伊勢本街道をあるく その2(伊勢本街道) [ウォーキング伊勢本街道]
「伊勢本街道をあるく その2」に参加してきました。(20190226)
石切剣箭神社
花園ラグビー場
伊勢本街道
江戸時代庶民の間で大流行した伊勢参り(おかげ参り)の道は、上方からの場合、大阪玉造が起点となり、暗越奈良街道、上ツ道、初瀬街道を経て伊勢本街道に入り伊勢神宮内宮までの170km の道のりだそうです。
今回の「伊勢本街道をあるく」は、玉造稲荷神社から伊勢神宮内宮までを分割して2年間で歩きます。1年目は玉造稲荷神社から榛原まで、2年目は榛原から伊勢神宮まで歩きます。最後まで続けられるように頑張りたいと思います。
「伊勢本街道をあるく」の第2回目は河内永和駅に集合して、花園ラグビー場、石切剣箭神社から枚岡神社まで歩きました。
当日は晴れ、最高気温15.1℃。気持ち良いウォーキングになりました。
集合場所河内永和駅近くの鴨高田神社を出発して、天神社、三井会所跡、春日若宮神社、八剱神社、吉田春日神社を経由して花園ラグビー場まで歩きます。
河内永和駅近くの鴨高田神社
鴨高田神社(かもたかだじんじゃ))
当社は鴨(賀茂)氏の一族が673年(白鳳2年)に創建したと伝えられる延喜式内社で、祭神に速須佐之男命及び大鴨積命(素盞鳴命の十一世孫で、鴨氏の開祖)を祀ったのが当社の始まりで、中世に入り、岩清水八幡宮領となり、神功皇后、応神天皇を合祀し、「八幡宮」と称される様になった。1615年(元和元年)大坂夏の陣にはこの付近が戦場となり、当社も兵火にかかり、社殿はことごとく烏有に帰したが、後数年を経て、再建されている。 隣接している長栄寺とは掛かり合いが深く、江戸時代の案内書「河内名所図会」には、『長栄寺の鎮守となり、今八幡と称される』とある。1868年(明治元年)の神仏分離後、1872年(明治5年)郷社に列せられた。現在の社殿及び拝殿は1907年(明治14年)の再建だそうです。
鴨高田神社を出発します。
天神社(あまつかむやしろ)
旧御厨村の中央に位置し、大名持命、少彦名命の二神をおまつりしています。創建年代は文献が無く解りませんが、延喜式神名帳にみえる意岐部神社がこの神社であるとも伝えられています。古くは御厨神社と呼ばれ、近世以後に現在の社名が使われるようになりました。また、大正4年には新家村の菅原神社と菱屋東の稲荷神社と山科神社、荒本の荒本神社の4社が合祀されました。境内には、市の天然記念物に指定されている「くすの木」があるほか、本殿東側にある小さな四社の殿前の元禄10年(1697)銘の石燈篭や拝殿西側にある高さが3mもある堂々とした八角形大型石燈篭など数々、寛成9年(1797)銘の狛犬、正徳元年銘の手水鉢などの石造物があります。また、枚岡神社から移築された能舞台や村相撲が盛んであったことを示す番付表も保存されています。ところで、御厨という地名は、朝廷にお供えする魚介類を獲るため、平安時代の延喜5年(908)、付近に拡がる湖沼一体を「大江御厨」と定めたことに由来するそうです。
三井会所跡(みついかいしょあと)
植田家のすぐ東に三井新田会所跡がある。小さな祠は玉岡神社といい会所により管理されていた。新家村の商人・菱屋庄左衛門が新田開発を請負ったので、ここの地名は「菱屋中」となっている。大和川付け替え工事後に開発されたこれらの新田は、享保17年(1732)江戸の三井家の所有となった。三井新田会所跡はこの新田を管理する事務所だったそうです。
荒本西公園で少し休憩になりました。
春日若宮神社(かすがわかみやじんじゃ)
神社入口鳥居に架かる注連縄の〆の子の緒に、可愛い飾り結びがあり、境内にはいると、拝殿前に「七大龍王 白龍大神」と書かれた額が架かるご神木が大事に祀られています。荒本の産土神で、御祭神は天押雲根命(天児屋根命の子)ですが、案内が無く、勧請年月・縁起・沿革等は全て不明だそうです。
八剱神社(やつるぎじんじゃ)
稲荷神社の鎮座していた社地に、後から八劔大明神が奉祀されたそうです。御祭神は宇賀御魂之神(稲荷の祖神)・味耜高彦根之命(八劔大神)。境内は古代大和川河口に島があり、その西側に、応永三年(1396)に稲荷神である宇賀御魂神を勧請して創祀しました。 応永3年(1396)の頃、先住者はこの地で劔を作っていたといわれ、この地にも神社創建請願の声が高まり、文久2年(1862)放出の阿遅速雄神社の味耜高彦根之命を勧請して八剣神社を祭祀したそうです。
河内花園駅を通過して駅前の商店街を歩きます。
吉田春日神社(よしだかすがじんじゃ)
奈良の春日大社の御祭神を勧請した御分社。本殿は大阪府の有形文化財に指定。花園ラグビー場に近く、大きなラグビーボールが奉納されている。別称ラグビー神社とも呼ばれており、正月の全国高校ラグビー大会、ジャパントップリーグの開催期間には関係者の参詣が多く、全国唯一のラグビー守袋を扱うそうです。
花園ラグビー場(はなぞのらぐびーじょう)
東大阪市花園ラグビー場は日本最初のラグビー専用グラウンドで収容人数3万人のスタジアム。全国高等学校ラグビーフットボール大会、ジャパンラグビートップリーグなど数多くの国際試合などが開催され、全国高校ラグビーの聖地であり、2019年ラグビーワールドカップ開催地の一つに決定。
2019年9月22日、9月28日、10月3日の試合の看板が掲示されていました。
花園ラグビー場で昼食休憩になりました。
休憩後、松原宿跡、石切剣箭神社、額田戎神社を経由して枚岡神社まで歩きました。
直ぐに、松原宿跡に着きました。
松原宿跡(まつばらじゅくあと)
松原宿は、旧大和川の分流吉田川と恩智川との間に位置し、江戸時代初期に伊勢参りなどで暗越奈良街道を通る旅人の利用を見込み、幕府が街道唯一の宿場として創設したそうです。
石切剣箭神社に向かいます。
正面の生駒山のふもとにある枚方神社まで歩きます。
恩智川沿いを歩きます。
石切剣箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)
石切劔箭神社は「石切さん」と呼ばれ「でんぼ(腫れ物)の神様」として親しまれ、本殿前と神社入り口にある百度石の間を行き来するお百度参りが全国的に有名だそうです。この日もお百度参りしている人が多くいました。
石切参道商店街を歩きます。
額田戎神社(ぬかたえびすじんじゃ)
創建は江戸時代末。祭神はヱビスさん(事代主命)。当社は始め当地の人が毎夜霊感に悩まされて、西宮のヱビス神を勧請したと(夢のお告)云われています。明治5年枚岡神社へ合祀され、後に復社しました。天保15年(1844)村明細帳に夷大明神とあります。明治5年以降、額田戎神社として村人達によりお祭りされています。また、二匹の狛犬は足止の犬として狛犬の足に願い事を書いた白布をしっかりと結びつけて置くと願い事が叶うと言われているそうです。
枚岡神社に着きました。
枚岡神社(ひらおかじんじゃ)
延喜式の神名帳にものせられ河内の国一の宮を誇る古社。毎年初めにその年の豊作、凶作を小豆粥を使って占う粥占神事が行われ、秋祭りには多くの太鼓台や地車が宮入りし、華やかで勇壮だそうです。
枚岡駅は目の前にありました。
ご訪問していただきありがとうございました。
石切剣箭神社
花園ラグビー場
伊勢本街道
江戸時代庶民の間で大流行した伊勢参り(おかげ参り)の道は、上方からの場合、大阪玉造が起点となり、暗越奈良街道、上ツ道、初瀬街道を経て伊勢本街道に入り伊勢神宮内宮までの170km の道のりだそうです。
今回の「伊勢本街道をあるく」は、玉造稲荷神社から伊勢神宮内宮までを分割して2年間で歩きます。1年目は玉造稲荷神社から榛原まで、2年目は榛原から伊勢神宮まで歩きます。最後まで続けられるように頑張りたいと思います。
「伊勢本街道をあるく」の第2回目は河内永和駅に集合して、花園ラグビー場、石切剣箭神社から枚岡神社まで歩きました。
当日は晴れ、最高気温15.1℃。気持ち良いウォーキングになりました。
集合場所河内永和駅近くの鴨高田神社を出発して、天神社、三井会所跡、春日若宮神社、八剱神社、吉田春日神社を経由して花園ラグビー場まで歩きます。
河内永和駅近くの鴨高田神社
鴨高田神社(かもたかだじんじゃ))
当社は鴨(賀茂)氏の一族が673年(白鳳2年)に創建したと伝えられる延喜式内社で、祭神に速須佐之男命及び大鴨積命(素盞鳴命の十一世孫で、鴨氏の開祖)を祀ったのが当社の始まりで、中世に入り、岩清水八幡宮領となり、神功皇后、応神天皇を合祀し、「八幡宮」と称される様になった。1615年(元和元年)大坂夏の陣にはこの付近が戦場となり、当社も兵火にかかり、社殿はことごとく烏有に帰したが、後数年を経て、再建されている。 隣接している長栄寺とは掛かり合いが深く、江戸時代の案内書「河内名所図会」には、『長栄寺の鎮守となり、今八幡と称される』とある。1868年(明治元年)の神仏分離後、1872年(明治5年)郷社に列せられた。現在の社殿及び拝殿は1907年(明治14年)の再建だそうです。
鴨高田神社を出発します。
天神社(あまつかむやしろ)
旧御厨村の中央に位置し、大名持命、少彦名命の二神をおまつりしています。創建年代は文献が無く解りませんが、延喜式神名帳にみえる意岐部神社がこの神社であるとも伝えられています。古くは御厨神社と呼ばれ、近世以後に現在の社名が使われるようになりました。また、大正4年には新家村の菅原神社と菱屋東の稲荷神社と山科神社、荒本の荒本神社の4社が合祀されました。境内には、市の天然記念物に指定されている「くすの木」があるほか、本殿東側にある小さな四社の殿前の元禄10年(1697)銘の石燈篭や拝殿西側にある高さが3mもある堂々とした八角形大型石燈篭など数々、寛成9年(1797)銘の狛犬、正徳元年銘の手水鉢などの石造物があります。また、枚岡神社から移築された能舞台や村相撲が盛んであったことを示す番付表も保存されています。ところで、御厨という地名は、朝廷にお供えする魚介類を獲るため、平安時代の延喜5年(908)、付近に拡がる湖沼一体を「大江御厨」と定めたことに由来するそうです。
三井会所跡(みついかいしょあと)
植田家のすぐ東に三井新田会所跡がある。小さな祠は玉岡神社といい会所により管理されていた。新家村の商人・菱屋庄左衛門が新田開発を請負ったので、ここの地名は「菱屋中」となっている。大和川付け替え工事後に開発されたこれらの新田は、享保17年(1732)江戸の三井家の所有となった。三井新田会所跡はこの新田を管理する事務所だったそうです。
荒本西公園で少し休憩になりました。
春日若宮神社(かすがわかみやじんじゃ)
神社入口鳥居に架かる注連縄の〆の子の緒に、可愛い飾り結びがあり、境内にはいると、拝殿前に「七大龍王 白龍大神」と書かれた額が架かるご神木が大事に祀られています。荒本の産土神で、御祭神は天押雲根命(天児屋根命の子)ですが、案内が無く、勧請年月・縁起・沿革等は全て不明だそうです。
八剱神社(やつるぎじんじゃ)
稲荷神社の鎮座していた社地に、後から八劔大明神が奉祀されたそうです。御祭神は宇賀御魂之神(稲荷の祖神)・味耜高彦根之命(八劔大神)。境内は古代大和川河口に島があり、その西側に、応永三年(1396)に稲荷神である宇賀御魂神を勧請して創祀しました。 応永3年(1396)の頃、先住者はこの地で劔を作っていたといわれ、この地にも神社創建請願の声が高まり、文久2年(1862)放出の阿遅速雄神社の味耜高彦根之命を勧請して八剣神社を祭祀したそうです。
河内花園駅を通過して駅前の商店街を歩きます。
吉田春日神社(よしだかすがじんじゃ)
奈良の春日大社の御祭神を勧請した御分社。本殿は大阪府の有形文化財に指定。花園ラグビー場に近く、大きなラグビーボールが奉納されている。別称ラグビー神社とも呼ばれており、正月の全国高校ラグビー大会、ジャパントップリーグの開催期間には関係者の参詣が多く、全国唯一のラグビー守袋を扱うそうです。
花園ラグビー場(はなぞのらぐびーじょう)
東大阪市花園ラグビー場は日本最初のラグビー専用グラウンドで収容人数3万人のスタジアム。全国高等学校ラグビーフットボール大会、ジャパンラグビートップリーグなど数多くの国際試合などが開催され、全国高校ラグビーの聖地であり、2019年ラグビーワールドカップ開催地の一つに決定。
2019年9月22日、9月28日、10月3日の試合の看板が掲示されていました。
花園ラグビー場で昼食休憩になりました。
休憩後、松原宿跡、石切剣箭神社、額田戎神社を経由して枚岡神社まで歩きました。
直ぐに、松原宿跡に着きました。
松原宿跡(まつばらじゅくあと)
松原宿は、旧大和川の分流吉田川と恩智川との間に位置し、江戸時代初期に伊勢参りなどで暗越奈良街道を通る旅人の利用を見込み、幕府が街道唯一の宿場として創設したそうです。
石切剣箭神社に向かいます。
正面の生駒山のふもとにある枚方神社まで歩きます。
恩智川沿いを歩きます。
石切剣箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)
石切劔箭神社は「石切さん」と呼ばれ「でんぼ(腫れ物)の神様」として親しまれ、本殿前と神社入り口にある百度石の間を行き来するお百度参りが全国的に有名だそうです。この日もお百度参りしている人が多くいました。
石切参道商店街を歩きます。
額田戎神社(ぬかたえびすじんじゃ)
創建は江戸時代末。祭神はヱビスさん(事代主命)。当社は始め当地の人が毎夜霊感に悩まされて、西宮のヱビス神を勧請したと(夢のお告)云われています。明治5年枚岡神社へ合祀され、後に復社しました。天保15年(1844)村明細帳に夷大明神とあります。明治5年以降、額田戎神社として村人達によりお祭りされています。また、二匹の狛犬は足止の犬として狛犬の足に願い事を書いた白布をしっかりと結びつけて置くと願い事が叶うと言われているそうです。
枚岡神社に着きました。
枚岡神社(ひらおかじんじゃ)
延喜式の神名帳にものせられ河内の国一の宮を誇る古社。毎年初めにその年の豊作、凶作を小豆粥を使って占う粥占神事が行われ、秋祭りには多くの太鼓台や地車が宮入りし、華やかで勇壮だそうです。
枚岡駅は目の前にありました。
ご訪問していただきありがとうございました。