SSブログ

08.浪速区をあるく(大阪) [ウォーキング大阪24区]

「08.浪速区をあるく」に参加してきました。(20180911)

難波八阪神社 絵馬殿
00.SN3I1910.JPG



大阪の浪速区の歴史ある街並みを歩きました。

当日は曇り、最高気温28.9℃。少し蒸し暑かったですが、気持ち良いウォーキングになりました。

ウォーク票 (2).JPG

地図a (2).jpg



集合場所湊町リバープレイスを出発して鉄眼寺、難波八阪神社、浪速神社、願泉寺、唯尊寺、大国主神社を経由して高岸公園まで歩きます。

集合場所の湊町リバープレイス
11.SN3I1906.jpg


港町リバープレイスを出発します。

鉄眼寺(てつげんじ)
正式名瑞龍寺(ずいりゅうじ)、通称鉄眼寺。
黄檗宗萬福寺末寺で薬師三尊を本尊としています。鉄眼和尚は、わが国に一切経の版木がないのを嘆き、全国行脚募財の末、一切経の木版6956巻32万頁を完成しました。その間洪水と飢饉に苦しむ人々を救うため、一切経の募財を救済に投じ、三度目に目的を遂げ「鉄眼は一生に三度一切経を刊行せり」といわれ、その徳の高さから一般に鉄眼寺といわれています。境内には「鉄眼禅師茶毘処地」の碑があるそうでます。
12.SN3I1907.jpg

13.SN3I1908.jpg


難波八阪神社に向かいます。
14.SN3I1909.jpg


難波八阪神社(なんばやさかじんじゃ)
古来難波下の宮と称し、難波一帯の産土神(うぶすなのかみ)でした。もとは神仏混交でしたが、維新後、神仏分離により寺は廃絶し、明治5年(1872年)に郷社となりました。当社の祭神、素戔鳴尊(すさのおのみこと)が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治され、民の困苦を除かれた故事に基づき始められたという綱曳神事は、「摂津名所図絵」や「摂津名所図会大成」にも紹介されています。また、平成13年(2001年)度には、大阪市で初めての無形民俗文化財に指定されました。現在の社殿は、昭和49年(1974年)5月に改築され、都心部の社として近代的に生まれ変わり、絵馬殿は獅子頭をかたどった規模(高12m、幅11m、奥行10m)の大きなものだそうです。
冒頭の写真の絵馬殿など、外国人にも人気が高いそうです。
15.SN3I1911.jpg


浪速神社(なにわじんじゃ))
坐摩(ざま)神社の末社として、坐摩大神(いかすりのおおかみ)を祭神としているほか、猿田彦大神(さるたひこおおかみ)、白髭大神(しらひげおおかみ)も祀っています。大祭として、元旦祭、春祭、夏祭、秋祭があり、特に7月21日、22日の夏祭は布団太鼓の巡行がにぎやかに行われています。神社前公園には大阪大空襲(昭和 20年3月13日)による犠牲者の供養塔が昭和52年(1977年)に建てられ、再び戦争をしないとの願いと平和への祈りが込められています。昭和60年(1985年)には、無縁仏の供養のため五輪塔が建てられたそうです。
16.SN3I1914.jpg

17.SN3I1913.jpg


願泉寺(がんせんじ)
小野妹子の八男、多嘉麿義持(法名:聖伝院永証)が創建し、はじめは無量寺院と称していました。建てられたのは四天王寺建立のすぐあとという古刹です。京都の作庭家相阿弥(そうあみ)の作と伝えられる枯山水の庭園は、大阪府名勝に指定されていて市内にあるとは思われない静寂な姿を今にとどめているそうです。
18.SN3I1916.jpg

19.SN3I1915.jpg


唯尊寺(ゆいせんじ)
用明天皇の時代に天種子命(あめのたねこのみこと)の裔である迹見赤摂(とみいちひ)が、木津浦に草庵を構えたのが起こりと伝えられ、その後三十三世光重が蓮如上人の弟子となり明応7年(1498年)坊舎を建立、天正7年(1579年)唯専寺の号と安阿弥作の木像を授与されました。本願寺と織田信長との石山合戦の際の功績により、明治44年(1911年)に本山から由緒寺として認められました。境内には寛永14年(1637年)鋳造の梵鐘(ぼんしょう)や木津勘助の墓があるそうです。
20.SN3I1917.jpg


大国主神社(おおくにぬしじんじゃ)
社伝によれば、神功皇后が三韓を平定されて住吉大社に凱旋報告のため、敷津浦を航海されたとき、敷津浜に荒い波がうちよせられるのを見られ、『これから汐が満ちてはいけません』と松の木を渚に三本植え、素戔鳴尊(すさのおのみこと)をお祀りになり航海の安全を祈られたことから「松之宮」と呼ばれたとあります。敷津松之宮と“木津の大国さん”で知られる大国主神社とが相殿となっています。境内には木津勘助の銅像と折口信夫の歌碑があります。毎年1月9日から 11日には大国まつりが行なわれ、にぎわうそうです。
21.SN3I1919.jpg

22.SN3I1918.jpg


木津卸売市場に着きました。
23.SN3I1920.jpg


近くにある高岸公園で昼食休憩になりました。
24.SN3I1921.jpg


昼食休憩後、廣田神社、今宮戎神社、浪速寺、通天閣、合邦辻閻魔堂、天王寺村鋳銭所跡、大乗坊を経由して南海難波駅まで歩きました。

廣田神社(ひろたじんじゃ)
もと天王寺の鎮守で今宮村の産土神(うぶすなのかみ)ですが創建年代は不詳です。古い由緒を持つとともに江戸時代には廣田の杜といわれ、うっそうとした森のなかに社がありました。当時は境内も広く、紅白二種の萩を植えた茶店があって、萩の茶屋と呼ばれていたといわれています。桜の木も多く美しい社であったとのことです。無病息災・痔疾をはじめ難病治癒にご利益があり、アカエイ(関西ではアカエ)を神使とするユニークな神社で、叡知の“エイ”に通じることから合格・必勝の祈願をかなえるといわれ、広く信仰されているそうです。
25.SN3I1922.jpg

26.SN3I1923.jpg


今宮戎神社(いまみやえびすじんじゃ)
商売繁盛の神様で「十日えびす(えべっさん)」(毎年1月9日~11日)は「商売繁盛笹持ってこい」の掛け声もにぎやかに福笹をもとめる参拝者が100万人を超え、新春早々のまつりとしてにぎわいます。事代主命(ことしろぬしのみこと)・(えびすがみ)は、もともと漁労民の信仰に始まり、中世に入って市神様として祀られ、大阪の商工業の発展とともに商売繁盛の守神として信仰されてきました。元禄時代には今日と同じような祭礼が始まりました。正面で参拝後社殿の裏へ回ってドラを打ち、再度お願いする習慣があるそうです。
27.SN3I1924.jpg

28.SN3I1925.jpg


浪速寺(なにわじ)
当山の創建は明治年間で、摂津八十八ヶ所霊場の中では新しい寺院に属する。1945年(昭和20年)の戦災で焼失し、現在の本堂は戦後1950年(昭和25年)の再建になる。今宮戎神社の「10日戎」と同じ1月9-11日に行われる福寅授与と開運護摩供には大勢の人々が参拝するそうです。
29.SN3I1927.jpg


通天閣(つうてんかく)
明治45年(1912年)パリのエッフェル塔をモデルに建設され、全国的にもその名が知られている大阪のシンボル通天閣は、「天に通ずる塔」という意味で現在の通天閣は2代目。初代通天閣は、産業振興の目的で開かれた内国勧業博覧会の会場跡地を利用してルナパークと共に造られました。通天閣とルナパークはロープウェーで結ばれ一大娯楽場としてデビューし、市民の憩いの場として親しまれました。昭和18年に解体されましたが、地元の人々の努力により昭和31年(1956年)に再建され、再び大阪のシンボルとしてよみがえり、今も市民から愛され、親しまれています。現在の通天閣は高さ103mで、91mの展望台から晴れの日には淡路島や和歌山まで見渡せるそうです。
30.SN3I1933.jpg


合邦辻閻魔堂(がっぽうがつじえんまどう)
古伝によれば合邦辻は合法辻とも言われ、「えんま堂」は聖徳太子の開基と伝えられています。当時の大伽藍は消失して辻堂となり、明治の中頃に今の融通念仏宗西方寺の境内に移されました。浄瑠璃「摂州合法辻」の舞台となる「えんま堂」もここのことで、俊徳丸の難病がなおるという浄瑠璃のくだりからその故事に因縁をもとめ病気平癒を祈願する人が訪れているそうです。
31.SN3I1936.jpg


天王寺村鋳銭所跡(てんのうじむらちゅうせんじょあと)
元文5年(1740年)、銀座年寄が幕府の許可を得てこの地に鋳銭所を建設。鋳造高は年間20万貫に達した。延享2年(1745年)に廃止。跡地は幕府米蔵である天王寺御蔵となったそうです。
32.SN3I1939.jpg


大乗坊(だいじょうぼう)
当山は元は四天王寺の東北方、牛崎と云う所に在った寶満寺37坊の1つ。織田信長の石山本願寺攻めの合戦(1570~1580年)に巻き込まれ、再三にわたる兵火の難を逃れるため、当時の住職の秀言律師は本尊の毘沙門天の仏頭を奉じ、ここ難波村(現在の日本橋筋)に草庵を起こし、大乗坊を再興したそうです。
33.SN3I1943.jpg


この後、南海難波駅まで歩きました。

ご訪問していただきありがとうございました。



nice!(47) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 47