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01.都島区_大阪城をあるく(大阪) [ウォーキング大阪24区]

「都島区・大阪城をあるく」に参加してきました。(20180410)

大阪城
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大阪都島区の街並みと大阪城の中をぐるぐる歩いてきました。

当日は晴れ、最高気温21.7℃。気持ち良いウォーキングになりました。

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集合場所桜ノ宮公園を出発して桜宮神社、藤田邸跡公園を経由して大阪城西の丸庭園まで歩きます。

桜ノ宮公園
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桜ノ宮公園を出発します。
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桜宮神社(さくらのみやじんじゃ)
旧東生郡野田村「小橋」桜の馬場字「宮田」が創祀の地で、氏神として祀られていたが、1613年造営の社殿が1620年大和川の洪水で流出し、中野村(現JR環状線「桜ノ宮駅」直下の地)に漂着、この地で再建し祀られることになった。しかし、この地は低地であったため、その後1666年、1674年に水禍に罹り、1756年現在地(中野村字厨)に遷座したといわれているそうです。
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大川沿いを歩きます。

向こう岸に見える造幣局の桜の通り抜けの前日でした。(今年の桜の通り抜け(4/11-17))
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大阪城京橋口に着きました。
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大阪城の中を色々と歩きます。

大阪城内の内容は後半にまとめました。


大阪城(おおさかじょう)
大阪城は大阪上町台地の北端に位置。当地には戦国時代末期から安土桃山時代初期にかけて石山本願寺があったが、1580年の石山合戦で焼失した後、豊臣秀吉によって大坂城が築かれたそうです。
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豊国神社(ほうこくじんじゃ)
大阪城内桜門の正面に鎮座。「豊臣秀吉公」「豊臣秀頼公」「豊臣秀長卿」を 奉祀する神社。農民から天下人になられた秀吉公に肖り出世開運の神として信仰を集めているそうです。
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大阪城西の丸庭園に着きました。
西の丸庭園
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大阪城西の丸庭園で昼食休憩になりました。


休憩後、大阪城公園、OBPを経由して京橋駅まで歩きました。


大阪城大手門を出ます。
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大阪城公園を歩きます。
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JO-TERRACE OSAKA(城テラス大阪)を通過します。
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OBP
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この後、京橋駅まで歩きました。
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大阪城めぐり

今回初めて大阪城の中をぐるぐる歩いてきました。

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大阪城(おおさかじょう)
大阪城は大阪上町台地の北端に位置。当地には戦国時代末期から安土桃山時代初期にかけて石山本願寺があったが、1580年の石山合戦で焼失した後、豊臣秀吉によって大坂城が築かれたそうです。

大阪城には10か所の重要文化財があるそうです。金明水井戸屋形、大手門、多聞櫓、千貫櫓、乾櫓、一番櫓、六番櫓、焔硝蔵、金蔵、桜門の10箇所。今回は金明水井戸屋形以外の9カ所巡ってきました

金明水井戸屋形(きんめいすいいどやかた)
大阪城の小天守台にある井戸の建物。水面まで約33m。井筒は一戸の石をくり抜いて作られています。豊臣秀吉が水の毒気を抜くために黄金を沈めたという伝説があったが、学術調査の結果、この井戸は徳川幕府が大坂城再築に伴い、1624年(寛永元年)に新たに彫られた井戸であり、屋形(屋根)は1626年(寛永3年)に創建された当時のものということがわかりました。1665年(寛文5年)に落雷により天守閣は焼失しますが、この「金明水井戸屋形」は残り続けました。江戸時代までは黄金水(おうごんすい)と呼ばれていましたが、本来の金明水(金水)は、天守の東側、現在の配水池あたりにあったそうです。
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金明水井戸屋形は今回訪門しなかったので写真はネットから引用させていただきました。
  

京橋口から大阪城に入ります。

京橋口(きょうばしぐち)
京橋口という名前は門外を通る京街道に架けられた「京橋」に由来。現在の京阪電鉄とJRの京橋駅の名称も、この橋の名前からきたものである。京橋口は元和六年(1620)の徳川幕府の大坂城再建工事の第一期につくられたもので典型的な内枡形の門となっている。京橋口枡形は戊辰戦争時の火災を免れ戦前は高麗門と壮大なコ型の多聞櫓の勇姿が大阪城名物の一つとなっていたが昭和20年(1945)、太平洋戦争末期の空襲で伏見櫓ともども焼失しているそうです。
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伏見櫓跡に向かいます。
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伏見櫓跡(ふしみやぐらあと)
徳川大坂城の二の丸に建っていた櫓の内、唯一3階だった櫓で(他の櫓は全て2層)、伏見城からの移築と伝える。付近の街道からのぞむ優美な姿が江戸時代以来親しまれ、明治維新の大火でも類焼をまぬがれたが、昭和20年(1945)の空襲で全焼したそうです。
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極楽橋を渡ります。
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御座船も気持ちよさそうです。
この日は天気も良くて御座船の乗船は2時間待ちだったようです。
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青屋門を臨みます。
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秀頼淀殿ら自刃の地の碑(ひでよりよどどのらじはのちのひ)
慶長20年(元和元年、1615年)の大坂夏の陣では、旧暦の5月8日、徳川軍に追い詰められた豊臣秀頼とその母淀殿が、山里丸にあった櫓にひそみ、自害したと多くの記録が伝えている。それにちなんで平成9年(1997年)、現在の山里丸の一角に大阪市の手により、この記念碑が建てられたそうです。
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刻印石広場を通過します。

刻印石広場(こくいんせきひろば)
この広場は、大阪築城400年を記念し、その石垣を形成している刻印石を展示し紹介する為に新設。刻印石とは、大阪城の石垣築城に参加を命ぜられた諸大名の家臣や石工が、石集めや石積みの過程で、個々の石に必要に応じて、文字や文様を刻み込み、さらに出来上がった石垣の表面に担当大名の家紋などを刻み込んだもので、これまでに数万個も発見されています。ここに展示しているのは、昔の石置場、周辺の川筋などから出土したものや城内の石垣修理で撤去されたものを展示してます。大阪城の石垣は、豊臣時代のものが残っていると思われがちですが、実は現存している石垣はすべて元和・寛永年間(1620年~1629年)に、徳川幕府が西日本の69藩を動員して築かせたものです。無数の刻印石がその事実を証明しているそうです。
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山里丸石垣の機銃掃射痕
大阪城は明治時代以降、陸軍の第四師団司令部として昭和の第二次世界大戦まで利用されてきました。また、大阪城の東側には兵器工場「大阪砲兵工廠」もあったことから、終戦頃までに何度も攻撃されています。石垣の表面に残る傷は、第二次世界大戦末期の空襲による被害の痕跡。機銃掃射(きじゅうそうしゃ)によって付いたものと推定されているそうです。
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金蔵に向かいます。

金蔵(きんぞう) 【重要文化財】
江戸時代、幕府の金貨・銀貨を保管した建物で、幕府直営の金庫として役割を果たしました。「かねぐら」「かなぐら」とも読みます。1751年(宝暦元年)、この場所の南にあった長屋を切断・改造し、元々北西側にあった金蔵を元金蔵、この金蔵を「新金蔵」と呼んでいました。元金蔵は1892年(明治25年)に配水池建築の為に、この金蔵の東側に移築。のち1929年(昭和4年)に陸軍が高槻工兵隊の敷地内に移築しましたが、焼失しています。この金蔵は高さ5.8m、面積は93.11㎡あり、内部は大小の2室あります。手前の大きな部屋に通常の出納用の金銀、奥の小さな部屋に非常用の金銀を置きました。防災や防犯に工夫がこらされ、床下は石敷きで、入口は二重の土戸と鉄格子戸の三重構造に、小窓は土戸と鉄格子、床下の通気口にも鉄格子がはめられているそうです。
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天守閣の前を通過します。
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銀明水井戸の井筒(ぎんめいすいいどのいづつ)
この井筒は元来、本丸に建つ旧陸軍第四師団司令部【だいよんしだんしれいぶ】庁舎(旧大阪市立博物館)の裏手にある銀明水(銀水)井戸のものである。銀明水井戸は徳川幕府再築の大坂城本丸に設けられた5つの井戸のうちの一つで、本丸御殿【ほんまるごてん】台所の裏に位置し、本丸を警備する役人たちの飲料水として用いられたそうです。
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桜門を通ります。

桜門(さくらもん) 【重要文化財】
本丸の正門にあたる。重要文化財。1626年(寛永3年)、徳川幕府の大坂城再築工事で創建されたが、1868年(慶応4年=明治元年)に陸軍により再建し現在に至る。左右の門も再建時に新築されたが、戦後の台風により倒壊。1969年(昭和44年)に復元されている。桜門の名称は豊臣秀吉が築いた時からのもの。当時は二ノ丸の桜の馬場にあったため、近くの桜並木に因んで命名された。ただ、当時の桜門は、徳川再築の地家と構造が大きく異なる。当時の本丸入口は今よりも西側にあり、方向も違っていた。門の両脇にある石は「龍虎石(りゅうこいし)」と呼ばれ、江戸時代には右に龍が、左に虎が現れると言われていたそうです。
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一番櫓、六番櫓に向かいます。

一番櫓(いちばんやぐら) 【重要文化財】
二ノ丸南側の石垣には、二層二階建ての隅櫓(すみやぐら)が、東から西へ一番から七番まで建っていました。この櫓は最も東に位置するため「一番櫓」と呼ばれています。外側にあたる東面と南面に窓が16個あり、鉄砲や矢を放つための狭間(さま)も多数あり、玉造口に攻め入る敵を側面から一斉に攻撃できます。また東面には石落としも設けられています。創建は徳川幕府再築工事の最終段階である1628年(寛永5年)で、戦後の解体修復時にわかったことは、1658年~1661年(万治年間)、1668年(寛文8年)、1832年(天保3年)の3度だったと推定。特に1832年(天保3年)は解体も行うほど大規模だったようです。建物の下の栗石(ぐりいし)の間から当時の衣類が見つかっています。面積は1階が167.98㎡、2階が96.31㎡、高さは約14.3mあります。現存するのは一番櫓と六番櫓のみだそうです。
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六番櫓(ろくばんやぐら) 【重要文化財】
二ノ丸南側の石垣上に、二層二階でほぼ同規模の隅櫓が、東から西へ一番から七番まで建っています。この櫓は六番目にあることから「六番櫓」と言います。外側にあたる南面と西側に石落としを1か所ずつ設け、窓は外側を中心に26か所、鉄砲や矢を放つための狭間も多数あけられ、外敵に備えた堅固なつくりをしています。創建は徳川幕府の大坂城再築工事の最終段階にあたる1628年(寛永5年)で、上層の破風(はふ)を飾る東西の懸魚(げぎょ)の裏側に「寛永五暦辰拾月吉日」と書かれていました。面積は1階224.16㎡、2階133.43㎡、高さは15.4mあるそうです。
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西の丸庭園で昼食休憩になりました。
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西の丸庭園で昼食休憩した後、西の丸庭園内を巡ります。

桜の標準木(さくらのひょうんぼく)
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焔硝蔵、乾櫓に向かいます。

焔硝蔵(えんしょうぐら) 【重要文化財】
徳川幕府が鉄砲や大砲に使用する焔硝(火薬)を保管した蔵で、現在の焔硝蔵は貞享2年(1685年)に建造されたもの。焔硝蔵はそれより以前にも大阪城内に数か所ありましたが、青屋口にあった土蔵造りの焔硝蔵は万治3年(1660年)に落雷を受け、大爆発を起こしました。また、別の場所にあった半地下式の焔硝蔵も部材の腐食による立て直しが度々行われるなど、幕府は焔硝の有効な保管方法に苦慮していました。その課題を克服するべく、この焔硝蔵では耐火・耐久・防水に特に工夫がこらされ、床・壁・天井・梁(はり)をすべて花崗岩にし、石壁の厚さは約2.4m、屋根の下は土で固められています。面積は171.9㎡、高さは5.4mで、このような石造りの火薬庫は日本では例がありません。徳川時代の大坂城には、西日本の幕府の軍事拠点として、焔硝以外にも大量の兵糧や武器武具が備蓄されていたそうです。
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乾櫓(いぬいやぐら) 【重要文化財】
乾(戌亥)は西北を表す言葉で、西ノ丸の西北に位置することから乾櫓という名前になっています。大手口から京橋口までの広い範囲を見渡す重要な地点にあり、堀を隔てた城の外側の南・西・北のどの角度からも望めたことから「三方正門の櫓」とも呼ばれていました。戦後に解体修理を行い、「元和六年申ノ九月吉日 ふかくさ 三十郎」と書かれた瓦が見つかっています。このことから創建が1620年(元和6年)の徳川幕府時代だとわかりました。すなわち乾櫓は千貫櫓と同じく、大坂城再築工事に築かれたもので、最も古い構造物の一つ。高さ10.3m、2層2階建て、186.23㎡、L字型の総2階造りという珍しい構造。この櫓の工事責任者は茶人でも有名は小堀遠州(こぼりえんしゅう)だそうです。
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千貫櫓に向かいます。

千貫櫓(せんがんやぐら) 【重要文化財】
千貫櫓は大阪城の大手口を守る重要な隅櫓の一つ。西側と南側は堀に面し、大手門に向かう敵を側面から攻撃できます。創建は徳川幕府により大坂城再築工事が開始された1620年(元和6年)。戦後の解体修理の時に、墨書で「元和六年九月十三日御柱立つ」と記された部材が見つかりました。二ノ丸の北西部に位置する乾櫓と同様に大阪城最古の建造物で、どちらも工事責任者は茶人で有名な小堀遠州(こぼりえんしゅう)です。面積は1階217.26㎡、2階162.95㎡、高さは13.2m。具体的な場所は不明ですが豊臣秀吉築造の大坂城にも千貫櫓はあり、またそれ以前の織田信長が大坂を領していた頃にも千貫櫓はありました。織田信長がこの地にあった大坂(石山)本願寺を攻めた時に、一つの隅櫓からの横矢に悩まされ「千貫文の銭を出しても奪い取りたい櫓だ」と兵士たちの間で噂されたという逸話が残っているそうです。
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大阪迎賓館
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西の丸庭園を出て、多聞櫓、大手門に向かいます。

多聞櫓(たもんやぐら) 【重要文化財】
大手口枡形の石垣の上に建つ櫓で、大門の上をまたぐ渡櫓とその右に直角に折れて接続する続櫓によって構成されています。徳川幕府の大坂城再築工事により1628年(寛永5年)に創建されましたが、1783年(天明3年)の落雷で全焼。1848年(嘉永元年)に再築されています。土塁や石垣上に築かれた長屋状の建物を一般に多聞(多門)と呼びますが、その名称は戦国時代の武将、松永長秀が大和国(奈良県)の多聞城でこの形式の櫓を築いたことに由来します。現存する多聞櫓の中でも、大坂城の多聞櫓は最大規模で、高さは14.7m、建築総面積は710.25㎡あります。渡櫓内部には70畳敷を最大とする部屋が4室、続櫓内部には廊下の他に9畳、12畳、15畳の部屋が合計6室あり、多数の兵や武器を真上から攻撃できます。「槍落し」が設けられるなど、高い防御能力を備えています。大阪城の二の丸には京橋口、玉造口にも多聞櫓がありましたが、現存するのはここだけだそうです。
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大手門(おおてもん) 【重要文化財】
城の正面を大手(追手[おって])と言い、その入り口を大手口(追手口)、設けられた門を大手門(追手門)と言います。現存する大阪城の大手門は、1628年(寛永5年)に徳川幕府により大坂城再築工事の時に創建されました。正面左右の親柱の間に屋根を乗せ、親柱のそれぞれ背後に立つ控え柱との間にも屋根を乗せた高麗門形式。屋根は本瓦葺で、扉や親柱を黒塗総鉄板張にしています。開口部の幅は5.5m、高さ7.1m。親柱・控柱の下部はその後、腐食してしまったために、根継がほどこされています。特に正面右側の控柱の継手は一見不可能にしか見えない技法が使われています。門の左右に接続する大手門北方堀・大手門南方堀も重要文化財に指定されているそうです。
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この後、大阪城公園から京橋まで歩きました。


ご訪問していただきありがとうございました。




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