ねやがわ_なわて歴史の道ウォーク(大阪) [ウォーキング大阪府北中部]
「ねやがわ・なわて歴史の道ウォーク」に参加してきました。(20180418)
深北緑地
大阪寝屋川、四條畷の歴史的な街並みを歩いてきました。
当日は晴れ、最高気温21.3℃。気持ち良いウォーキングになりました。
集合場所東寝屋川駅近くの公園を出発して弘法井戸、打上古墳群、しろやま公園を経由して南寝屋川公園まで歩きます。
東寝屋川駅近くの寝屋川公園
寝屋川公園を出発します。
弘法井戸(こうぼういど)
弘法井戸は、いくら日照りが続いても涸れることはなかったと語り継がれています。高野山へ通じるこの街道は、古くから弘法大師を信仰する人々の通行が多く、街道そばのこの井戸は、行き交う人々の渇きをいやしたそうです。
打上古墳群(うちあげこふんぐん)
打上の周辺には、古くから多くの古墳があったといわれています。江戸時代の『河内名所図会(かわちめいしょずえ=観光ガイドブックのようなもの)』には、「八十塚(やそづか)同村にあり由縁不詳、八十は其数の多きをいふ」と紹介されています。打上には、高塚・ほり塚・ぬめり塚・から塚などという「塚」の名前のついた地名が多くみられます。これらのことから、かつて打上には多くの塚(古墳)が存在していたことがうかがえます。しかし、ほとんどの古墳は、耕地などをつくるために消滅してしまったようです。明和小学校前バス停横にある多くの花崗岩の巨石は、かつてこの付近に散在していた古墳に使われていた石材を集めたものと考えられるそうです。
しろやま公園に向かいます。
しろやま公園に着きました。
ツツジが綺麗に咲いていました。
少し休憩後、南寝屋川公園に向かいます。
南寝屋川公園に着きました。
藤が綺麗に咲いていました。
南寝屋川公園で昼食休憩になりました。
昼食休憩後、大念寺、深北緑地、楠正行墓、和田賢秀墓を経由して忍ケ丘駅まで歩きました。
出発して直ぐに大念寺を通過します。
大念寺(だいねんじ)
当山は寺伝によると鎌倉末期の1314年(正和3年)願阿上人の創建とあるが、詳しいことは不明である。現在の宗派は大念仏宗であるが、『寝屋川市史』によれば、開基した上人の法名「願阿」が「願阿弥陀仏」を略した阿弥号とすれば、創建当時は一遍上人につながる時宗の寺であった可能性があるそうです。
深北緑地に向かいます。
深北緑地(ふかきたりょくち)
少し休憩後、楠正行墓、和田賢秀墓に向かいます。
楠正行墓(くすのきまさつらのはか)
楠(楠木)正行は楠木正成(くすのきまさしげ)の子で、南北朝時代の 正平三年(1348年)の四條畷の戦いで北朝方の高師直 (こうのもろなお)と戦って討ち死 しました。 正行の遺骸はこの地に葬られ墓石が建てられたと伝えられています。その後 80年経ってクスノキ2本が植えられ、成長を続けたクスノキは墓石を包み込み2本が1本 となって現在に至っています。 現在墓所にある石碑は明治11年に建てられたもので、 大久保利通の揮毫(きごう)による「贈従三位楠正行朝臣之墓」の銘が刻まれているそうです。
和田賢秀墓(わだけんしゅうのはか)
南北朝時代の武将楠正行の家臣和田賢秀の墓所で、賢秀討ち死の地と伝えられています。賢秀は勇将として知られていました。正平三年(1348年)の四條畷の戦いの際、正行が討ち死した後も一人で敵将高師直(こうのもろなお)の首を討とうとしましたが果たせず、敵に首をはねられました。地元ではこの首が敵の喉に、あるいは鎧に噛みついて離れなかったと言われています。あるとき地元の人が歯痛で苦しんだ折にこの賢秀の墓所で祈願したところ治ったことから、賢秀は「歯神さん」と呼ばれて厚い信仰を受け今日に至っています。墓所には天保二年(1831年)につくられた位牌型の墓石が建立されているそうです。
この後、忍ケ丘駅まで歩きました。
Niceボタンをクローズさせていただきました。
ご訪問していただきありがとうございました。
深北緑地
大阪寝屋川、四條畷の歴史的な街並みを歩いてきました。
当日は晴れ、最高気温21.3℃。気持ち良いウォーキングになりました。
集合場所東寝屋川駅近くの公園を出発して弘法井戸、打上古墳群、しろやま公園を経由して南寝屋川公園まで歩きます。
東寝屋川駅近くの寝屋川公園
寝屋川公園を出発します。
弘法井戸(こうぼういど)
弘法井戸は、いくら日照りが続いても涸れることはなかったと語り継がれています。高野山へ通じるこの街道は、古くから弘法大師を信仰する人々の通行が多く、街道そばのこの井戸は、行き交う人々の渇きをいやしたそうです。
打上古墳群(うちあげこふんぐん)
打上の周辺には、古くから多くの古墳があったといわれています。江戸時代の『河内名所図会(かわちめいしょずえ=観光ガイドブックのようなもの)』には、「八十塚(やそづか)同村にあり由縁不詳、八十は其数の多きをいふ」と紹介されています。打上には、高塚・ほり塚・ぬめり塚・から塚などという「塚」の名前のついた地名が多くみられます。これらのことから、かつて打上には多くの塚(古墳)が存在していたことがうかがえます。しかし、ほとんどの古墳は、耕地などをつくるために消滅してしまったようです。明和小学校前バス停横にある多くの花崗岩の巨石は、かつてこの付近に散在していた古墳に使われていた石材を集めたものと考えられるそうです。
しろやま公園に向かいます。
しろやま公園に着きました。
ツツジが綺麗に咲いていました。
少し休憩後、南寝屋川公園に向かいます。
南寝屋川公園に着きました。
藤が綺麗に咲いていました。
南寝屋川公園で昼食休憩になりました。
昼食休憩後、大念寺、深北緑地、楠正行墓、和田賢秀墓を経由して忍ケ丘駅まで歩きました。
出発して直ぐに大念寺を通過します。
大念寺(だいねんじ)
当山は寺伝によると鎌倉末期の1314年(正和3年)願阿上人の創建とあるが、詳しいことは不明である。現在の宗派は大念仏宗であるが、『寝屋川市史』によれば、開基した上人の法名「願阿」が「願阿弥陀仏」を略した阿弥号とすれば、創建当時は一遍上人につながる時宗の寺であった可能性があるそうです。
深北緑地に向かいます。
深北緑地(ふかきたりょくち)
少し休憩後、楠正行墓、和田賢秀墓に向かいます。
楠正行墓(くすのきまさつらのはか)
楠(楠木)正行は楠木正成(くすのきまさしげ)の子で、南北朝時代の 正平三年(1348年)の四條畷の戦いで北朝方の高師直 (こうのもろなお)と戦って討ち死 しました。 正行の遺骸はこの地に葬られ墓石が建てられたと伝えられています。その後 80年経ってクスノキ2本が植えられ、成長を続けたクスノキは墓石を包み込み2本が1本 となって現在に至っています。 現在墓所にある石碑は明治11年に建てられたもので、 大久保利通の揮毫(きごう)による「贈従三位楠正行朝臣之墓」の銘が刻まれているそうです。
和田賢秀墓(わだけんしゅうのはか)
南北朝時代の武将楠正行の家臣和田賢秀の墓所で、賢秀討ち死の地と伝えられています。賢秀は勇将として知られていました。正平三年(1348年)の四條畷の戦いの際、正行が討ち死した後も一人で敵将高師直(こうのもろなお)の首を討とうとしましたが果たせず、敵に首をはねられました。地元ではこの首が敵の喉に、あるいは鎧に噛みついて離れなかったと言われています。あるとき地元の人が歯痛で苦しんだ折にこの賢秀の墓所で祈願したところ治ったことから、賢秀は「歯神さん」と呼ばれて厚い信仰を受け今日に至っています。墓所には天保二年(1831年)につくられた位牌型の墓石が建立されているそうです。
この後、忍ケ丘駅まで歩きました。
Niceボタンをクローズさせていただきました。
ご訪問していただきありがとうございました。