メーンストリートと法善寺横丁(水かけ不動尊)(大阪) [ウォーキング大阪市]
「メーンストリートと法善寺横丁(水かけ不動尊)」に参加してきました。(20151028)
御堂筋心斎橋付近
当日は秋晴れの中の爽やかなウォーキング。
久しぶりに大阪のメーンストリートの御堂筋を中之島の大阪市役所から難波の法善寺横丁、高津宮を経由して大阪城近くの森ノ宮まで歩きました。
集合場所の大阪市役所前の中之島公園を出発して御堂筋、御霊神社、座摩神社、南御堂まで歩きます。
大阪市役所前中之島公園
御堂筋の淀屋橋付近から見た梅田方面です。
ここから御堂筋を南下します。銀杏の葉が黄色になるのはもう少し先のようでした。
御霊神社
当神社は八百年代後半の創建。古来大阪市の船場、中之島、土佐堀、江戸堀、京町堀、阿波堀、阿波座、薩摩堀及び立売堀、長掘の西部、南北堀江の西部等旧摂津国津村郷の産土神として信仰の中心になっていたそうです。
座摩神社
大阪市中心部の船場にある古い神社で、同地の守護神的存在。正式な読み方は「いかすりじんじゃ」、一般には「ざまじんじゃ」と読まれることが多く、地元では「ざまさん」の通称で呼ばれているそうです。
南御堂
正式名称は東本願寺難波別院。船場商人の信仰の中心とされ、本堂は鎌倉様式の鉄筋建ての建物です。昭和36年に復興されたそうです。
ここで、暫く休憩になりました。
休憩の後、さらに御堂筋を南下して難波神社、心斎橋、道頓堀、法善寺横丁を経由して高津宮まで歩きます。
難波神社
創建は5世紀中頃と伝えられていて、彦六座、稲荷文楽座跡としても知られ船場の粋人達が芝居、文楽に興じた場所でもあったそうです。
冒頭の写真が心斎橋付近になります。
この付近には有名なブランド店がずらりと並んでいます。
大阪の南の道頓堀、当日も多くの人たちで賑わっていました。
法善寺横丁
織田作之助の小説「夫婦善哉」でも有名な石畳の路地の両側には、小料理屋、バーなどがひしめきあって軒を並べる。横丁の入り口に架かる看板の文字は西が藤山寛美さん、東は3代目桂春団治さんのもの。小料理屋「正弁丹吾亭」の前に「行き暮れてここが思案の善哉かな」の織田作之助の碑がある。道頓堀と並んで、数々の歌にも登場する、ミナミのシンボルとも言える法善寺横丁は、浪花情緒あふれる一角だそうです。
この写真は西側になります。
水かけ不動尊
「水かけ不動」の名で親しまれている、法善寺の西向不動尊。そもそもは、お供え物を持ち合わせていなかった参拝客が、思わず水をかけて手を合わせたのが始まりだと伝えられていて、それ以来「水かけ不動」として有名になったそうです
道頓堀
道頓堀は安井道頓らが私財を投じて1615年に完成。松平忠明が道頓堀と名づけたそうです。道頓堀界隈は1660年代から中座、角座、竹本座、朝日座などの劇場があって、歌舞伎や人形浄瑠璃が演じられていたそうです。
高津宮
貞観8年(866)、清和天皇の勅令によって難波高津宮の遺跡が探され、あったと定められた地に仁徳天皇を祀る社が建立されたのが始まりとされている。700年後、正親町天皇の天正11年(1583)、豊臣秀吉が大坂城を築城した際にご神体を現在地に移したが、第2次世界大戦時の大阪大空襲で神社は悉く全焼。現在の社殿は、戦後に再建されたもの。同社は古典落語「高津の富」「高倉狐」「祟徳院」の舞台として知られ、古くから大坂町人の文化の中心地として賑わっていたそうです。
あしぶね
あしぶねは神さまがのられるそうです。
高津宮の横にある高津公園で昼食休憩です。
昼食休憩後、空堀商店街、難波宮跡、越中井まで歩きます。
空堀商店街
難波宮跡
大阪市中央区法円坂の地に広がる遺跡を公園として整備した場所。「大化改新」後に造営が始められた「難波長柄豊碕宮」跡、聖武天皇が神亀3年(726年)から造営を行った「難波宮」跡と考えられている。敷地内には、難波宮の大極殿の基壇を復元した石造りの壇がある。隣接する歴史博物館では発掘された遺跡を展示しているそうです。
大阪歴史博物館
越中井
越中井がある付近は、細川越中守忠興(ほそかわえっちゅうのかみただおき)の邸跡で、越中井はその屋敷の台所にあったといわれているそうです。
この後、越中井からゴールの森ノ宮まで歩きました。
御堂筋のオブジェたちの一部
ご訪問していただきありがとうございました。
御堂筋心斎橋付近
当日は秋晴れの中の爽やかなウォーキング。
久しぶりに大阪のメーンストリートの御堂筋を中之島の大阪市役所から難波の法善寺横丁、高津宮を経由して大阪城近くの森ノ宮まで歩きました。
集合場所の大阪市役所前の中之島公園を出発して御堂筋、御霊神社、座摩神社、南御堂まで歩きます。
大阪市役所前中之島公園
御堂筋の淀屋橋付近から見た梅田方面です。
ここから御堂筋を南下します。銀杏の葉が黄色になるのはもう少し先のようでした。
御霊神社
当神社は八百年代後半の創建。古来大阪市の船場、中之島、土佐堀、江戸堀、京町堀、阿波堀、阿波座、薩摩堀及び立売堀、長掘の西部、南北堀江の西部等旧摂津国津村郷の産土神として信仰の中心になっていたそうです。
座摩神社
大阪市中心部の船場にある古い神社で、同地の守護神的存在。正式な読み方は「いかすりじんじゃ」、一般には「ざまじんじゃ」と読まれることが多く、地元では「ざまさん」の通称で呼ばれているそうです。
南御堂
正式名称は東本願寺難波別院。船場商人の信仰の中心とされ、本堂は鎌倉様式の鉄筋建ての建物です。昭和36年に復興されたそうです。
ここで、暫く休憩になりました。
休憩の後、さらに御堂筋を南下して難波神社、心斎橋、道頓堀、法善寺横丁を経由して高津宮まで歩きます。
難波神社
創建は5世紀中頃と伝えられていて、彦六座、稲荷文楽座跡としても知られ船場の粋人達が芝居、文楽に興じた場所でもあったそうです。
冒頭の写真が心斎橋付近になります。
この付近には有名なブランド店がずらりと並んでいます。
大阪の南の道頓堀、当日も多くの人たちで賑わっていました。
法善寺横丁
織田作之助の小説「夫婦善哉」でも有名な石畳の路地の両側には、小料理屋、バーなどがひしめきあって軒を並べる。横丁の入り口に架かる看板の文字は西が藤山寛美さん、東は3代目桂春団治さんのもの。小料理屋「正弁丹吾亭」の前に「行き暮れてここが思案の善哉かな」の織田作之助の碑がある。道頓堀と並んで、数々の歌にも登場する、ミナミのシンボルとも言える法善寺横丁は、浪花情緒あふれる一角だそうです。
この写真は西側になります。
水かけ不動尊
「水かけ不動」の名で親しまれている、法善寺の西向不動尊。そもそもは、お供え物を持ち合わせていなかった参拝客が、思わず水をかけて手を合わせたのが始まりだと伝えられていて、それ以来「水かけ不動」として有名になったそうです
道頓堀
道頓堀は安井道頓らが私財を投じて1615年に完成。松平忠明が道頓堀と名づけたそうです。道頓堀界隈は1660年代から中座、角座、竹本座、朝日座などの劇場があって、歌舞伎や人形浄瑠璃が演じられていたそうです。
高津宮
貞観8年(866)、清和天皇の勅令によって難波高津宮の遺跡が探され、あったと定められた地に仁徳天皇を祀る社が建立されたのが始まりとされている。700年後、正親町天皇の天正11年(1583)、豊臣秀吉が大坂城を築城した際にご神体を現在地に移したが、第2次世界大戦時の大阪大空襲で神社は悉く全焼。現在の社殿は、戦後に再建されたもの。同社は古典落語「高津の富」「高倉狐」「祟徳院」の舞台として知られ、古くから大坂町人の文化の中心地として賑わっていたそうです。
あしぶね
あしぶねは神さまがのられるそうです。
高津宮の横にある高津公園で昼食休憩です。
昼食休憩後、空堀商店街、難波宮跡、越中井まで歩きます。
空堀商店街
難波宮跡
大阪市中央区法円坂の地に広がる遺跡を公園として整備した場所。「大化改新」後に造営が始められた「難波長柄豊碕宮」跡、聖武天皇が神亀3年(726年)から造営を行った「難波宮」跡と考えられている。敷地内には、難波宮の大極殿の基壇を復元した石造りの壇がある。隣接する歴史博物館では発掘された遺跡を展示しているそうです。
大阪歴史博物館
越中井
越中井がある付近は、細川越中守忠興(ほそかわえっちゅうのかみただおき)の邸跡で、越中井はその屋敷の台所にあったといわれているそうです。
この後、越中井からゴールの森ノ宮まで歩きました。
御堂筋のオブジェたちの一部
ご訪問していただきありがとうございました。