04.西区をあるく(大阪) [ウォーキング大阪24区]
「西区をあるく」に参加してきました。(20160614)
靭公園
大阪市の西区の安治川隊道、中央卸売市場、川口界隈および西区の由緒ある神社などを訪れてきました。
当日は晴れ、気持良いウォーキングになりました。
集合場所京セラドーム前を出発して、大阪市電創業の地、安治川隊道、大阪中央卸売市場、川口基督教会を経由して靭公園まで歩きます。
京セラドーム
大阪市電創業の地(おおさかしでんそうぎょうのち)
大阪市電の創業は、明治36年(1903)9月。花園橋西詰から築港埠頭まで約5kmに運行された。総車両5、そのうち1両は2階建て電車で、夏は納涼、魚釣り電車でにぎわった。その後市民の足として発展を遂げ、最盛期には路線総延長約116km(昭和20年)、年間延乗客数約5億 2,200万人(昭和18年)であった。しかし都市交通事清から、昭和44年にはすべて撤去され、66年に及ぶ歴史を閉じたそうです。
九条の商店街を歩きます。
安治川隊道(あじがわずいどう)
安治川の下を通る全長約81mのトンネルの「川底トンネル」。安治川を渡る人が増加したため計画され、1944年9月15日に開通したそうです
大阪中央卸売市場(おおさかちゅうおうおろしうりいちば)
大阪の台所です。
ここで休憩になりました。
休憩後、川口界隈から靭公園まで歩きます。
川口基督教会(かわぐちきりすときょうかい)
明治初期に創設された教会で、川口に外国人居留地が設置され、多くの外国人が居住。長崎から大阪にやってきた米国聖公会宣教師が英学講義所の開講と英語での礼拝を始めたそうです。
靭公園
ここで昼食休憩になりました。
昼食休憩後はサムハラ神社、和光寺、 難波神社、南御堂、北御堂、御霊神社、大阪倶楽部を経由して北新地駅まで歩きました。
サムハラ神社
サムハラという言葉の語源はチベットで古くから使われている「シャンバラ」という言葉が元になっているとされ、幸福についての維持や収集、平和といった言葉が秘められている。また特別な気のエネルギーを感じられるとされており、合気道の守護神としても崇められているそうです。
和光寺(わこうじ)
1698年堀江新地開発のとき、幕府の命により、境内1800坪を永代寺地に定められ、智善上人が長野の善光寺本尊出現の霊地として寺堂を建立し、「蓮池山智善院和光寺」と称したのに始まる。江戸時代には本堂のほかに、観音堂、閻魔堂、愛染堂、薬師堂、金毘羅権現など10以上の諸堂を数え、境内には店屋が軒を連ね、門前には芝居が興行され、大いに賑わった。1945年3月の空襲で、本堂を始め、諸堂、庫裡が全焼した。戦後の区画整理のため、境内地は随分と削られたが、1947年には仮堂を建立、その後、放光閣、庫裡と再建し、1961年には本堂の再建が成ったそうです。
和光寺からは四ツ橋筋を通過して御堂筋に出ます。
御堂筋を北上します。
難波神社(なんばじんじゃ)
創建は5世紀中頃と伝えられていて、彦六座、稲荷文楽座跡としても知られ船場の粋人達が芝居、文楽に興じた場所でもあったそうです。
南御堂(みなみみどう)
正式名称は東本願寺難波別院。船場商人の信仰の中心とされ、本堂は鎌倉様式の鉄筋建ての建物。昭和36年に復興されたそうです。
北御堂(きたみどう)
正式名称は西本願寺津村別院で東本願寺難波別院と共に御堂筋の名の由来となったお寺だそうです。
御霊神社(ごりょうじんじゃ)
当神社は八百年代後半の創建。古来大阪市の船場、中之島、土佐堀、江戸堀、京町堀、阿波堀、阿波座、薩摩堀及び立売堀、長掘の西部、南北堀江の西部等旧摂津国津村郷の産土神として信仰の中心になっていたそうです。
大阪倶楽部(おおさかくらぶ)
建設1924年。綿業会館、大阪ガスビルとともに大阪三大名建築のひとつ。ガスビルと同じく安井武雄氏設計で南欧風の様式に東洋風の手法を加味そうです。現在も大阪倶楽部の会員制会館として利用されているそうです。
この後、ゴールの北新地駅まで歩きました。
追記)
途中で見かけた桔梗です
(感謝とお詫び)
いつもNiceを頂き有難うございます。
勝手を言って申し訳ありませんが、今回、Niceを閉じさせて頂きます。
ご訪問していただきありがとうございました。
靭公園
大阪市の西区の安治川隊道、中央卸売市場、川口界隈および西区の由緒ある神社などを訪れてきました。
当日は晴れ、気持良いウォーキングになりました。
集合場所京セラドーム前を出発して、大阪市電創業の地、安治川隊道、大阪中央卸売市場、川口基督教会を経由して靭公園まで歩きます。
京セラドーム
大阪市電創業の地(おおさかしでんそうぎょうのち)
大阪市電の創業は、明治36年(1903)9月。花園橋西詰から築港埠頭まで約5kmに運行された。総車両5、そのうち1両は2階建て電車で、夏は納涼、魚釣り電車でにぎわった。その後市民の足として発展を遂げ、最盛期には路線総延長約116km(昭和20年)、年間延乗客数約5億 2,200万人(昭和18年)であった。しかし都市交通事清から、昭和44年にはすべて撤去され、66年に及ぶ歴史を閉じたそうです。
九条の商店街を歩きます。
安治川隊道(あじがわずいどう)
安治川の下を通る全長約81mのトンネルの「川底トンネル」。安治川を渡る人が増加したため計画され、1944年9月15日に開通したそうです
大阪中央卸売市場(おおさかちゅうおうおろしうりいちば)
大阪の台所です。
ここで休憩になりました。
休憩後、川口界隈から靭公園まで歩きます。
川口基督教会(かわぐちきりすときょうかい)
明治初期に創設された教会で、川口に外国人居留地が設置され、多くの外国人が居住。長崎から大阪にやってきた米国聖公会宣教師が英学講義所の開講と英語での礼拝を始めたそうです。
靭公園
ここで昼食休憩になりました。
昼食休憩後はサムハラ神社、和光寺、 難波神社、南御堂、北御堂、御霊神社、大阪倶楽部を経由して北新地駅まで歩きました。
サムハラ神社
サムハラという言葉の語源はチベットで古くから使われている「シャンバラ」という言葉が元になっているとされ、幸福についての維持や収集、平和といった言葉が秘められている。また特別な気のエネルギーを感じられるとされており、合気道の守護神としても崇められているそうです。
和光寺(わこうじ)
1698年堀江新地開発のとき、幕府の命により、境内1800坪を永代寺地に定められ、智善上人が長野の善光寺本尊出現の霊地として寺堂を建立し、「蓮池山智善院和光寺」と称したのに始まる。江戸時代には本堂のほかに、観音堂、閻魔堂、愛染堂、薬師堂、金毘羅権現など10以上の諸堂を数え、境内には店屋が軒を連ね、門前には芝居が興行され、大いに賑わった。1945年3月の空襲で、本堂を始め、諸堂、庫裡が全焼した。戦後の区画整理のため、境内地は随分と削られたが、1947年には仮堂を建立、その後、放光閣、庫裡と再建し、1961年には本堂の再建が成ったそうです。
和光寺からは四ツ橋筋を通過して御堂筋に出ます。
御堂筋を北上します。
難波神社(なんばじんじゃ)
創建は5世紀中頃と伝えられていて、彦六座、稲荷文楽座跡としても知られ船場の粋人達が芝居、文楽に興じた場所でもあったそうです。
南御堂(みなみみどう)
正式名称は東本願寺難波別院。船場商人の信仰の中心とされ、本堂は鎌倉様式の鉄筋建ての建物。昭和36年に復興されたそうです。
北御堂(きたみどう)
正式名称は西本願寺津村別院で東本願寺難波別院と共に御堂筋の名の由来となったお寺だそうです。
御霊神社(ごりょうじんじゃ)
当神社は八百年代後半の創建。古来大阪市の船場、中之島、土佐堀、江戸堀、京町堀、阿波堀、阿波座、薩摩堀及び立売堀、長掘の西部、南北堀江の西部等旧摂津国津村郷の産土神として信仰の中心になっていたそうです。
大阪倶楽部(おおさかくらぶ)
建設1924年。綿業会館、大阪ガスビルとともに大阪三大名建築のひとつ。ガスビルと同じく安井武雄氏設計で南欧風の様式に東洋風の手法を加味そうです。現在も大阪倶楽部の会員制会館として利用されているそうです。
この後、ゴールの北新地駅まで歩きました。
追記)
途中で見かけた桔梗です
(感謝とお詫び)
いつもNiceを頂き有難うございます。
勝手を言って申し訳ありませんが、今回、Niceを閉じさせて頂きます。
ご訪問していただきありがとうございました。