ、生きながら川底に沈んだのです。人柱の霊験によって工事が進捗し、長柄大橋も竣工するに至ったといわれ、623年勅命によって大願寺が建立され、その寺内に徳を称えて碑が建立されたそうです。
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この後、新大阪駅まで歩きました。


ご訪問していただきありがとうございました。



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