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07.天王寺区をあるく(大阪) [ウォーキング大阪24区]

「天王寺区をあるく」に参加してきました。(20161213)

四天王寺
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大阪天王寺区の歴史ある神社仏閣などを訪れてきました。

当日は雨、気温9度、多少肌寒い中でのウォーキングになりました。


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集合場所天王寺公園を出発して茶臼山、堀越神社、庚申堂、河堀稲生神社、久保神社、四天王寺、五條宮、五条公園、上之宮、産湯稲荷神社、三光神社、心眼寺、善福寺、東高津宮を経由して近鉄上本町駅まで歩きました。

集合場所の天王寺公園を出発します。
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公園の中にある大阪市立美術館の前を通過します。

大阪市立美術館(おおさかしりつびじゅつかん)
1914年(大正3年)に住友家本邸が建てられたが、後に住友家から美術館建設を目的に日本庭園「慶沢園」とともに敷地を寄贈され1936年(昭和11年)に旧本邸跡地に開館したそうです。
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和気橋(わけばし)
788年(延暦7年)和気清麻呂が旧大和川の流れを変えるために上町台地を開削した際に茶臼山古墳の濠を利用した名残が河底池であると伝えられていることから「和気橋」と名付けられているそうです。
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通天閣を臨みます。右側が茶臼山です。
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茶臼山(ちゃうすやま)
四天王寺の南西に立つ茶臼山は、5世紀ごろの全長200m近い前方後円形古墳であるという説がなされている。しかし1986年の発掘調査結果によると、古墳に欠かせない葺(ふ)き石や埴輪(はにわ)が全く見つからなかった。一方、規則正しい作られ方をしている盛り土は、堺市の大塚山古墳や御勝山古墳にも共通していることから、茶臼山が古墳丘ではないとも断定できず、専門家の間で議論が繰り広げられ、結論が出されていないのが現状だそうです。大阪冬の陣では茶臼山一帯が徳川家康の本陣となり、大阪夏の陣では真田幸村の本陣となって「茶臼山の戦い」の舞台となったことはよく知られるそうです。
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堀越神社(ほりこしじんじゃ)
第33代・推古天皇の時代、四天王寺建立と同時期に、聖徳太子が叔父の第32代・崇峻(すしゅん)天皇を偲んで茶臼山に建立したと伝えられ、四天王寺七宮のひとつに数えられる神社。古くから明治中期まで境内の南沿いに美しい堀があり、この堀を越えて参詣したので、「堀越」という名がつけられたという。境内には、かつて八軒家の渡辺の津にあった熊野第一王子の窪津王子が祀られている。交通量の多い谷町筋に面しているが、樹齢数百年におよぶ樹木などによって、境内は閑静な雰囲気を保持している。大阪では、「堀越さんは一生に一度の願いを聞いてくださる神さん」との言い伝えがあり、古くから親しまれているそうです。
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庚申堂(こうしんどう)
四天王寺の南門から南へ300mの庚申堂(こうしんどう)は、庶民信仰に支えられる浪花の名刹で、かつては四天王寺の境内の一部であったそうだ。「庚申」は道教の影響を受けた日本人の信仰のひとつで、三尸(さんし)という虫に由来している。人間の体内には3匹の虫が住みつき、その人の行動を監視している。そして庚申(かのえのさる)の夜、眠っている人の体から虫が抜け出して、その人の罪や過ちのいちいちを天帝に告げるという。そこから、庚申の日に眠らず「庚申待ち」という慣わしが生まれたとか。四天王寺・庚申堂は大宝元年(701)正月庚申の日に、毫範という僧侶の前に青面金剛童子が現れ庚申の法を伝授したと伝えられる。現在、60日に一度巡ってくる庚申の日には、境内にコンニャクの店が出ている。庚申のコンニャクを北向きで食べると頭痛が治るとの言い伝えがあり、大勢の参拝者で賑わうそうです。
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河堀稲生神社(こぼれいなりじんじゃ)
古代・景行天皇の時代、当時昼ヶ丘と呼ばれていたこの地に稲生の神を祀ったのが最初とされている。聖徳太子が四天王寺を建立した際に社殿が造営され、崇峻天皇を合祀して四天王寺七宮の一つに数えられたそうです。
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久保神社(くぼじんじゃ)
久保神社の久保の地名は窪地の意味で茶臼山から続く低地。浪速神楽の家元としても知られている。境内の願成就宮は、聖徳太子の崇敬深く、四天王寺の建立を始め諸事御願が遂げられたため、願成就宮であると称えられているそうです。
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四天王寺(してんのうじ)
四天王寺は、推古天皇元年(593)に聖徳太子によって建立。「四天王寺式 伽藍配置」は6~7世紀の大陸の
様式を今日に伝える貴重な存在とされているそうです。
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五條宮(ごじょうのみや)
橘氏の祖神を祀る全国唯一の神社として亦鬼門除の神、火難除の神としても遠近の信仰厚く、この地支那の
唐制による我邦最古の都難波京の五條筋にあたり、祭神皇太子時代の御住居跡とも伝えられ古今を通して
大阪の中心である当地に御鎮座。広く崇敬者が多いそうです。
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雨はやむ気配がなさそうです。
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五条公園、上之宮、近鉄上本町を通過して産湯稲荷神社に向かいます。

産湯稲荷神社(うぶゆいなりじんじゃ)
当社は比売許曽神社の旧社地にあり、現在は御旅所で末社となっている。現地に掲げられていた社記によると「当地の開拓神である大小橋命(おおおばせのみこと)は天児屋根命の十三世の後胤で、13代成務天皇の御代(4世紀頃)、ここ味原郷に誕生した。その時、境内の玉の井の水を汲んで産湯に用いたので、この地を「産湯」という。 父は神功皇后の近臣中臣雷大臣、母は紀氏清夫と言い、3人兄弟の長男である」としている。すなわち、大化の改新で活躍した藤原家の祖、中臣鎌足の先祖に当る人である。 この誕生のときの胞衣を埋めたと伝わる胞衣塚が比売許曽神社の近くにある。また、一説では生野区にある御勝山は大小橋命の墓であるとも言われ、この地には大小橋命に関わる伝承は多いそうです。
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三光神社(さんこうじんじゃ)
仁徳天皇・天照大神・月読命・素盞嗚命を祀る三光神社。社伝によれば、寛文元年(1661)に当社は南東方向にある鎌八幡の隣に移転されたが、その後宝永3年(1706)に再び現在地に戻り、古くは「日月山神社」とも、「姫山神社」とも呼ばれたらしい。明治11年(1908)に陸奥国青麻の三光宮の分霊を勧請・合祀したことから「三光神社」と呼ばれている。大坂の陣の際、真田幸村が大阪城からの抜け穴(地下道)を設けたことで有名な神社。境内には抜け穴跡の史跡や幸村像が残されているそうです。
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心眼寺(しんがんじ)
真田幸村とその子大助の供養の為に真田家の祖先滋野氏が江戸時代に建てた寺。真田幸村の墓があるそうです。
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善福寺(ぜんふくじ)
善福寺は大坂夏の陣の戦死者を弔うために建てられたと伝わるお寺。通称はどんどろ大師。「どんどろ」とは、天保年間の大坂城代で弘法大師を信仰した土井大炊頭利位(どいおおいのかみとしつら)の「土居殿」 がなまり、本尊の弘法大師がこの名称で呼ばれるようになったそうです。土井利位は幕府の老中となり水野忠邦の天保の改革に協力したそうです。
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善福寺の北側は登り坂になっていました。
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東高津宮(ひがしこうづぐう)
創建年は不詳。元は生國魂神社の南にあったが大阪城築城の折、当地付近(現在では大阪上本町駅構内に当たる)に遷座したとの伝説がある。昭和7年(1932年)の上本町駅(当時)拡張工事の折、現在地に移転。現在地を元高津とするのは、当社から高津宮が遷座していったから。ただし、現在は高津宮に合祀された北高津宮に遷座したからとも言われる。戦災で社殿を焼失していたが、昭和42年(1967年)に復興したそうです。
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この後、雨が激しくなってきたので近鉄上本町駅でゴールになりました。


スタッフの皆さん方のお陰で今年も大阪市内24区を毎月一度(12区)を楽しく歩くことが出来ました。

有難うございました。



前回及び前々回の記事はNiceボタンをクローズしていますが、合わせてみて頂けると嬉しいです。


ご訪問していただきありがとうございました。






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