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10.東淀川区をあるく(大阪) [ウォーキング大阪24区]

「東淀川区をあるく」に参加してきました。(20180213)

淀川河川公園
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大阪東淀川区の歴史的な街並みなどを歩いてきました。

当日は晴れ、最高気温6.5℃。気持ち良いウォーキングになりました。

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集合場所淡路駅近くの公園を出発して永春寺、崇禅寺、中島惣社、新大阪駅、須賀森公園、菅原天満宮、定専寺を経由して豊里中央公園まで歩きます。

淡路駅近くの公園
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公園を出発して、新大阪駅までに永春寺、崇禅寺、中島惣社を訪れます。

永春寺(えいしゆんじ)
延宝3年(1675年)に建立、明治11年(1878年)に来(らい)一族の居住跡であった萬年山春明庵と合併して、現在地へ移転。来一族は、京都で刀剣師として暮らしていましたが、南北朝の戦乱を避けるため、元徳3年(1331年)に来国安(くにやす)・国長(くになが)・国次(くにつぎ)らが淡路へ来て、淡路庄や中島庄に門人たちと住んでいたといわれているそうです。
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崇禅寺(そうぜんじ)
崇禅寺は、織物の街桐生の西の山間、小倉の里に元久二年(1205)法然上人の弟子智明上人(桐生小倉の人、園田太郎成家)により開創され、その後南北朝の中頃、応安三年(1370)には、鎌倉大本山建長寺第四十五世東伝士啓禅師により、臨済宗の禅寺として開山され、その長い歴史と法灯を今日に伝えていて、この地方では「阿弥陀様の寺」として知られる古利だそうです。
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中島惣社(なかじまそうしゃ)
中島惣社は、孝徳天皇の白雉2年(651年)難波長柄豊碕に遷都されたころ、五穀豊饒を祈るために多くの神領を得て創建されたといわれているそうです。
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新大阪駅を通過します。
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須賀森公園で休憩になりました。
巨木として有名な楠は大阪府天然記念物指定。樹齢630年以上で、幹の直径は2mほどあり、今も健在だそうです。
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菅原天満宮(すがわらてんまんぐう)
菅原道真公を祭神とし境内には樹齢約400年といわれている楠の大樹(高さ23.9m、幹周り4.6m)があり、大阪市保存樹に指定されているそうです。
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休憩後、豊里中央公園に向かいます。

定専坊(じょうせんぼう)
定専坊は、行基(ぎょうき)の開いた横玉山西光寺(おうぎょくざんさいこうじ)というお寺楠木正成(くすのきまさしげ)の孫である正勝(まさかつ)が隠棲(いんせい)した寺として知られている。正勝の孫の掃部助(かもんのすけ)は出家して浄賢(じょうけん)と名乗り、それまで真言宗だった西光寺を浄土真宗に改め、寺名を定専坊とした。定専坊の名は、本願寺8世の蓮如(れんにょ)が命名したもの。大坂に石山本願寺を創建し、発展の基礎を築いた蓮如は、明応8年(1499年)85歳のときに山科本願寺へ戻るが、その途中の2月18日、「さんば(定専坊の建っている地名)の浄賢」のところに寄り、後継者である息子の実如(じつにょ)を呼んで、浄賢立会いのもとで遺言を伝えた。このことから、蓮如と浄賢には深いつながりがあり、定専坊が信頼できる場所であったということがわかる。山門の「蓮如上人遺跡」の石柱はこれらの故事を物語っているそうです。
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豊里中央公園に着きました。
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豊里中央公園で昼食休憩になりました。


昼食休憩後、 大宮神社、専超寺、大澤寺、大隅神社、寂光寺、淀川河川公園、 神崎川緑地を経由して井高野駅まで歩きました。

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大宮神社(おおみやじんじゃ)
大宮は第27代安閑(あんかん)天皇を主祭神として祀られた神社。安閑天皇はしばしばこの地を訪れ、放牧の適地として奨励されたので、牛を飼い牛乳を固めた酥(そ)というもの(チーズのようなもの)を献上するなど、この土地の発展に尽くされた徳を慕って祭祀された。そのことにちなんで明治の頃まで「乳牛牧(ちちうしまき・ちちゅうしまき)」という地名が残り、今の大隅東・大隅西小学校は大正15年(1926年)に改称するまで「乳牛牧尋常小学校」と称していた。また、この地は聖徳太子の伝承が多く、主祭神御神体の木像は聖徳太子の直作といわれているそうです。
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専超寺(せんちようじ)
専超寺は、本願寺住職の顕如上人(けんにょしょうにん)の弟子である宗円が私有地に一宇を創建し、天正年間(1570年ごろ)に織田信長との石山合戦に参加したのが始まり。本尊は阿弥陀如来で、承応3年(1654年)4月4日に西本願寺の良如(りょうにょ)上人から授かり、寺宝となっている。安永5年(1776年)2月に火災を被り全焼したが、同年7月に本堂庫裏(くり)が再建されたそうです。
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大澤寺(だいたくじ)
大澤寺は、正保(しょうほう)3年(1646年)に僧宗純(そうじゅん)が創建。宗純は当地の名家であった沢田家の出身で、俗名は沢田太郎左衛門といい、大坂本覚寺の日達上人(にったつしょうにん)に帰依(きえ)し、独力で法華宗の寺を建立したそうです。
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大隅神社へ向かいます。
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大隅神社(おおすみじんしゃ)
1700年ほど前、この大隅島に離宮を営んでおられた応神(おうじん)天皇(大隅宮:おおすみのみや)が崩御の後、里人が帝の御徳を慕い宮址に神祠(やしろ)を建立したのが起源。ある年に淀川が氾濫し賀茂(かもの)明神の御神体が漂着して霊光を放ち、里人はこれを迎えて産土神(うぶすなのかみ)に合祀し、社名を賀茂神祠と改め社殿を2つに分けました。3,000坪以上の境内には杉や松が繁り、社殿も壮麗でしたが、明治初年に周囲を民有地に払い下げ、応神天皇を主祭神とし、名も大隅神社と改められた。境内に狛犬や灯籠が多いのは、稲生(いなう)神社などを合祀したから。大隅神社は氏地が広いために、御祭神がお泊まりになる御旅所が、井高野と瑞光寺境内にある。本殿では初詣・成人祭・節分・春秋大祭・七五三詣・年2回の大祓(おおはらい)の行事があり、節分のときには参拝者全員にぜんざいをふるまい、寒さを和らげているそうです。
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寂光寺(じゃっこうじ)
そのむかし、仁安2年(1167年)の秋、歌人西行法師が天王寺へ参詣する途中、江口の里であいにくの時雨にあい、一軒の粗末な里家で雨宿りを乞うたのです。しかし、女家主の遊女妙(たえ)はその申し出を拒みました。そこで、西行が「世の中をいとふまでこそかたからめかりの宿りを惜しむきみかな」と歌を詠むと、「世をいとふ人としきけば仮の宿に心とむなと思ふばかりぞ」と見事に返歌しました。その即興の歌が縁となって後に妙は仏門に入り、余生を人びとの相談ごとにあてたそうです。妙(光相比丘尼:こうそうびくに)の亡き後、江口の人びとが、冥福を祈って建てたのが、江口の君堂だといわれているそうです。
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淀川堤防を歩き、淀川河川公園で休憩後、神崎川緑地を経由して井高野駅まで歩きました。

神崎川緑地
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ご訪問していただきありがとうございました。




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