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12.生野区をあるく(大阪) [ウォーキング大阪24区]

「生野区をあるく」に参加してきました。(20170613)

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大阪市生野区の歴史ある街並みを歩いてきました。

当日は晴れ、25.5℃。気持良いウォーキングになりました。


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集合場所JR 桃谷駅近くの公園を出発して弥栄神社、御幸森神社、つるはしの跡、舎利尊勝寺、生野神社、生野八坂神社、成恩寺、桑津天神社、京善寺、田島神社を経由して巽公園まで歩きます。

JR 桃谷駅近くの公園を出発します。
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弥栄神社(やえじんじゃ)
 神祖素盞嗚命(すさのおのみこと)を文録年間に熊野巫神社(旧出雲国意宇郡)より分霊奉還したのがはじまりと旧記にあります。 その当時は牛頭(ごず)天王社と呼ばれ、創立以来旧木野(この)村の鎮守として崇敬厚く宮座(みやざ)を設けて奉仕し、明治5(1872)年村社に列せられ、社号もこの時に彌栄神社と改められました。明治43(1910)年、氏子協議のうえ大字岡村(現勝山北4丁目)の御館(みたて)神社を合祀。その御館神社は、旧岡村の生土神(うぶすながみ)でいばらの神と呼ばれ、仁徳天皇の的殿(まとどの)の旧跡で、現在は彌栄神社の御旅所(おたびしょ)となっているそうです。
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御幸森天神宮(みゆきもりてんじんぐう)
仁徳天皇・少彦名命(すくなひこなのみこと)・押坂彦命(おさかひこのみこと)を主祭神としています。江戸時代には『御幸宮』または『天皇天神社』と称していました。社頭に立てられた由来碑によると、仁徳天皇のとき百済野の北端にあった小丘に鷹を放って天皇がそれをご覧になったところから御幸森の名が起こったと刻まれています。また、境内にある5本のムクノキ(椋)の老樹は『まちの貴重な緑をみんなの力で守っていこう』との願いから、市の保存樹林に指定されているそうです。
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つるはしの跡
むかし、このあたりに鶴が多数飛来したことから橋の名となったようです。一説には、西暦 323年に百済川に架設された橋で猪甘津橋の古跡ともいわれ、『日本書紀』仁徳天皇14年11月の条に『猪甘津に橋を為(わた)す。即ち、そのところを号(なず)けて小橋という』と記され、文献にでている橋ではわが国最古のものといわれています。『つるのはし』は、旧桃谷街道・鶴橋街道が旧平野川を渡る地点に架けられ、古くは河内・大和への交通の要所。新平野川の開削により、昭和15(1940)年に廃橋、石碑と当時の親柱4本を記念に保存し、平成9年4 月に『つるのはし跡公園』として再整備されたそうです。
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舎利尊勝寺(しゃりそんしょうじ)
正しくは、南岳山舎利尊勝寺と呼ばれ禅宗の一派に属し、本尊は釈迦如来です。約1400年前、用明天皇のころ、生野長者と呼ばれる長者に言葉の不自由な子が生まれました。長者が、四天王寺伽藍を設立するために来ていた聖徳太子にすがると、太子はその子に向かい「わたしが前世に預けた3つの仏舎利を返しなさい」といいました。すると3つの仏舎利を吐き出し、それからは普通に話せるようになりました。太子はそのうち、ひとつを法隆寺に、ひとつを四天王寺に、残った一つを長者に渡しました。長者が、お堂を建てて、この仏舎利を奉ったのが、舎利寺の起源と言われているそうです。
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生野神社(いくのじんじゃ)
木瓜(もっこう)を神紋とする生野神社の古名は、牛頭(ごず)天王宮という神号を用い、明治5(1872)年村社、明治42(1909)年素盞嗚尊(すさのおのみこと)神社を経て、戦後の昭和22(1947)年に生野神社と改称。 神社の鳥居は小振りながら宝永7(1710)年の刻銘があり、区内では最も古い貴重なもので、鳥居より背の高い大きな歌碑と榎・いちょうの古木が景観を添えています。また、拝殿前の一対の狛犬は天保4(1833)年のもので、お伊勢参りが大流行した江戸期の貴重な記念物です。これは村の氏神さんへの崇敬を疎かにしなかった証拠品となっているそうです。
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生野八坂神社(いくのやさかじんじゃ)
東成郡誌第三編、生野村第四神社の項に『素盞嗚尊(すさのおのみこと)神社、大字林寺字林に鎮座せり…』とあり、その創祀は諸書に『元禄二巳(1689)年勧請』とありますが、他にも説があって定かではありません。東成郡林寺村(旧地名)の氏神様として崇敬されていましたが、明治41(1908)年に天王寺区の河堀稲生神社に合祀され、境内地も『河堀稲生神社御旅所(おたびしょ)』となりました。その後、氏子有志の熱誠なる努力によって復興造営が完成し、昭和30(1955)年御神霊の還御を仰ぎ『生野八坂神社』の認証を受け、『生野の祇園様』として今日に至っているそうです。
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成恩寺(じょうおんじ)
関白一条実経公が弘安2年(1278)山崎邑に創建し、臨済宗東福寺開山聖一国師の弟子奇山円然禅師を招して開山とし、宝興山成恩寺と名づけられました。その後梅田に移築しましたが、大阪駅の拡張により、現在の林寺の地に移転、東福寺大阪別院と改名し、また、昭和61(1986)年6月本山の命により元の寺号である宝興山成恩寺となりました。東福寺派の準別格として高い寺格をもっているそうです。境内には福徳弁財天像・生野天神・釈迦涅槃石像・延命地蔵尊・相撲力士墓があり、大阪場所ごとに北の湖部屋の宿舎となっているそうです。
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桑津天神社(くわづてんじんじゃ)
「日本書記」によると応神天皇(4世紀)の頃、日向の国から美女の誉高い、髪長媛(かみながひめ) を召され桑津の地に住まわせたと記される。媛はのちに仁徳天皇の妃となられた。髪長媛は桑津天神社に奉祀される以前は、明治6年廃寺となった金蓮寺が髪長媛の宮跡であった関係で、境内の八幡宮に奉祀されています。また桑津天神社には少彦名命(すくなひこなのみこと)も祀られているが、これは髪長媛の病気祈願のため医薬の祖神である少彦名命が祀られたとの伝えによっているそうです。
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京善寺(きょうぜんじ)
当山の縁起は、古くは「金剛院」と称せられ厄除祈願道場として栄えていたが、1615年(元和元年)大坂夏の陣に合戦の場となり、兵火で寺は焼失したため、詳細は不明とのこと。この時期、寺は荒廃したが、1653年(承応2年)桑津村の篤信者富井部氏などの霊夢に不動明王が出現され、寺の再興を告げられたため、紀州より観弘実誉阿闍梨を招き堂宇を再興、寺号を心王山殊勝院京善寺と改めた。紀州根来寺の不動明王と同木同作(興教大師の作と伝えられる)の不動明王を勧請し本尊とした。以来、「身代り厄除け不動」「くわづ不動」として多くの人々の信仰を集め、現在に至っているそうです。
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田島神社(たじまじんじゃ)
創祀・創建年代は不詳。古い記録は洪水などで紛失したという。江戸時代前期の貞享元年(1684年)銘のある石灯籠がある。社宝の後陽成天皇御宸筆の軸や神額などによれば、その頃、菅原大神を主神とし、事代主命・八幡大神を相殿として、天満宮と呼ばれていた。江戸時代中期から後期の寛政4年(1792年)には、少彦名命を主神として、天神社と呼ばれ、現在に至るそうです。
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巽公園に着きました。
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巽公園で昼食休憩になりました。


昼食休憩後、旧巽村役場跡、巽東緑地、巽神社を経由して地下鉄 南巽駅まで歩きました。


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巽東緑地
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巽神社(たつみじんじゃ)
社伝によれば、巽神社は応神天皇を奉り旧河内国渋川郡大地(おおぢ)村にあり、八幡(はちまん)神社といわれていました。創建年代は明らかではありませんが、平安時代に編纂された和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)巻の六にも河内国澁川郡に邑智(おおち)とあるほか、竹淵(たかふち)、餘戸、跡部(あとべ)、賀美(かみ)、と集落があり、氏神を祀る風習から既に神社が祀られていたようです。明治40(1907)年4月、大地「横野神社」、伊賀ヶ字伊賀ヶ「天神社」、西足代字葭の内「天照皇大神社」、矢柄字宮の前「熊野神社」、四条字山小路「天神社」の五社を合祀、村の名をとって巽神社と改称したそうです。
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この後、南巽駅まで歩きました。


ご訪問していただきありがとうございました。



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