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王陵の谷と竹之内街道 [ウォーキング大阪市]

王陵の谷と竹之内街道(20201103)

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推古天皇陵


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叡福寺



3密(密閉、密集、密接)のand条件、or条件を共に回避しながら、「王陵の谷と竹之内街道」に参加しました。当日は晴れ、最高気温19.4℃。爽やかな秋晴れの中、気持ち良いウォーキングになりました。
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王陵の谷(おうりょうのたに)
「聖徳太子」のお墓があることで有名な太子町。7世紀には天皇の墓が相次いで作られた場所で「王陵の谷」とも呼ばれているです。

竹之内街道(たけのうちかいどう)
大阪府堺市から二上山の南麓・竹内峠を越えて、奈良県葛城市の長尾神社付近に至る約26 km の日本最古(正確にはこの国が日本と名乗る以前)の街道だそうです。


集合場所駒ケ谷駅近くの公園を出発して、大黒寺、壺井八幡宮、通法寺跡、源氏三代墓を経由して叡福寺まで歩きます。


駒ケ谷駅近くの公園を出発します。
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暫く歩くと、大黒寺を通過します。

大黒寺(だいこくじ)
寺伝によれば、役小角(えんのおづぬ)が修行中に刻んだ大黒天像を祀(まつ)る小さなお堂を建てたのがはじまりとされています。もとは南方の大黒坂の上にあり、中世には真言宗の寺院でありましたが、天正年間(1573~1592)の兵火により焼失しました。これを天和(てんな)年間(1681~1684)に曹洞宗の僧によって再興され、僧密山の代の享保19年(1734)に現在の地に移転再建されたと伝えられているそうです。
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壺井八幡宮を通過します。

壺井八幡宮(つぼいはちまんぐう)
石清水八幡宮の神霊とする壺井八幡宮と、河内源氏三代の源頼信、源頼義、源義家を祀る壺井神社の2社を総じて壺井八幡宮という。境内は小高い丘にあって、階段を上りきった正面に壺井八幡宮があり、その西側の少し奥まったところに壺井神社があるそうです。
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通法寺跡に着きました。

通法寺跡(つうほうじあと)
石川の東方に広がる丘陵地の谷部に立地。『通法寺興廃記』には長久4年(1043)源頼義が仁海谷で千手観音像をみつけ、館の南に精舎を建立し通法寺と号したのがはじまりと伝えられている。その後永徳年間(1381から84)には堂が雨露のため朽ち、かなり興廃したようです。江戸時代になって元禄13年(1700)、徳川綱吉が諸堂宇を再建しました。しかし再建された通法寺も明治6年(1873)になって、門、鐘楼(しょうろう)以外は取り壊されたそうです。
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境内には源頼義の墓がありました。
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近くにある源氏三大墓に向かいます。

源氏三代墓(げんじさんだいはか)
11世紀の中頃、源満仲の子頼信は河内国司に任ぜられて、河内国石川郡壺井に屋敷を構えました。その後、頼信の子である頼義と孫の義家の三代が壺井本拠地としたことから「河内源氏の発祥の地」と言われるようになりました。頼義と義家は、前九年の役や後三年の役で活躍し、特に義家は八幡太郎と呼ばれて東国に地盤を広げ、武家の棟梁としての地位を確立しました。 鎌倉幕府を開いた源頼朝の先祖にもあたります。88歳でこの世を去った頼義は、遺言により河内源氏の菩提寺である通法寺の観音堂の下に葬られたと伝えられています。現在、通法寺境内の西端に頼義の墓があり、石垣に囲まれた基壇が残っています。江戸時代に書かれた『河内名所図会』には堂が描かれており、かつては墓堂が建っていたことがわかります。また、頼信、義家は通法寺の南の山上に葬られたと伝えられ、円形の塚が残っているそうです。
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小高い丘を登ります。

源義家の墓がありました。
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叡福寺に向かいます。

さわやかな秋空、気持ち良かったです。
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叡福寺(えいふくじ)
聖徳太子の墓所とされる叡福寺北古墳(磯長墓〈しながのはか〉)があることで知られる。推古天皇30年(622年)旧暦2月22日(太陽暦4月11日頃)、太子が49歳で薨去された後、前日に亡くなった妃 膳部郎女(かしわべのおおいらつめ)と、2か月前に亡くなられた母 穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后と共に埋葬され、推古天皇より方六町の地を賜り、霊廟を守る香華寺として僧坊を置いたのが始まり。神亀元年(724年)には聖武天皇の勅願により七堂伽藍が造営されたと伝えられているそうです。
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叡福寺近くの公園で昼食休憩になりました。
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公園に聖徳太子十の七条憲法の銘鈑があありました。

十七条憲法
十七条憲法は、十七条の条約などを箇条書きした文章で、「夏四月 丙寅朔戊辰 皇太子親肇作憲法十七條」と書かれています。この皇太子とは、聖徳太子のことを指します。この十七条憲法は現在の憲法と違い、内容は官人の心得になっています。最初の第一条と、最期の第十七条の内容は、「和」がなによりも大事だということを重ねて注意しています。「争うことをせず、とことん話し合っていけば物事はうまく運ぶ」ということだそうです。

第一条、第十七条
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昼食休憩後、推古天皇陵、二子塚古墳、科長神社、小野妹子墓、竹之内街道を経由して上ノ太子駅
まで歩きました。


公園を出発します。

紅葉が綺麗でした。
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推古天皇陵(すいこてんのうりょう)
日本で初めての女帝である第33代推古天皇は、聖徳太子を摂政にし、大陸の隋との交渉によって先進的な政治制度や文化、芸術などを積極的に吸収し、政治の改革や仏教文化を中心とした飛鳥文化を花開かせました。推古天皇陵は、東西に長い三段築成の長方墳で、内部には2つの横穴式石室があると考えられています。太子町には、同様に1つの墳丘に2つの石室をもった古墳として、西約500メートルに位置する葉室塚古墳や南東200メートルの二子塚古墳が知られています。
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二子塚古墳(ふたごづかこふん)
大阪府南東部、二上山山麓の磯長谷において、金剛山地から伸びる台地状丘陵上に築造された古墳。
国の史跡に指定されているそうです。
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科長神社(しながじんじゃ)
科長神社は、平安時代の『延喜式』という書物に記録された、いわゆる式内社と呼ばれる由緒のある神社で、級長津彦命(しながつひこのみこと)、級長津姫命(しながつひめのみこと)など8柱を祀るために、八社大明神とも呼ばれています。毎年7月24日から30日の間の日曜日の例祭には、神輿と地車5台が出されて賑わいます。社宝には神功皇后が使用したと伝える雛形の小さな兜があるそうです。
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小野妹子墓(おののいもこのはか)
科長神社南側の小高い丘の上に、古くから小野妹子の墓と伝えられる小さな塚があります。妹子は、推古天皇の時代に遣隋使として、当時中国大陸にあった隋という大国に派遣された人物です。妹子が聖徳太子の守り本尊の如意輪観音の守護を託され、坊を建て、朝夕に仏前に花を供えたのが、華道家元 池坊の起こりになったとされることから、現在、塚は池坊によって管理されているそうです。
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竹之内街道に向かいます。
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竹之内街道を歩きます。
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このあと、上ノ太子駅まで歩きました。
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新型コロナ感染再拡大
11月10日、東京都内で293人、火曜日では8月4日の309人に次ぐ多さ、大阪府は226人。北海道も11月9日200人。冬に向けて第三波が来ているのでしょうか、気になりますね。また、新型コロナウイルスのワクチン開発中の米製薬大手ファイザーと独バイオエヌテックは9日、開発中のワクチンが90%以上の人の感染を防ぐことができることが分かったと発表。11月末にも認可取得に向け規制当局の緊急審査に申請する計画だそうですが、期待したいですね。
(追記)20201111
11/11の感染者数は東京都8月20日以来、約3か月ぶり317人。大阪府256人、兵庫県70人、埼玉県116人、大阪・兵庫・埼玉は共に過去最多。北海道は過去2番目の197人だったそうです。感染しないように手洗い、うがい、マスクなどを徹底したいと思います。
(追記)20201113
11月12日に 1日では過去最多になる1,661人の感染が確認されたそうですね。一層の注意をしたいと思います。
(追記)20201114
11月14日、国内の新型コロナ感染者1,708人、3日連続最多更新。東京都は352人、300人超えは4日連続。また、大阪府285人、千葉県88人、茨城県40人、静岡県36人、いずれも過去最多、神奈川県147人と過去最多と並んだそうですね。個人毎の注意も分かるのですが、地域毎の対策も必要ではと感じました。


ご訪問していただきありがとうございました。





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