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堺の古墳巡り(大阪) [ウォーキング大阪府南部]

「堺の古墳巡り」に参加してきました。(20180221)

御廟山古墳
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大阪堺市の歴史ある古墳群など巡ってきました。

当日は曇りのち晴れ、最高気温9.5℃。気持ち良いウォーキングになりました。

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地図 (1).jpg


集合場所津久野駅近くの家原池公園を出発して野々宮神社、水賀池公園を経由して白鷺公園まで歩きます。

津久野駅近くの家原池公園(えばらいけこうえん)
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公園を出発します。
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「深井花のこみち」を歩きます。
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野々宮神社の横を通過します。

野々宮神社(ののみやじんじゃ)
創建時期は不明、永正年間の兵火で消失後現在地に移転。境内には「寛文三年」の銘のある石灯籠一対など注目すべき石造遺物があり、「常陵郷の森」は市の保存樹木に指定されているそうです。
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水賀池公園(みずがいけこうえん)に着きました。
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少し休憩した後、白鷺公園に向かいます。

泉北高速鉄道に沿いに歩きます。
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白鷺公園(しらさぎこうえん)
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白鷺公園で昼食休憩になりました。


昼食休憩後、 ニサンザイ古墳、百舌鳥八幡宮、御廟山古墳、いたすけ古墳、大仙公園、仁徳陵古墳を経由して三国ヶ丘駅まで歩きました。

白鷺公園を出発します。

大阪府立大学の前を通過します。
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ニサンザイ古墳(にさんざいこふん)
百舌鳥古墳群の南東端にある前方部を西に向けた大型前方後円墳で、墳丘の規模は全長約300m、後円部径約170m、高さ約24.6m、前方部幅約224m、高さ約25.9mです。3段に築かれた墳丘はくびれ部の両側には造出しがあり、主体部の構造や副葬品は不明ですが、葺石と埴輪のあることが確認されています。現在は一重の盾形周濠がめぐっていますが、昭和51年(1976年)に周囲の発掘調査で外濠のあることがわかりました。前方部が広くどっしりと安定感のある古墳で、反正天皇陵古墳(田出井山古墳)のほぼ4倍の大きさです。また建造時期もほぼ同じことから、これを反正天皇陵と考えている説もあります。墳丘は宮内庁が反正天皇の空墓として、陵墓参考地に指定し管理。ニサンザイは陵(みささぎ)が語源と考えられ、前方部が大きく広がったその姿は古墳群の中で最も精美といわれ、百舌鳥古墳群の中で最も新しい、5世紀後半に造られたとされる古墳だそうです。
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百舌鳥八幡宮に向かいます。


百舌鳥八幡宮(もずはちまんぐう)
欽明天皇(532~571年)のころに建てられたと伝えられ、うっそうとした境内と重厚なたたずまいは歴史の古さを感じさせます。本殿右前にある大くすは幹囲り5.2m、樹高25mで樹齢は700年とも800年ともいわれている名古木で、府の天然記念物に指定されています。また、毎年旧暦8月15日の中秋の名月にかけて、勇壮なふとん太鼓を繰り出す「月見祭」は、農作の祈願と満月を祝う風習とが合わさって神社の祭りになったものといわれ、記録によると300年以上の伝統があります。太鼓を仕込んだ台の上に、朱色の座布団を5段重ねにした造りのふとん太鼓は、高さ約4m、重さ約3tもあり約70人で担ぎ「ベーラベーラベラショッショイ」というかけ声と太鼓の音で、まちを練り歩いた後神社に奉納されるそうです。
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少し休憩後、御廟山古墳、いたすけ古墳、大仙公園に向かいます。

御廟山古墳(ごびょうやまこふん)
百舌鳥本町にある前方部を西に向けた前方後円墳。平成20年に行われた宮内庁と堺市による発掘調査により、規模が墳丘長約203m、後円部径約113m、前方部最大幅約136mと復元された。墳丘は3段に築かれていて、南側のくびれ部には造出しがあります。葺石と埴輪がありますが、埋葬の主体部の構造や副葬品などはわかっていません。周囲には盾形の濠と堤がめぐっていますが、最近の調査で二重の濠があることがわかっています。墳丘は陵墓参考地として宮内庁が管理しているそうです。
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いたすけ古墳(いたすけこふん)
百舌鳥古墳群のほぼ中央にある前方部を西に向けた前方後円墳で、周りには陪塚とされる古墳が数基ありました。5世紀前半に造られたとされ、全長約146m、後円部径約90m、高さ約12.2m、前方部幅約99m、高さ約11.4mで3段に築成され、南部のくびれ部には造出しがあります。葺石と埴輪があり後円部からは衝角付冑の埴輪が出土しています。台地の南端に位置しているため、濠の南側には大規模な堤が築かれています。この古墳は昭和30年(1955年)頃に住宅造成のため破壊されそうになりましたが、市民運動によって保存されました。当時、後円部から出土した冑の埴輪は堺市の文化財保護のシンボルマークになっているそうです。
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大仙公園(だいせんこうえん)で休憩になりました。


この後、仁徳陵古墳の横を通過して三国ヶ丘駅まで歩きました。


仁徳陵古墳(にんとくりょうこふん)
エジプトのクフ王のピラミッド、中国の秦の始皇帝陵と並ぶ世界3大墳墓の一つ。5世紀中ごろに約20年をかけて築造されたと推定。日本最大の前方後円墳。前方部を南に向けた墳丘は全長約486m、後円部径約249m、高さ約34.8m、前方部幅約307m、高さ約33.9mの規模で3段に築成されています。昭和30年代と最近の調査で造出しから須恵器の甕が出土し、古墳が造られた年代を知る資料として話題になっています。明治5年(1872年)には、前方部で竪穴式石室に収めた長持形石棺が露出し、刀剣・甲冑・ガラス製の壺と皿が出土しました。出土品は再び埋め戻されたといわれていますが、詳細な絵図の記録があり、甲冑は金銅製の立派なものだったようです。日本最大の前方後円墳にふさわしく、周囲に陪塚と考えられる古墳が10基以上あります。仁徳天皇陵とされていますが、日本書紀などに伝えられる仁徳・履中の在位順とは逆に、履中天皇陵古墳よりも後で築造されたことがわかっているそうです。

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