熊野街道をあるく その1(大阪) [ウォーキング京街道_熊野街道]
「熊野街道をあるく その1」に参加してきました。(20170822)
今年のウォーキングの目標の一つ「熊野街道をあるく」に参加しました。
熊野街道
熊野街道は大阪天満の八軒家浜を起点として和歌山の熊野三山に至る街道です。
今回の「熊野街道をあるく」は大阪府内の熊野街道の大阪天満宮から東岸和田までを5回に分けて歩きます。
今回は第1回目として大阪天満宮から八軒屋浜を経由して住吉大社まで歩きました。
当日は晴れ、最高気温33.7℃。暑い中のウォーキングになりました。
集合場所大阪天満宮を出発して、八軒家浜、 坐摩神社行宮、釣鐘屋敷跡、南大江公園、榎木大明神、近松門左衛門墓、高津宮、生國魂神社、吉祥寺を経由して四天王寺まで歩きます。
集合場所の大阪天満宮です。
大阪天満宮(おおさかてんまんぐう)
菅原道真公が祭られている大阪天満宮は大阪市民からは「天満(てんま)の天神さん」と呼ばれ親しまれています。
天満宮を出発して、八軒家浜に向かいます。
天神橋を渡ります。
右側に八軒家浜が見えます。
八軒家浜に着きました。
八軒家浜(はちけんやはま)
八軒屋浜は、京都・伏見と大阪を結ぶ三十石船の発着場で舟運の拠点としてにぎわった場所だそうです。
熊野街道の出発地点です。
坐摩神社行宮、釣鐘屋敷跡を経由します。
坐摩神社行宮(いかすりじんじゃ あんぐう)
坐摩神社の旧社地にこの行宮が建ち、正確には豊磐間戸・奇磐間戸神社。熊野九十九王子の第一王子 窪津王子の跡に建てられているそうです。
釣鐘屋敷跡(つりがねやしきあと)
寛永11年(1634)3代将軍家光が、大坂城へ来たとき、大坂町中の地子銀(じしぎん)(固定資産税)の永久免除を約束した。その恩恵に感謝して釣鐘をつくり町中に時を知らせた。この鐘楼は明治3年撤去され、釣鐘は大阪府庁屋上に「大阪町中時報鐘(おおさかちょうちゅうじほうしょう)」として保存されていた。昭和60年地元有志の努力によって、再び元の釣鐘屋敷地へ戻され、日に3回鐘の音をひびかせている。現地の町名、釣鐘町もこれによるそうです。
熊野街道を歩きます。
南大江公園
大阪市中央区 神崎町の南大江公園。南大江公園の南西に狸坂大明神が鎮座、側に朝日神明宮旧跡の碑がある。坂口王子はこの公園の南西の筋向かい「狸坂」の上り口の教会のある場所とも言われているそうです。
榎木大明神(なつきだいみょうじん)
御祓い筋(熊野街道)と長堀通りの角を北に、石段を登ったところにあります。このあたりは第2次大戦の空襲でも焼け残った古い家屋がまだ残っています。榎木大明神ですから榎(えのき)の木があると思いますが、実は、槐(えんじゅ)です。槐(えんじゅ)は、マメ科の落葉高木で、中国が原産。古くから台湾、日本、韓国などで植栽されている樹木です。巳さん(白蛇)を祀っているそうです。
空堀商店街の近くの熊野街道を歩きます。
近松門左衛門墓を経由して高津宮に向かいます。
近松門左衛門墓(ちかまつもんざえもんのはか)
近松門左衛門(1653年-1724年)は元禄年間を中心として、貞享~享保と約40年間にわたり劇作家として活躍した。竹本義太夫や2代目義太夫のために100作を越える浄瑠璃を著す一方で、坂田藤十郎のために20数作の歌舞伎狂言を著している。「曽根崎心中」、「心中天網島」、「女殺油地獄」などの世話物に代表される作品に描かれる人間の姿は今日に通ずる所も多く、伝統芸能や演劇、映画などの中で再創造され、たくさんの人に感動を与え続けているそうです。
高津宮(こうづぐう)
貞観8年(866年)、清和天皇の勅令によって難波高津宮の遺跡が探され、あったと定められた地に仁徳天皇を
祀る社が建立されたのが始まりとされているそうです。
ここで少し休憩になりました。
休憩後、生國魂神社、吉祥寺を経由して四天王寺に向かいます。
生國魂神社(いくくにたまじんじゃ)
かつては現在の大坂城の地に鎮座し、中世にはその社地に近接して石山本願寺も建立され繁栄したが、石山合戦後の豊臣秀吉による大坂城築城の際に現在地に遷座されている。この生國魂神社が祭神とする生島神(いくしまのかみ)・足島神(たるしまのかみ)は、国土の神霊とされる。両神は平安時代に宮中でも常時奉斎されたほか、新天皇の即位儀礼の1つである難波での八十島祭(やそしままつり)の際にも主神に祀られた重要な神々で、生國魂神社自体もそれら宮中祭祀と深い関わりを持つとされる。また、同様に大坂城地から遷座されたという久太郎町の坐摩神社とともに、難波宮との関わりも推測されている。その後中世・近世を通じても崇敬を受け、戦前の近代社格制度においては最高位の官幣大社に位置づけられた、大阪の代表的な古社の1つだそうです。
吉祥寺(きっしょうじ)
吉祥寺は万松山と号し、1630年(寛永7年))創建の曹洞宗の寺院。創建当時の住職縦鎌師が赤穂藩主浅野主匠頭長矩(あさの たくみのかみ ながのり)と親しい間柄で、この寺は大坂における浅野家の菩提寺であった。長矩候は参勤交代の折には必ずこの寺院に立寄ったという。義士討ち入りの翌年2月、大石内蔵助をはじめとする46士は切腹したが、足軽の寺坂吉右衛門が46士の遺髪、遺爪、鎖かたびら等に銀10両を添えて義士の冥福を祈る碑を建ててくれるよう吉祥寺に依頼したもので、浅野本家広島藩の意向もあり、江戸や赤穂よりも先がけ、1739年(元文4年)建立されたそうです。
四天王寺(してんのうじ)
四天王寺は、推古天皇元年(593)に聖徳太子によって建立。「四天王寺式 伽藍配置」は6~7世紀の大陸の様式を今日に伝える貴重な存在とされているそうです。
ここで昼食休憩になりました。
昼食休憩後は堀越神社、安倍清明神社、阿倍王子神社、万代池公園を経由して住吉大社まで歩きました。
堀越神社(ほりこしじんじゃ)
第33代・推古天皇の時代、四天王寺建立と同時期に、聖徳太子が叔父の第32代・崇峻(すしゅん)天皇を偲んで茶臼山に建立したと伝えられ、四天王寺七宮のひとつに数えられる神社。古くから明治中期まで境内の南沿いに
美しい堀があり、この堀を越えて参詣したので、「堀越」という名がつけられたという。境内には、かつて八軒家の渡辺の津にあった熊野第一王子の窪津王子が祀られている。交通量の多い谷町筋に面しているが、樹齢数百年におよぶ樹木などによって、境内は閑静な雰囲気を保持している。大阪では、「堀越さんは一生に一度の願いを聞いてくださる神さん」との言い伝えがあり、古くから親しまれているそうです。
あべのハルカスを通過します。
路面電車と並行して熊野街道を歩きます。
安倍清明神社に着きました。
安倍清明神社(あべせいめいじんじゃ)
阿倍野区阿倍野で生まれたといわれる平安時代の陰陽師・安倍晴明を祀る神社。阿倍王子神社が管理する末社で、創建は没後2年の寛弘4年(1007年)。現在の社殿は大正10年に晴明公の子孫と称する保田家が旧社地を寄進、大正14年に完成した。約180坪(約600平米)ほどの境内には大阪市の保存樹林が植えられ、「安倍晴明生誕地」の石碑もある。社務所において安倍晴明公顕彰会による占いも受け付けているそうです。
近くにある阿倍王子神社に着きました。
阿倍王子神社(あべおうじじんじゃ)
阿倍王子神社は大阪府大阪市阿倍野区にある神社。かつては阿倍王子(あべのおうじ)といい熊野神社の分霊社である九十九王子のひとつであったそうです。
再び、路面電車と並行して歩きます。
万代池公園に着きました。
ここで、最後の休憩になりました。
万代池公園
休憩後、ゴールの住吉大社に向かいます。
住吉大社(すみよしたいしゃ)
全国に約2,300社ある住吉神社の総本社。下関の住吉神社、博多の住吉神社とともに日本三大住吉の一社。また、毎年初詣の参拝者の多さでも全国的に有名。四棟の本殿は国宝に指定されているそうです。
第一本宮
第二本宮
第三本宮
第四本宮
反橋
ご訪問していただきありがとうございました。
今年のウォーキングの目標の一つ「熊野街道をあるく」に参加しました。
熊野街道
熊野街道は大阪天満の八軒家浜を起点として和歌山の熊野三山に至る街道です。
今回の「熊野街道をあるく」は大阪府内の熊野街道の大阪天満宮から東岸和田までを5回に分けて歩きます。
今回は第1回目として大阪天満宮から八軒屋浜を経由して住吉大社まで歩きました。
当日は晴れ、最高気温33.7℃。暑い中のウォーキングになりました。
集合場所大阪天満宮を出発して、八軒家浜、 坐摩神社行宮、釣鐘屋敷跡、南大江公園、榎木大明神、近松門左衛門墓、高津宮、生國魂神社、吉祥寺を経由して四天王寺まで歩きます。
集合場所の大阪天満宮です。
大阪天満宮(おおさかてんまんぐう)
菅原道真公が祭られている大阪天満宮は大阪市民からは「天満(てんま)の天神さん」と呼ばれ親しまれています。
天満宮を出発して、八軒家浜に向かいます。
天神橋を渡ります。
右側に八軒家浜が見えます。
八軒家浜に着きました。
八軒家浜(はちけんやはま)
八軒屋浜は、京都・伏見と大阪を結ぶ三十石船の発着場で舟運の拠点としてにぎわった場所だそうです。
熊野街道の出発地点です。
坐摩神社行宮、釣鐘屋敷跡を経由します。
坐摩神社行宮(いかすりじんじゃ あんぐう)
坐摩神社の旧社地にこの行宮が建ち、正確には豊磐間戸・奇磐間戸神社。熊野九十九王子の第一王子 窪津王子の跡に建てられているそうです。
釣鐘屋敷跡(つりがねやしきあと)
寛永11年(1634)3代将軍家光が、大坂城へ来たとき、大坂町中の地子銀(じしぎん)(固定資産税)の永久免除を約束した。その恩恵に感謝して釣鐘をつくり町中に時を知らせた。この鐘楼は明治3年撤去され、釣鐘は大阪府庁屋上に「大阪町中時報鐘(おおさかちょうちゅうじほうしょう)」として保存されていた。昭和60年地元有志の努力によって、再び元の釣鐘屋敷地へ戻され、日に3回鐘の音をひびかせている。現地の町名、釣鐘町もこれによるそうです。
熊野街道を歩きます。
南大江公園
大阪市中央区 神崎町の南大江公園。南大江公園の南西に狸坂大明神が鎮座、側に朝日神明宮旧跡の碑がある。坂口王子はこの公園の南西の筋向かい「狸坂」の上り口の教会のある場所とも言われているそうです。
榎木大明神(なつきだいみょうじん)
御祓い筋(熊野街道)と長堀通りの角を北に、石段を登ったところにあります。このあたりは第2次大戦の空襲でも焼け残った古い家屋がまだ残っています。榎木大明神ですから榎(えのき)の木があると思いますが、実は、槐(えんじゅ)です。槐(えんじゅ)は、マメ科の落葉高木で、中国が原産。古くから台湾、日本、韓国などで植栽されている樹木です。巳さん(白蛇)を祀っているそうです。
空堀商店街の近くの熊野街道を歩きます。
近松門左衛門墓を経由して高津宮に向かいます。
近松門左衛門墓(ちかまつもんざえもんのはか)
近松門左衛門(1653年-1724年)は元禄年間を中心として、貞享~享保と約40年間にわたり劇作家として活躍した。竹本義太夫や2代目義太夫のために100作を越える浄瑠璃を著す一方で、坂田藤十郎のために20数作の歌舞伎狂言を著している。「曽根崎心中」、「心中天網島」、「女殺油地獄」などの世話物に代表される作品に描かれる人間の姿は今日に通ずる所も多く、伝統芸能や演劇、映画などの中で再創造され、たくさんの人に感動を与え続けているそうです。
高津宮(こうづぐう)
貞観8年(866年)、清和天皇の勅令によって難波高津宮の遺跡が探され、あったと定められた地に仁徳天皇を
祀る社が建立されたのが始まりとされているそうです。
ここで少し休憩になりました。
休憩後、生國魂神社、吉祥寺を経由して四天王寺に向かいます。
生國魂神社(いくくにたまじんじゃ)
かつては現在の大坂城の地に鎮座し、中世にはその社地に近接して石山本願寺も建立され繁栄したが、石山合戦後の豊臣秀吉による大坂城築城の際に現在地に遷座されている。この生國魂神社が祭神とする生島神(いくしまのかみ)・足島神(たるしまのかみ)は、国土の神霊とされる。両神は平安時代に宮中でも常時奉斎されたほか、新天皇の即位儀礼の1つである難波での八十島祭(やそしままつり)の際にも主神に祀られた重要な神々で、生國魂神社自体もそれら宮中祭祀と深い関わりを持つとされる。また、同様に大坂城地から遷座されたという久太郎町の坐摩神社とともに、難波宮との関わりも推測されている。その後中世・近世を通じても崇敬を受け、戦前の近代社格制度においては最高位の官幣大社に位置づけられた、大阪の代表的な古社の1つだそうです。
吉祥寺(きっしょうじ)
吉祥寺は万松山と号し、1630年(寛永7年))創建の曹洞宗の寺院。創建当時の住職縦鎌師が赤穂藩主浅野主匠頭長矩(あさの たくみのかみ ながのり)と親しい間柄で、この寺は大坂における浅野家の菩提寺であった。長矩候は参勤交代の折には必ずこの寺院に立寄ったという。義士討ち入りの翌年2月、大石内蔵助をはじめとする46士は切腹したが、足軽の寺坂吉右衛門が46士の遺髪、遺爪、鎖かたびら等に銀10両を添えて義士の冥福を祈る碑を建ててくれるよう吉祥寺に依頼したもので、浅野本家広島藩の意向もあり、江戸や赤穂よりも先がけ、1739年(元文4年)建立されたそうです。
四天王寺(してんのうじ)
四天王寺は、推古天皇元年(593)に聖徳太子によって建立。「四天王寺式 伽藍配置」は6~7世紀の大陸の様式を今日に伝える貴重な存在とされているそうです。
ここで昼食休憩になりました。
昼食休憩後は堀越神社、安倍清明神社、阿倍王子神社、万代池公園を経由して住吉大社まで歩きました。
堀越神社(ほりこしじんじゃ)
第33代・推古天皇の時代、四天王寺建立と同時期に、聖徳太子が叔父の第32代・崇峻(すしゅん)天皇を偲んで茶臼山に建立したと伝えられ、四天王寺七宮のひとつに数えられる神社。古くから明治中期まで境内の南沿いに
美しい堀があり、この堀を越えて参詣したので、「堀越」という名がつけられたという。境内には、かつて八軒家の渡辺の津にあった熊野第一王子の窪津王子が祀られている。交通量の多い谷町筋に面しているが、樹齢数百年におよぶ樹木などによって、境内は閑静な雰囲気を保持している。大阪では、「堀越さんは一生に一度の願いを聞いてくださる神さん」との言い伝えがあり、古くから親しまれているそうです。
あべのハルカスを通過します。
路面電車と並行して熊野街道を歩きます。
安倍清明神社に着きました。
安倍清明神社(あべせいめいじんじゃ)
阿倍野区阿倍野で生まれたといわれる平安時代の陰陽師・安倍晴明を祀る神社。阿倍王子神社が管理する末社で、創建は没後2年の寛弘4年(1007年)。現在の社殿は大正10年に晴明公の子孫と称する保田家が旧社地を寄進、大正14年に完成した。約180坪(約600平米)ほどの境内には大阪市の保存樹林が植えられ、「安倍晴明生誕地」の石碑もある。社務所において安倍晴明公顕彰会による占いも受け付けているそうです。
近くにある阿倍王子神社に着きました。
阿倍王子神社(あべおうじじんじゃ)
阿倍王子神社は大阪府大阪市阿倍野区にある神社。かつては阿倍王子(あべのおうじ)といい熊野神社の分霊社である九十九王子のひとつであったそうです。
再び、路面電車と並行して歩きます。
万代池公園に着きました。
ここで、最後の休憩になりました。
万代池公園
休憩後、ゴールの住吉大社に向かいます。
住吉大社(すみよしたいしゃ)
全国に約2,300社ある住吉神社の総本社。下関の住吉神社、博多の住吉神社とともに日本三大住吉の一社。また、毎年初詣の参拝者の多さでも全国的に有名。四棟の本殿は国宝に指定されているそうです。
第一本宮
第二本宮
第三本宮
第四本宮
反橋
ご訪問していただきありがとうございました。