24.中央区をあるく大阪) [ウォーキング大阪24区]
「24.中央区をあるく」に参加してきました。(20180710)
法円坂遺跡
大阪中央区の歴史的な街並み及び新しい街並みを歩いてきました。
当日は晴れ、最高気温32.2℃。暑かったですが、気持ち良いウォーキングになりました。
集合場所湊町リバープレイスを出発して法善寺、法案寺、国立文楽劇場、高津宮、住友銅吹所、難波宮跡を経由して法円坂遺跡まで歩きます。
集合場所の湊町リバープレイス
湊町リバープレイスを出発して、道頓堀川沿いを歩きます。
法善寺に着きました。
法善寺(ほうぜんじ)
山号は天龍山。本尊は阿弥陀如来。そのほか水掛不動(西向不動尊)や金毘羅堂などがあり、特に水掛不動は有名。当寺院は千日念仏を行ったことから俗に千日寺と呼ばれ、千日前は当寺院の門前に由来するそうです。
水掛不動
道頓堀を歩き、法案寺から国立文楽劇場に向かいます。
法案寺(ほうあんじ)
法案寺は大阪府大阪市中央区にある仏教寺院。詳名は法案寺南坊。 通称・日本橋聖天。山号は志宜山。高野山真言宗・準別格本山。 本尊・薬師如来。現在、仮本堂には聖観音・歓喜天・不動明王・弘法大師などを祀り、境内には弁財天・不動明王・地蔵菩薩などが祀られているそうです。
国立文楽劇場(こくりつぶんらくげきじょう)
人形浄瑠璃「文楽」上演のための舞台機構を備えた劇場。昭和59年4月に開場記念公演が行われた。日本を代表する伝統芸能のひとつである人形浄瑠璃文楽を中心に、上方の伝統芸能の公開・保存・継承の拠点となっているそうです。
今回、国立文楽劇場の展示室を見学させていただきました。
少し休憩後、高津宮に向かいます。
高津宮(こうづぐう)
貞観8年(866)、清和天皇の勅令によって難波高津宮の遺跡が探され、あったと定められた地に仁徳天皇を祀る社が建立されたのが始まりとされている。700年後、正親町天皇の天正11年(1583)、豊臣秀吉が大坂城を築城した際にご神体を現在地に移したが、第2次世界大戦時の大阪大空襲で神社は悉く全焼。現在の社殿は、戦後に再建されたもの。古典落語「高津の富」「高倉狐」「祟徳院」の舞台として知られ、古くから大坂町人の文化の中心地として賑わっていたそうです。
空堀商店街を通過して住友銅吹所に向かいます。
住友銅吹所(すみともどうふきしょ)
寛永年間(1640ころ)住友家2代、友以(とももち)によって開かれた銅精練所跡。当時大坂は銅精練業の中心地で、両横堀・長堀など川沿いの舟運の便利な場所に多くの銅吹所があった。輸出用の銅はすべて大坂でつくられ長崎へ送られた。そのうち、住友銅吹所が最も有名であった。近年の発掘調査により、金銀を収納する地下金庫・約80基に及ぶ炉跡や、住居跡からは当時の生活を偲ばせる、中国陶器片が多数見つかっている。この銅吹所は明治6年ごろまで続き、その後は住友家の居宅となった。当時木造の洋館は珍しがられたが、戦災で焼失したそうです。
松屋町界隈を通過します。
難波宮跡に着きました。
難波宮跡(なにわのみやあと)
大阪市中央区法円坂の一帯に広がっている史跡公園。昭和36年(1961)、飛鳥から奈良時代にかけて前後2期の難波宮跡が確認された。現在では、宮殿の中心部とされる約9万平方メートル余りの範囲が国の史跡に指定され、史跡公園として整備がすすめられているそうです。
法円坂遺跡(ほうえんざかいせき)
法円坂遺跡のある上町台地北端部(中央区法円坂付近)は古墳時代から大変重要な地域で、 5世紀に建設された巨大な高床式倉庫群があり、そのうちの1棟が、大阪歴史博物館・NHK大阪放送局の南側の史跡公園に復元されています。 また、最近発見された5世紀の須恵器窯跡「上町谷窯」からもこの地域の重要性が裏付けられたそうです。
冒頭の写真のところです。
法円坂遺跡で昼食休憩になりました。
横にはNHK大阪放送会館(左側)、大阪歴史博物館(右側)があります。
昼食休憩後、曲り淵地蔵、大阪商工会議所、里程元標跡、天神橋筋商店街を経由して天満駅まで歩きました。
法円坂遺跡を出発します。
曲り淵地蔵(まがりぶちじぞう)
曲り淵地蔵の由来は太閤の時代にさかのぼり、太閤が東横堀を掘り割った当時この地にあった浄国寺をさけ、川筋を曲げたため、俗称曲がりが発生した。この曲がりのため流水は岸にあたり渦をなし、年々入水する者が絶えなかったという。ここに町民相謀り、水難除けの地蔵尊を祀り、供養したのが始まりと言われるそうです。
大阪商工会議所の前を通過します。
里程元標跡(りていげんぴょうあと)
江戸時代の里程計算の起点は、高麗橋の東詰にあった。ここが京街道・中国街道・紀州街道など諸国への道のり、車馬賃の基点。明治9年道路の制度公布によりひきつづき里程計算の起点となり、高麗橋の東南詰に元標がたてられた。現在は道路元標として梅田新道交差点西北角に移されている。また高麗橋は、江戸時代から公儀橋のなかでも重視され、西詰には町奉行所の制札場があった。なお高麗橋は大阪で最初の鉄橋(明治3年)だそうです。
天神橋を渡ります。
天満橋方面の景色です。
天神橋筋商店街(てんじんばしすじしょうてんがい)
天神橋筋商店街は南北約2.6kmと直線では日本一の長さ。天神橋筋1丁目から7丁目までの間に古き良き専門店から、飲食店まで多彩なお店が約600店、2丁目には天満天神繁昌亭、大阪天満宮などがあり年中にぎわっています。
この後、ウォーキング開催のお世話をして頂いているスポーツ店を経由して天満駅まで歩きました。
天満駅
Niceボタンをクローズさせていただきました。
ご訪問していただきありがとうございました。
法円坂遺跡
大阪中央区の歴史的な街並み及び新しい街並みを歩いてきました。
当日は晴れ、最高気温32.2℃。暑かったですが、気持ち良いウォーキングになりました。
集合場所湊町リバープレイスを出発して法善寺、法案寺、国立文楽劇場、高津宮、住友銅吹所、難波宮跡を経由して法円坂遺跡まで歩きます。
集合場所の湊町リバープレイス
湊町リバープレイスを出発して、道頓堀川沿いを歩きます。
法善寺に着きました。
法善寺(ほうぜんじ)
山号は天龍山。本尊は阿弥陀如来。そのほか水掛不動(西向不動尊)や金毘羅堂などがあり、特に水掛不動は有名。当寺院は千日念仏を行ったことから俗に千日寺と呼ばれ、千日前は当寺院の門前に由来するそうです。
水掛不動
道頓堀を歩き、法案寺から国立文楽劇場に向かいます。
法案寺(ほうあんじ)
法案寺は大阪府大阪市中央区にある仏教寺院。詳名は法案寺南坊。 通称・日本橋聖天。山号は志宜山。高野山真言宗・準別格本山。 本尊・薬師如来。現在、仮本堂には聖観音・歓喜天・不動明王・弘法大師などを祀り、境内には弁財天・不動明王・地蔵菩薩などが祀られているそうです。
国立文楽劇場(こくりつぶんらくげきじょう)
人形浄瑠璃「文楽」上演のための舞台機構を備えた劇場。昭和59年4月に開場記念公演が行われた。日本を代表する伝統芸能のひとつである人形浄瑠璃文楽を中心に、上方の伝統芸能の公開・保存・継承の拠点となっているそうです。
今回、国立文楽劇場の展示室を見学させていただきました。
少し休憩後、高津宮に向かいます。
高津宮(こうづぐう)
貞観8年(866)、清和天皇の勅令によって難波高津宮の遺跡が探され、あったと定められた地に仁徳天皇を祀る社が建立されたのが始まりとされている。700年後、正親町天皇の天正11年(1583)、豊臣秀吉が大坂城を築城した際にご神体を現在地に移したが、第2次世界大戦時の大阪大空襲で神社は悉く全焼。現在の社殿は、戦後に再建されたもの。古典落語「高津の富」「高倉狐」「祟徳院」の舞台として知られ、古くから大坂町人の文化の中心地として賑わっていたそうです。
空堀商店街を通過して住友銅吹所に向かいます。
住友銅吹所(すみともどうふきしょ)
寛永年間(1640ころ)住友家2代、友以(とももち)によって開かれた銅精練所跡。当時大坂は銅精練業の中心地で、両横堀・長堀など川沿いの舟運の便利な場所に多くの銅吹所があった。輸出用の銅はすべて大坂でつくられ長崎へ送られた。そのうち、住友銅吹所が最も有名であった。近年の発掘調査により、金銀を収納する地下金庫・約80基に及ぶ炉跡や、住居跡からは当時の生活を偲ばせる、中国陶器片が多数見つかっている。この銅吹所は明治6年ごろまで続き、その後は住友家の居宅となった。当時木造の洋館は珍しがられたが、戦災で焼失したそうです。
松屋町界隈を通過します。
難波宮跡に着きました。
難波宮跡(なにわのみやあと)
大阪市中央区法円坂の一帯に広がっている史跡公園。昭和36年(1961)、飛鳥から奈良時代にかけて前後2期の難波宮跡が確認された。現在では、宮殿の中心部とされる約9万平方メートル余りの範囲が国の史跡に指定され、史跡公園として整備がすすめられているそうです。
法円坂遺跡(ほうえんざかいせき)
法円坂遺跡のある上町台地北端部(中央区法円坂付近)は古墳時代から大変重要な地域で、 5世紀に建設された巨大な高床式倉庫群があり、そのうちの1棟が、大阪歴史博物館・NHK大阪放送局の南側の史跡公園に復元されています。 また、最近発見された5世紀の須恵器窯跡「上町谷窯」からもこの地域の重要性が裏付けられたそうです。
冒頭の写真のところです。
法円坂遺跡で昼食休憩になりました。
横にはNHK大阪放送会館(左側)、大阪歴史博物館(右側)があります。
昼食休憩後、曲り淵地蔵、大阪商工会議所、里程元標跡、天神橋筋商店街を経由して天満駅まで歩きました。
法円坂遺跡を出発します。
曲り淵地蔵(まがりぶちじぞう)
曲り淵地蔵の由来は太閤の時代にさかのぼり、太閤が東横堀を掘り割った当時この地にあった浄国寺をさけ、川筋を曲げたため、俗称曲がりが発生した。この曲がりのため流水は岸にあたり渦をなし、年々入水する者が絶えなかったという。ここに町民相謀り、水難除けの地蔵尊を祀り、供養したのが始まりと言われるそうです。
大阪商工会議所の前を通過します。
里程元標跡(りていげんぴょうあと)
江戸時代の里程計算の起点は、高麗橋の東詰にあった。ここが京街道・中国街道・紀州街道など諸国への道のり、車馬賃の基点。明治9年道路の制度公布によりひきつづき里程計算の起点となり、高麗橋の東南詰に元標がたてられた。現在は道路元標として梅田新道交差点西北角に移されている。また高麗橋は、江戸時代から公儀橋のなかでも重視され、西詰には町奉行所の制札場があった。なお高麗橋は大阪で最初の鉄橋(明治3年)だそうです。
天神橋を渡ります。
天満橋方面の景色です。
天神橋筋商店街(てんじんばしすじしょうてんがい)
天神橋筋商店街は南北約2.6kmと直線では日本一の長さ。天神橋筋1丁目から7丁目までの間に古き良き専門店から、飲食店まで多彩なお店が約600店、2丁目には天満天神繁昌亭、大阪天満宮などがあり年中にぎわっています。
この後、ウォーキング開催のお世話をして頂いているスポーツ店を経由して天満駅まで歩きました。
天満駅
Niceボタンをクローズさせていただきました。
ご訪問していただきありがとうございました。