嵐山もみじウォーク(京都) [ウォーキング京都市]
「嵐山もみじウォーク」に参加してきました。(20171109)
渡月橋
京都嵐山から広沢池、東映映画村などをを訪れてきました。
当日は晴れ、最高気温17.3℃。紅葉は少し早かったようですが、秋晴れの気持ち良いウォーキングになりました。
集合場所中之島公園を出発して嵐山公園展望台、落柿舎、二尊院、大覚寺、千代の古道、児神社を経由してすりばち池緑地まで歩きます。
中之島公園を出発します。
暫く歩くと嵐山公園展望台に着きました。
嵐山公園展望台
有名な竹林を通過します。
落柿舎、二尊院、大覚寺を通過して千代の古道の向かいます。
落柿舎(らくししゃ)
松尾芭蕉門下の向井去来(蕉門十哲の一人)が庵を結んだ事が始まり。商人が柿を買う約束をしていたが一夜にして柿が落ちてしまった故事が落柿舎の名の由来と言われている。松尾芭蕉も直接訪れた落柿舎は、向井去来死後衰退し正確な場所が不明になり、1770(明和7)年、現在の地に再興されたそうです。
二尊院(にそんいん)
本尊に釈迦・阿弥陀の二如来(重文)をまつり、正しくは二尊教院華台寺。天台宗。承和年間(834-48)慈覚大師円仁が開基。応仁・文明の乱のあと法然の弟子湛空が再興。総門は伏見城の遺構と伝える薬医門。広い参道は「紅葉の馬場」と呼ばれるそうです。
大覚寺(だいかくじ)
嵯嵯峨山と号する真言宗大覚寺派の大本山。当山は嵯峨天皇の離宮嵯峨院の一部で、天皇崩御の後の貞観18年(876)に寺に改められ、大覚寺と名付けられた。その後一時荒廃したが、徳治2年(1307)に後宇多天皇が入寺し、寺を復興するとともに大覚寺統を形成した。以後、持明院統と皇位継承について争い、明徳3年(1392)当寺で南北両朝の媾和が成立した。宸殿は、後水尾天皇の中宮東福門院の旧殿を移築したもので、内部は、狩野山楽筆の「牡丹図」、「紅白梅図」などの豪華な襖絵で飾られている。その外、御影堂(みえどう)、霊明殿(れいめいでん)、五大堂、安井堂、正寝殿(しょうしんでん)、庫裏などの堂宇が建ち並び、旧御所の絢爛さを今に伝えているそうです。
千代の古道(ちよのこどう)
平安京ができる前から宇多野・嵯峨野へと通じた古道。都人たちがこの道を通ってお月見に出かけたともいわれているそうです。このあたりになると人も少なってきました。
千代の古道を歩き、児神社、広沢池を通過してすりばち池緑地に向かいます。
児神社(ちごじんじゃ)
大覚寺近く広沢池のほとりにある小さな神社。祭神は広沢の地に遍照寺を建立した名僧、寛朝大僧正(かんちょうだいそうじょう)の侍児。平安時代中期の998年(長徳4年)6月12日、寛朝大僧正が亡くなると仕えていた侍児は、悲嘆・悲泣して寛朝大僧正の後を追って、遍照寺山腹下に広がる広沢の池に身を沈めたと伝えられます。その後、近在の人々がこの児を哀れと思って、その霊を慰めるためにこの社を創建、以来児神社と称されるようになったということです。今では訪れる人も少なくひっそりとした神社です。寛朝大僧正が座禅した際に傍らでいつも侍児が腰を掛けていたという石椅子が、境内に移されて拝殿右側に置かれています。いつの頃からか、神前で一心に祈願して、この石に座れば、必ず長命・安産・縁結びが叶うと伝えられるようになったそうです。
広沢池
すりばち池緑地に着きました。
すりばち池緑地で昼食休憩になりました。
昼食休憩後、東映太秦映画村、広隆寺を経由して太秦駅まで歩きました。
東映太秦映画村(とうえいうずまさえいがむら)
忍者体験、変身体験などのアトラクションだけでなく、東映アニメキャラクターのイベント が楽しめる体験型テーマパーク東映太秦映画村。江戸の町オープンセットで時代劇や映画の撮影シーンが見れることも魅力だそうです。
広隆寺(こうりゅうじ)
603年(推古天皇11年)秦河勝が聖徳太子から賜った仏像を本尊として建立した京都最古の寺。その本尊が国宝指定第1号の弥勒菩薩像。桂宮院(国宝)は法隆寺の夢殿に似た単層八角円堂。10月の‘牛祭’は京都三大奇祭の一つだそうです。
この後、太秦駅まで歩きました。
ご訪問していただきありがとうございました。
渡月橋
京都嵐山から広沢池、東映映画村などをを訪れてきました。
当日は晴れ、最高気温17.3℃。紅葉は少し早かったようですが、秋晴れの気持ち良いウォーキングになりました。
集合場所中之島公園を出発して嵐山公園展望台、落柿舎、二尊院、大覚寺、千代の古道、児神社を経由してすりばち池緑地まで歩きます。
中之島公園を出発します。
暫く歩くと嵐山公園展望台に着きました。
嵐山公園展望台
有名な竹林を通過します。
落柿舎、二尊院、大覚寺を通過して千代の古道の向かいます。
落柿舎(らくししゃ)
松尾芭蕉門下の向井去来(蕉門十哲の一人)が庵を結んだ事が始まり。商人が柿を買う約束をしていたが一夜にして柿が落ちてしまった故事が落柿舎の名の由来と言われている。松尾芭蕉も直接訪れた落柿舎は、向井去来死後衰退し正確な場所が不明になり、1770(明和7)年、現在の地に再興されたそうです。
二尊院(にそんいん)
本尊に釈迦・阿弥陀の二如来(重文)をまつり、正しくは二尊教院華台寺。天台宗。承和年間(834-48)慈覚大師円仁が開基。応仁・文明の乱のあと法然の弟子湛空が再興。総門は伏見城の遺構と伝える薬医門。広い参道は「紅葉の馬場」と呼ばれるそうです。
大覚寺(だいかくじ)
嵯嵯峨山と号する真言宗大覚寺派の大本山。当山は嵯峨天皇の離宮嵯峨院の一部で、天皇崩御の後の貞観18年(876)に寺に改められ、大覚寺と名付けられた。その後一時荒廃したが、徳治2年(1307)に後宇多天皇が入寺し、寺を復興するとともに大覚寺統を形成した。以後、持明院統と皇位継承について争い、明徳3年(1392)当寺で南北両朝の媾和が成立した。宸殿は、後水尾天皇の中宮東福門院の旧殿を移築したもので、内部は、狩野山楽筆の「牡丹図」、「紅白梅図」などの豪華な襖絵で飾られている。その外、御影堂(みえどう)、霊明殿(れいめいでん)、五大堂、安井堂、正寝殿(しょうしんでん)、庫裏などの堂宇が建ち並び、旧御所の絢爛さを今に伝えているそうです。
千代の古道(ちよのこどう)
平安京ができる前から宇多野・嵯峨野へと通じた古道。都人たちがこの道を通ってお月見に出かけたともいわれているそうです。このあたりになると人も少なってきました。
千代の古道を歩き、児神社、広沢池を通過してすりばち池緑地に向かいます。
児神社(ちごじんじゃ)
大覚寺近く広沢池のほとりにある小さな神社。祭神は広沢の地に遍照寺を建立した名僧、寛朝大僧正(かんちょうだいそうじょう)の侍児。平安時代中期の998年(長徳4年)6月12日、寛朝大僧正が亡くなると仕えていた侍児は、悲嘆・悲泣して寛朝大僧正の後を追って、遍照寺山腹下に広がる広沢の池に身を沈めたと伝えられます。その後、近在の人々がこの児を哀れと思って、その霊を慰めるためにこの社を創建、以来児神社と称されるようになったということです。今では訪れる人も少なくひっそりとした神社です。寛朝大僧正が座禅した際に傍らでいつも侍児が腰を掛けていたという石椅子が、境内に移されて拝殿右側に置かれています。いつの頃からか、神前で一心に祈願して、この石に座れば、必ず長命・安産・縁結びが叶うと伝えられるようになったそうです。
広沢池
すりばち池緑地に着きました。
すりばち池緑地で昼食休憩になりました。
昼食休憩後、東映太秦映画村、広隆寺を経由して太秦駅まで歩きました。
東映太秦映画村(とうえいうずまさえいがむら)
忍者体験、変身体験などのアトラクションだけでなく、東映アニメキャラクターのイベント が楽しめる体験型テーマパーク東映太秦映画村。江戸の町オープンセットで時代劇や映画の撮影シーンが見れることも魅力だそうです。
広隆寺(こうりゅうじ)
603年(推古天皇11年)秦河勝が聖徳太子から賜った仏像を本尊として建立した京都最古の寺。その本尊が国宝指定第1号の弥勒菩薩像。桂宮院(国宝)は法隆寺の夢殿に似た単層八角円堂。10月の‘牛祭’は京都三大奇祭の一つだそうです。
この後、太秦駅まで歩きました。
ご訪問していただきありがとうございました。