19.淀川区をあるく(大阪) [ウォーキング大阪24区]
「淀川区をあるく」に参加してきました。(20180123)
淀川堤防から見た大阪市街
大阪淀川区の歴史的な街並みを歩いてきました。
当日は曇り、最高気温10.9℃。気持ち良いウォーキングになりました。
集合場所塚本駅近くの公園を出発して十三公園、神津神社、立森端神を経由して三国本町公園まで歩きます。
塚本駅近くの公園
公園を出発して暫く歩くと大野川緑蔭道路を歩きます。
十三公園に着きました。
しばらく休憩後に淀川堤防、神津神社、立森端神、三国本町公園に向かいます。
淀川河川敷を歩きます。
神津神社(かみつじんじゃ)
明治42年、旧七カ村の氏神を合祀した神社で、正面に八幡神社、両脇に十三戎神社、福永稲荷神社の社があります。土地の守護神、厄除の神、武神、殖産興業の神、学問の神様などが祀られているそうです。
立森端神(たつもりずいじん)
立森瑞神は蛇を主神とする小さな神社で、地元では野中の巳さんと呼ばれ親しまれています。大正末ごろに何人かの村人が、夢で大きな蛇に「私をまつってくれれば水不足にならないようにしてあげる」と言われ、これは神のお告げだと思い、おまつりしたのが始まり。蛇は水に縁のあるところから河川の神、七福神の弁財天のお使いとされ、その財という字から商売繁盛の神様として信仰されています。また美しい女神でもあるので、それにあやかって美しくなりたい女性にも多く信仰されるようになったそうです。
三国本町公園に着きました。
三国本町公園で昼食休憩になりました。
昼食休憩後、 さいの木神社、法華寺、柴島神社を経由して淡路駅まで歩きました。
新大阪近くの操作場を通過します。
さいの木神社(さいのきじんじゃ)
1678年4月、奉行所の役人たちが召し捕りにくる直前に当地で自害した中島水道開削工事の責任者の三庄屋の冥福を祈って建てられた社だそうです。
法華寺(ほっけじ)
天平13年(741年)、聖武天皇は国家鎮護を目的とし、中央集権体制を推進するために、全国に国分と国分尼寺を置くように命じました。同年、法華寺はこの勅命により創建され、尼僧10人が常住し、「摂津法華滅罪之寺」と称したことから、摂津国分尼寺にあたるといわれています。室町時代に入ると、法華寺はいったん廃絶しましたが、応永13年(1406年)に僧了庵慧明(りょうあんえみょう)が再興、寛永16年(1639年)に篤信家であった吉田忠次が堂宇(神仏が祭ってある建物)を寄進し、曹洞宗の禅寺法華寺として知られるようになりました。当時、柴島浄水場付近に再建されましたが、大正3年(1914年)に浄水場建設のため、現在地に移転したそうです。
柴島神社(くにじまじんじゃ)
柴島神社は社伝によると、貞永元年(1232年)9月の大洪水時に、「仲哀天皇の森」という名の高地に避難していた村人のところに、柴に乗った小祠が流れ着き、まもなく水が引き救われたため、以後、産土神として奉祀したのが起源。村社の社格を与えられ、神饌幣帛料供進社に指定されていたところ、明治34年(1901年)4月淀川大改修工事のため、仲哀天皇社とともに現在地に移されたそうです。
この後、淡路駅まで歩きました。
ご訪問していただきありがとうございました。
淀川堤防から見た大阪市街
大阪淀川区の歴史的な街並みを歩いてきました。
当日は曇り、最高気温10.9℃。気持ち良いウォーキングになりました。
集合場所塚本駅近くの公園を出発して十三公園、神津神社、立森端神を経由して三国本町公園まで歩きます。
塚本駅近くの公園
公園を出発して暫く歩くと大野川緑蔭道路を歩きます。
十三公園に着きました。
しばらく休憩後に淀川堤防、神津神社、立森端神、三国本町公園に向かいます。
淀川河川敷を歩きます。
神津神社(かみつじんじゃ)
明治42年、旧七カ村の氏神を合祀した神社で、正面に八幡神社、両脇に十三戎神社、福永稲荷神社の社があります。土地の守護神、厄除の神、武神、殖産興業の神、学問の神様などが祀られているそうです。
立森端神(たつもりずいじん)
立森瑞神は蛇を主神とする小さな神社で、地元では野中の巳さんと呼ばれ親しまれています。大正末ごろに何人かの村人が、夢で大きな蛇に「私をまつってくれれば水不足にならないようにしてあげる」と言われ、これは神のお告げだと思い、おまつりしたのが始まり。蛇は水に縁のあるところから河川の神、七福神の弁財天のお使いとされ、その財という字から商売繁盛の神様として信仰されています。また美しい女神でもあるので、それにあやかって美しくなりたい女性にも多く信仰されるようになったそうです。
三国本町公園に着きました。
三国本町公園で昼食休憩になりました。
昼食休憩後、 さいの木神社、法華寺、柴島神社を経由して淡路駅まで歩きました。
新大阪近くの操作場を通過します。
さいの木神社(さいのきじんじゃ)
1678年4月、奉行所の役人たちが召し捕りにくる直前に当地で自害した中島水道開削工事の責任者の三庄屋の冥福を祈って建てられた社だそうです。
法華寺(ほっけじ)
天平13年(741年)、聖武天皇は国家鎮護を目的とし、中央集権体制を推進するために、全国に国分と国分尼寺を置くように命じました。同年、法華寺はこの勅命により創建され、尼僧10人が常住し、「摂津法華滅罪之寺」と称したことから、摂津国分尼寺にあたるといわれています。室町時代に入ると、法華寺はいったん廃絶しましたが、応永13年(1406年)に僧了庵慧明(りょうあんえみょう)が再興、寛永16年(1639年)に篤信家であった吉田忠次が堂宇(神仏が祭ってある建物)を寄進し、曹洞宗の禅寺法華寺として知られるようになりました。当時、柴島浄水場付近に再建されましたが、大正3年(1914年)に浄水場建設のため、現在地に移転したそうです。
柴島神社(くにじまじんじゃ)
柴島神社は社伝によると、貞永元年(1232年)9月の大洪水時に、「仲哀天皇の森」という名の高地に避難していた村人のところに、柴に乗った小祠が流れ着き、まもなく水が引き救われたため、以後、産土神として奉祀したのが起源。村社の社格を与えられ、神饌幣帛料供進社に指定されていたところ、明治34年(1901年)4月淀川大改修工事のため、仲哀天皇社とともに現在地に移されたそうです。
この後、淡路駅まで歩きました。
ご訪問していただきありがとうございました。