SSブログ

百舌鳥古墳群を歩こう(大阪府南部) [ウォーキング大阪府南部]

「百舌鳥古墳群を歩こう」に参加してきました。(20181101)

仁徳天皇陵
00.P1130997.jpg



大阪堺の百舌鳥古墳群を巡るウォーキングに参加してきました。

当日は晴れ・曇り、最高気温18.7℃。気持ち良いウォーキングになりました。

ウォーク票 (1).jpg

地図a (1).jpg


百舌鳥古墳群(もずこふんぐん)
日本最大の仁徳天皇陵古墳をはじめ、第3位の履中天皇陵古墳や第8位のニサンザイ古墳など、250メートルを越える巨大古墳を擁する日本を代表する中期古墳群。古墳は現在44基残っていますが、消滅した古墳を含めると100基以上の古墳が築かれていたことがわかっています。堺市内の東西・南北約4キロメートルの範囲に広がる古墳群。古墳時代、この一帯には100基を超える古墳が造られました。しかし、都市化の進展などによってその多くが失われ、現在は4世紀後半から6世紀前半に造られた44基の古墳が残っており、日本の古墳文化を物語る貴重な遺産だそうです。

今回は以下の17の古墳を巡ってきました。
 1.天王古墳(てんのうこふん)
 2.鈴山古墳( すずやまこふん )
 3.反正天皇陵古墳(はんぜいてんのうりょうこふん)
 4.丸保山古墳(まるほやまこふん)
 5.銅亀山古墳(どうがめやまこふん)
 6.竜佐山古墳(たつさやまこふん)
 7.孫大夫山古墳(まごだゆうやまこふん)
 8.仁徳天皇陵古墳(にんとくてんのうりょうこふん)
 9.グワショウ坊古墳(ぐわしょうぼうこふん)
10.旗塚古墳(はたづかこふん)
11.七観音古墳(しちかんやまこふん)
12.寺山南山古墳(てらやまみなみやまこふん)
13.履中天皇陵古墳(りちゅうてんのうりょうこふん)
14.いたすけ古墳(いたすけこふん)
15.善右ヱ門山古墳(ぜんえもんやまこふん)
16.御廟山古墳(ごびょうやまこふん)
17.ニサンザイ古墳(にさんざいこふん)

百舌鳥・古市古墳群(堺市「百舌鳥」と羽曳野市・藤井寺市「古市」)は2017年7月31日の文化審議会世界遺産部会において世界文化遺産国内推薦に決定。世界文化遺産登録をめざし、さまざまな取り組みが進められているそうです。


【百舌鳥古墳群の説明、写真は後半に纏めています】


集合場所堺市駅近くの公園を出発して、方違神社、反正天皇陵、仁徳天皇陵、履中天皇陵を経由して大仙公園まで歩きます。

堺市駅近くの公園
11.P1130970.jpg


公園を出発します。
12.P1130973.jpg


暫く歩くと方違神社に着きました。

方違神社(ほうちがいじんじゃ)
河内・和泉・摂津三国の境にある方位のない清地とされ方除祈願で有名。遠方への旅や家を移る時などに参れば災難に会わないという言い伝えから、新築・転居等の厄除けで各地から多くの人々が参詣に来られるそうです。
13.P1130974 (1).jpg

14.P1130976 (1).jpg


方違神社で少し休憩後、百舌鳥古墳群を巡ります。


仁徳天皇陵の北側を通過します。
15.P1130986 (1).jpg


仁徳天皇陵の近くで休憩後、大仙公園を通過して履中天皇陵古墳に向かいます。

大仙公園を通過します。
16.P1140003.jpg


履中天皇陵古墳の横を通過します。
17.P1140017.jpg


履中天皇陵古墳
18.P1140019 (1).jpg


大仙公園に向かいます。
19.P1140028.jpg


大仙公園で昼食休憩になりました。
20.P1140029.jpg


昼食休憩後、いたすけ古墳、御廟山古墳、ニサンザイ古墳、百舌鳥八幡宮を経由して三国ヶ丘駅まで歩きました。


古墳群を巡り、百舌鳥八幡宮に着きました

百舌鳥八幡宮(もずはちまんぐう)
欽明天皇(532~571年)のころに建てられたと伝えられ、うっそうとした境内と重厚なたたずまいは歴史の古さを感じさせます。本殿右前にある大くすは幹囲り5.2m、樹高25mで樹齢は700年とも800年ともいわれている名古木で、府の天然記念物に指定されています。また、毎年旧暦8月15日の中秋の名月にかけて、勇壮なふとん太鼓を繰り出す「月見祭」は、農作の祈願と満月を祝う風習とが合わさって神社の祭りになったものといわれ、記録によると300年以上の伝統があります。太鼓を仕込んだ台の上に、朱色の座布団を5段重ねにした造りのふとん太鼓は、高さ約4m、重さ約3tもあり約70人で担ぎ「ベーラベーラベラショッショイ」というかけ声と太鼓の音で、まちを練り歩いた後神社に奉納されるそうです。
21.P1140057.jpg

22.P1140062.jpg


この後、三国ヶ丘駅まで歩きました。
23.P1140064.jpg



【百舌鳥古墳群】

 1.天王古墳(てんのうこふん)
反正天皇陵古墳東側にある円墳のように見える1辺11m程の方墳。同古墳の陪塚で濠がめぐらされていたと考えられているそうです。
(写真はネットから引用させていただきました)
k011.jpg

k012.jpg


 2.鈴山古墳( すずやまこふん )
反正天皇陵古墳(田出井山古墳)の東側にありその陪塚と考えられ、一部が削られているために形が変っていますが方墳です。一辺が22m程で埴輪が立てられており、濠がめぐらされていたと考えられているそうです。
k021.P1130981.jpg

k022.P1130980.jpg


 3.反正天皇陵古墳(はんぜいてんのうりょうこふん)
百舌鳥古墳群の北端にある前方部を南に向けた前方後円墳で、現在は百舌鳥耳原三陵の北陵・反正天皇陵として宮内庁が管理しています。墳丘の規模は全長約148m、後円部径約76m、高さ約13m、前方部幅約110m、高さ約15mで百舌鳥古墳群では7番目の大きさです。仁徳天皇陵古墳の1/3ほどの大きさで、天皇陵では小さいほうですが理由はよくわかっていません。墳丘は3段に築かれその形や出土した埴輪から、5世紀中頃に造られたと考えられています。現在一重の盾型周濠がめぐっていますが、周囲で行われた発掘調査で、かつて二重濠があったことが確認されているそうです。
k031.P1130984.jpg

k032.P1130983.jpg


 4.丸保山古墳(まるほやまこふん)
丸保山(まるほやま)古墳は、短い前方部を南に向けた帆立貝形古墳で、周囲には濠が巡っています。前方部の高さが著しく低いのは、昭和30年の開墾で大きく削られてしまったからです。埋葬部の構造や副葬品の内容などはわかっていませんが、円筒埴輪が採集されています。その埴輪から5世紀後半頃に造られたものと考えられています。丸保山古墳の西側には、円墳の菰山塚(こもやまづか)古墳があり、さらに南側にもかつて古墳のような高まりがあったということです。これらを含めて仁徳天皇陵古墳(大山古墳)の陪塚(ばいちょう)と考えられるそうです。
k041.P1130987 (1).jpg

 5.銅亀山古墳(どうがめやまこふん)
仁徳天皇陵古墳(大仙古墳)の西南にあり、高さ5.4mの方墳で周濠の有無は不明です。古くは堂亀山とも記されていたようです。墳丘は高く、2段築成がよく残るなど残存度は良好で、下段は南側が造り出し状に張り出し長方形を呈しているそうです。
k051.P1130991 (1).jpg

k052.P1130990 (1).jpg


 6.竜佐山古墳(たつさやまこふん)
仁徳天皇陵古墳(大仙古墳)の南に接してある西向きの前方後円墳で、同古墳の陪塚と考えられ古墳の全長は61m、後円部径43m、前方部幅26mの前方部が短い帆立貝形をしています。一部の調査では葺石と円筒埴輪があり、幅10m程の周濠がめぐっていたようですが、埋葬施設などについては不明。現在は前方部とそのまわりの濠を復元して整備され、後円部は宮内庁が管理しているそうです。
(標識の写真はネットから引用させていただきました)
k061.P1130995.jpg

k062.jpg


 7.孫大夫山古墳(まごだゆうやまこふん)
仁徳天皇陵古墳(大仙古墳)の南に接してある西向きの前方後円墳で、同古墳の陪塚と考えられ全長は約56m、後円部径48m、後円部高約7.6m、前方部幅約30mで、前方部の短い帆立貝形をしています。一部の調査では葺石と円筒埴輪があり、幅10m程の周濠がめぐっていたようですが埋葬施設などについては不明。現在は濠を復元して整備されています。後円部は宮内庁が管理し、前方部と周濠は堺市が管理しているそうです。
k071.P1140001.jpg


 8.仁徳天皇陵古墳(にんとくてんのうりょうこふん)
エジプトのクフ王のピラミッド、中国の秦の始皇帝陵と並ぶ世界3大墳墓の一つといわれ、上空から見ると円と四角を合体させた前方後円墳という日本独自の形で、5世紀中ごろに約20年をかけて築造されたと推定されています。日本最大の前方後円墳で北側の反正天皇陵古墳(田出井山古墳)、南側の履中天皇陵古墳(石津ヶ丘古墳)とともに百舌鳥耳原三陵と呼ばれ、現在はその中陵・仁徳天皇陵として宮内庁が管理しています。前方部を南に向けた墳丘は全長約486m、後円部径約249m、高さ約34.8m、前方部幅約307m、高さ約33.9mの規模で3段に築成されています。左右のくびれ部に造出しがあり、三重の濠がめぐっていますが、現在の外濠は明治時代に掘り直されたものです。葺石と埴輪があり埴輪には人物(女子頭部)や水鳥、馬、鹿、家などが出土しています。昭和30年代と最近の調査で造出しから須恵器の甕が出土し、古墳が造られた年代を知る資料として話題になっています。明治5年(1872年)には、前方部で竪穴式石室に収めた長持形石棺が露出し、刀剣・甲冑・ガラス製の壺と皿が出土しました。出土品は再び埋め戻されたといわれていますが、詳細な絵図の記録があり、甲冑は金銅製の立派なものだったようです。日本最大の前方後円墳にふさわしく、周囲に陪塚と考えられる古墳が10基以上あります。仁徳天皇陵とされていますが、日本書紀などに伝えられる仁徳・履中の在位順とは逆に、履中天皇陵古墳よりも後で築造されたことがわかっているそうです。

(冒頭の写真です)

 9.グワショウ坊古墳(ぐわしょうぼうこふん)
旗塚古墳の東側にある卵形の円墳で、墳丘は2段築成と考えられています。周囲には濠(ほり)がめぐり、葺石と埴輪が検出されていますが、主体部の構造や副葬品は不明です。昭和50年代の公園造成時には、すでに墳丘上部は削平されて平らでしたが、現状は公園整備がなされ、大仙公園の一部となっています。円墳で径約61メートルという大きさは、仁徳天皇陵古墳(大山古墳)の陪塚とされている径約62メートルの大安寺山古墳に次ぐ大きさで、全国的にも有数の規模を誇ります。発掘調査では、規模と西側が張り出した卵形を呈する墳形であること、濠から外側における削平が顕著であるものの古墳の濠埋土は比較的良好に残存する可能性が高いこと、墳丘には「天地返し」とも呼ばれる鱗状層序(うろこじょうそうじょ)による盛土を採用していることが判明しました。遺物は原位置を留めない円筒埴輪、形象埴輪、須恵器、ミニチュア鉄鍬(くわ)が出土しましたが、本古墳の築造時期は、これらの遺物から5世紀後半と考えられるそうです。
k091.P1140032.jpg

k092.P1140031.jpg


10.旗塚古墳(はたづかこふん)
百舌鳥古墳群の中央部、グワショウ坊古墳の西側に位置する帆立貝形前方後円墳で、2段築成の墳丘を有し、くびれ部後円部寄りで約12.5メートルの幅で外方へ約3メートル張り出す造り出しを持ちます。濠(ほり)は盾(たて)形にめぐり、周囲に葺石と埴輪列を備えた幅3.4メートルの堤が存在する可能性が高いと思われます。主体部の構造や副葬品の内容は不明ですが、出土した円筒埴輪と石見(いわみ)型盾形埴輪から、5世紀中頃の築造と考えられるそうです。
k101.P1140007 (1).jpg


11.七観音古墳(しちかんやまこふん)
履中天皇陵古墳(石津ヶ丘古墳)の北側、大仙公園の南入口にあります。鉢巻状の壁で保存されていますが、原形とは少し違うようです。鉄器や武器が大量に発見された七観山古墳(七観古墳)と、名前が似ているのでよく間違えられます。堺市の調査で直径25m、高さ3m程の円墳であることがわかっています。中心部の様子はわかっていませんが、碧玉製の琴柱形石製品が出土したといわれているそうです。
k111.P1140012.jpg

k112.P1140013.jpg


12.寺山南山古墳(てらやまみなみやまこふん)
履中天皇陵古墳(ミサンザイ古墳)の後円部側外周にある方墳で、同古墳に付随する古墳と考えられます。発掘調査により、墳丘は2段築成で、濠との比高差は4メートル以上に復元できますが、南西側の濠は、履中天皇陵古墳(ミサンザイ古墳)の外周溝(がいしゅうこう)と共有していた可能性が高いと思われます。墳丘は「天地返し」による鱗状層序(うろこじょうそうじょ)からなる盛土を採用し、葺石と基底石(きていせき)を検出しています。築造時期については、わが国で最古段階の須恵器が出土していることから、5世紀初頭頃と推測できるそうです。
k121.P1140014.jpg

k122.P1140015.jpg


13.履中天皇陵古墳(りちゅうてんのうりょうこふん)
百舌鳥古墳群では仁徳天皇陵古墳(大仙古墳)に次ぐ巨大前方後円墳で、10基ほどの陪塚を従えていたことがわかっています。そのなかの七観山古墳は出土資料などから、仁徳天皇陵古墳より古く5世紀前半頃に造られたことがわかっています。墳丘の全長約365m、後円部径205 m、高さ約27.6m、前方部幅約235m、高さ約25.3mの規模の日本で3番目に大きい、石津ヶ丘にある前方部を南に向けた巨大前方後円墳です。墳丘は3段築成で西側のくびれ部には造出しがあり、主体部の構造や副葬品などはわかっていませんが葺石と埴輪があります。一重の盾形周濠と堤がめぐっていますが、平成6年(1994年)に外側に幅10m程の2重目の周濠が見つかっています。江戸時代の記録では、後円部中央に大きなくぼみがあったといわれていることから、すでに盗掘を受けている可能性があります。現在は百舌鳥耳原三陵の南陵・履中天皇陵として宮内庁が管理しているそうです。
k131.P1140023.jpg

k132.P1140022 (1).jpg


14.いたすけ古墳(いたすけこふん)
百舌鳥古墳群のほぼ中央に位置し、前方部を西に向ける3段築成の前方後円墳です。周囲には一重の濠が巡り、墳丘には埴輪と葺石(ふきいし)のあることが確認されています。埋葬部分の構造や副葬品は不明ですが、墳丘の形や埴輪の状況から5世紀中頃に築造されたと考えられます。周囲には陪塚(ばいちょう)とよばれる小形の古墳があり、善右ヱ門山(ぜんえもんやま)古墳が後円部の東側に現存しています。消滅した陪塚には吾呂茂塚(ごろもづか)古墳、播磨塚(はりまづか)古墳がありました。 いたすけ古墳は、昭和30年頃に土取り工事で破壊の危機にひんしましたが、市民による運動で保存が決まり、昭和31年に国指定史跡になりました。現在も濠の中に残されている橋げたは、土取り工事が行われようとしたときの名残です。保存運動の際に後円部から採集された冑形(かぶとがた)埴輪は実物の鉄製冑を忠実に模したもので、堺市の文化財保護のシンボルマークになりました。 いたすけ古墳は、百舌鳥古墳群を構成する重要な前方後円墳というだけでなく、我が国における文化財保護の歴史を語るうえでも重要な古墳だそうです。
(標識の写真はネットから引用させていただきました)
k141.P1140035.jpg

k142 (1).JPG


15.善右ヱ門山古墳(ぜんえもんやまこふん)
百舌鳥川北岸に位置する方墳で、いたすけ古墳の外堤と接するように築造されていることから、同古墳に付随する古墳と考えられます。 平成12・15年度の調査では、墳丘は2段築成であることを確認しましたが、墳丘の周囲には明確な周濠を設けていません。また、テラス上に埴輪列を検出しましたが、その埴輪から5世紀前半の築造であると考えられるそうです。
k151.P1140038.jpg

k152.P1140037.jpg


16.御廟山古墳(ごびょうやまこふん)
百舌鳥本町にある前方部を西に向けた前方後円墳です。平成20年に行われた宮内庁と堺市による発掘調査により、規模が墳丘長約203m、後円部径約113m、前方部最大幅約136mと復元されました。墳丘は3段に築かれていて、南側のくびれ部には造出しがあります。葺石と埴輪がありますが、埋葬の主体部の構造や副葬品などはわかっていません。周囲には盾形の濠と堤がめぐっていますが、最近の調査で二重の濠があることがわかっています。墳丘は陵墓参考地として宮内庁が管理しているそうです。
k161.P1140040.jpg

k162.P1140042.jpg


17.ニサンザイ古墳(にさんざいこふん)
百舌鳥古墳群の南東端にある前方部を西に向けた大型前方後円墳で、墳丘の規模は全長約300m、後円部径約170m、高さ約24.6m、前方部幅約224m、高さ約25.9mです。3段に築かれた墳丘はくびれ部の両側には造出しがあり、主体部の構造や副葬品は不明ですが、葺石と埴輪のあることが確認されています。現在は一重の盾形周濠がめぐっていますが、昭和51年(1976年)に周囲の発掘調査で外濠のあることがわかりました。前方部が広くどっしりと安定感のある古墳で、反正天皇陵古墳(田出井山古墳)のほぼ4倍の大きさです。また建造時期もほぼ同じことから、これを反正天皇陵と考えている説もあります。墳丘は宮内庁が反正天皇の空墓として、陵墓参考地に指定し管理しています。ニサンザイは陵(みささぎ)が語源と考えられ、前方部が大きく広がったその姿は古墳群の中で最も精美といわれ、百舌鳥古墳群の中で最も新しい、5世紀後半に造られたとされる古墳だそうです。
k171.P1140051.jpg

k172.P1140049.jpg



世界文化遺産になればよいですね。


Niceボタンをクローズさせていただきました。

ご訪問していただきありがとうございました。




共通テーマ:日記・雑感